boueibu


「お前って、たばこなんか吸ってたっけ?」
ざわめく居酒屋で久しぶりに会った蔵王は、向かいの席でそう言って首を傾げる。成人してなおどこか女性的な容姿を残している彼は、そういう仕草も様になる。まるでそれが不本意だとでもいうかのように、鳴子はため息をついた。
「最近吸い始めたんです」
それを聞いた蔵王は、鳴子の前にある灰皿を指先でとんとん叩いてみせた。
「喫煙者は今時モテないぜ?ま、硫黄くらい金があって顔もよければそんなの関係ねーかもしれねーけど」
「立は吸うつもりは?」
「ねーよ、だいたいお前こそ、『たばこなんて金の無駄ですよ』って言いそうなのに」
「……そうなんですよね……」
蔵王の言うとおりだ。たばこなんて、百害あって一利なし、吸えば吸うだけ金の無駄になることはよくよくわかっている、はずなのに。
「え、なに、その含みのある言い方……つーかあれか、由布院先輩の影響か?」
親友の勘の良さに、鳴子はため息をつくことしかできなかった。





「たばこなんて金の無駄ですよ」
見下ろしたひとつ年上の先輩が、視線だけをこちらに向ける。その指先には白いたばこがある。もう随分と短くなっているそれを携帯灰皿に押し付けて、由布院はへらりと笑った。
「おかえり、硫黄」
「……今後吸うときはベランダに出てください」
「はいはい」
くたびれたスウェット姿の由布院は寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら立ち上がった。



知り合った当初、高校時代から信じられないくらいに怠惰な先輩ではあったけれど、案の定就職活動すら面倒になったのか、夏の暑さがだいぶ引きはじめたある日、鳴子の部屋を訪ねてきてこう言った。
「俺も投資やってみたいんだけど」
鳴子が投資をしていると周囲に言ったとき、たいていの人間は「働かなくても金が入ってきて羨ましい」と言って笑う。確かに決まった時間に決まった場所に行って働く必要はないが、投資にだって、多くの労力がかかる。決して適当にマウスをクリックしていればなんとかなるような代物ではないのだ。もし由布院が彼らのように投資を「楽して稼げる」程度に考えているのなら追い返そうと思いながら、鳴子はなぜですか、と尋ねる。
「いや、そりゃあ、わかるだろ」
由布院は相変わらずぼさぼさの髪をかきあげた。鳴子はため息をつく。
「『投資は楽して稼げそう』だからですか?」
「や、それはねーだろ、高校んときから、お前情報収集だのなんだのすげー大変そうだったじゃん、楽だなんて思ってねー、けど」
「けど?」
「やっぱ会社に行くのは面倒くさいっつーか」
まあ、なんとなく予想がついていた回答に、鳴子はもう一度ため息をついた。高校生の頃は、学祭で投資に関する啓蒙活動をしたいと申し出たことがある(あの時は結局カレー屋になったが)。誰かに投資に関する知識を教えることを、拒否する気はなかった。
「金がなくても生きていければいいんだけどなあ」
「何言ってるんですか、金がすべてでしょう」
由布院はへらっと笑って、変わってねーな、と呟いた。あなたも変わっていませんよ、と返すと、そりゃ光栄だ、と目を見られた。なにが光栄なのかさっぱりわからない。
話を聞けば、なんと由布院は全部で三社から内定をもらい、しかしそれを全部蹴ってしまったのだと言う。このご時世にもったいないことだ、なんて、就職活動をする気もない自分が言うことでもない気がするが。
「なんか、だめなんだよな、遅かれ速かれだるくなって辞めるか辞めさせられるかすんなら、そもそも就職なんかしねーほうがいい気がしてさ」
就職難に喘ぐ学生には絶対に聞かせられないようなことを言いながら、由布院は頬づえをついた。
「投資ならまあ、失敗しても人には迷惑かけねーだろ」
「……結果として誰かに頼るのなら、迷惑をかけることになると思いますけど」
鳴子が鬼怒川の顔を思い出しながら言うと、由布院が瞬きをした。
「硫黄は?迷惑だと思ってる?」
「いえ」
そんなはずはない。なぜなら。
「新たなビジネスチャンスだと思っていますから」



その日から、由布院は鳴子の部屋に通い始めた。みるみるうちに彼が家にやってくる頻度は上がり、そして気がつけば由布院は鳴子と同居していると言ってもいいような状態になっていた。
投資の方もなかなか調子がいい。元来由布院は普段はやる気がないくせに、やる気さえ出せばなんでもこなせる器用さと勘のよさがあった。鳴子が提案した「新たなビジネスチャンス」とは、由布院が出した収益のうち、鳴子に指導料として十五%を支払うというやや無茶な契約のことであったが、それを差し引いたとしても、由布院はやすやすと一日で新入社員の半月分の給料分くらいは稼ぐことができるようになっていた。
「まさかここまでの才能があるとは」
一日の取引を終えて、パソコン画面を見つめながら鳴子はつぶやいた。由布院はキッチンで夕飯がてらチャーハンを作っている。これがまたなかなか料理もうまいのだ。ただし由布院はマイペース人間なので、作るのは遅い。
「俺はお前みたいに何億とかはいらねーから、これぐらい稼げれば万々歳なんだけど」
山盛りのチャーハンの皿を鳴子の前に出しながら、由布院は言った。
「これほどの才能があるのに勿体無い……」
「その日暮らせりゃいいんだよ、俺は」
由布院は彼らしくそう言って、自分のチャーハンも座卓に置く。よっこらせ、と言いながらどっかりと座った。
彼は面倒くさがりだが、面倒くさがりなりに家事などもしてくれる。この部屋に居座るからには、ということだろうが、おかげで鳴子はすっかり日々の暮らしが楽になってしまった。他人との共同生活なんて積極的には望むつもりはなかったのに、由布院と一緒にいるのは決して不愉快ではない。由布院が来てから、鳴子は外に出かける頻度が減ってしまった。
由布院はなんだって怠けたがるが、結果として誰かに世話を焼いてもらえているのは、結局この男のそういう柔らかなところのせいなのだと思う。……ずるい男だとも思うが。



