boueibu



阿古哉リクエストの有名パティシエの名前を冠したマカロンをガラスのコンポートのうえに積み上げながら、そっと息を吐く。フランボワーズ、ピスタチオ、ショコラにシトロン。色鮮やかで繊細なつくりのそれを高く積むことは、あまり手先が器用ではない僕にはそれなりに労力を使う作業だ。てっぺんに桃色のマカロンを置いて、ひとまずこれは一段落。それからこの味に似合う紅茶について考える。まあ、シンプルにダージリンかな。抹茶味のマカロンもあるから、緑茶もいいかもしれない。錦史郎には緑茶で出そうかな。結論が出たところで茶葉の缶を棚から探す。
不意に姿勢を正したのは