鳴子はけたたましく鳴り響くアラート音に眉を寄せた。経済新聞から顔を上げてそちらの画面をチェックすると、損失が出ている。十二万円。株価が下がると自分の機嫌も下がる。資産が何億あろうとも、損失は損失だ。鳴子が大きくため息をついたところで、たばこを吸いにベランダに出ていた由布院が戻ってきた。片手に携帯灰皿、もう片方にひしゃげた白い箱を持っている。
たばこなんて、無駄遣いのほかのなにものでもない。一箱あたり四百円以上、たったの二十本。健康も損ねるし、この嫌煙の世の中では、吸っているだけで疎まれてしまう。
「由布院先輩は煙だけに煙がお好きなんですか」
損失に対するいらだちのせいで、声には棘があった。こんなの、八つ当たりだ。それを聞いた由布院はスウェットのポケットにたばこの箱を突っ込むと、こちらに近づいてくる。ふわりとたばこのにおいがして、思わず眉間にしわを寄せた。
「さあ、俺が硫黄、って名前でもたばこは吸ってたと思うけど」
鳴子のいらだちなんてまるで意に介さず、由布院は鳴子の前の画面をのぞき込んだ。
「あーあ、ちょっとマイナス、だからイライラしてんの?」
あっさり見抜かれて、それでますます感情を逆なでされた気持ちになる。由布院は鳴子が座っているデスクチェアにくっつくくらいに近くにいる。この男は、他人と距離が近いのだ。たぶん、いつでも誰とでも。
「なあ、吸ってみる?」
挙句、差し出されたのはたばこの箱だった。
「私がたばこを嫌っていることは」
「ご存知だけど、なんとなく?」
由布院が笑うのがまた憎たらしくて、鳴子は差出された白いそれを摘んでしまった。たばこにストレス解消を求める人間がいることは知っていた。その効果を求めてしまったのかもしれない。鳴子は立ち上がってベランダに向かう。それを追うように由布院がついてくる。外はすっかり夜で、星がよく見えていた。
「すこし、息吸って」
たばこをくわえた鳴子は由布院の指示に従った。すると由布院が安いライターを着火して、鳴子のそれに近づける。先端があわく赤く光る。
「もっかい吸って」
由布院の言い方が妙に柔らかくて、鳴子は促されるまま煙を吸った。肺に悪そうなものがたまっていく感覚に、頭の後ろのほうがぞわぞわと熱くなる。
「初めてにしてはうまいな」
「そうですか?」
鳴子は口から煙を吐き出しながら、由布院のほうを見る。由布院は鳴子の手のたばこと鳴子を交互に見て、それからまたふと笑った。
「なんかさ」
「なんですか」
「お前が吸ってんの、ちょっと興奮すんな」
「なに言ってるんですか」
「きれーなものを汚してる感じ、する」
これだから由布院煙という男はずるい。唇に浮かんだ笑みが憎らしくてしかたがないので、鳴子は片手にたばこを持ったまま、由布院のくちびるに口付けた。
「吸わねえのかよ、もったいない」
ところが由布院は案の定キスに対する反応は薄く、鳴子はまた忸怩たる気分になった。半ばヤケになってたばこを吸うと、思い切り煙を吸い込んでしまい思い切り咳き込んでしまった。それを見た由布院が笑う。月が眩しくて、鳴子は目を細める。



「損失したあとに吸うと、少し気持ちが落ち着くような気がして、ついつい吸ってしまって」
蔵王がなんだか憐れむような目を向けてきているのはわかっていたが、鳴子はそれについては言及しないことにした。
「まあ、硫黄がいいならいいと思うけどさ。そーいや由布院先輩元気にしてんの?」
カシスオレンジが入っていたグラスを机の端に置きながら、蔵王は少し上目遣いになった。鳴子はそれを見下ろしてかぶりを振る。
「丁度三日前に出て行きました」
「え?」
「まあ、私も投資に関してはだいたいのことを教え尽くしたので……」
蔵王は注文用のタブレットを操作し新しく梅酒ソーダ割りを注文して、それからふたたびたっぷりと憐れむ目を鳴子に向ける。
「なかなか難儀だな」
「なかなか難儀です」
何度目かわからぬため息をつく。もうグラスのなかのハイボールは無くなっていて、どうせならさっき蔵王と一緒に新しいドリンクを頼めばよかった、と鳴子は後悔していた。きっと由布院はもう自分を頼らないのだろう。二度と。なんの利益にもならない後悔をするのは嫌いなのに、後悔ばかりしている。
だから由布院煙はずるい男なのだ。

4/55ページ
    スキ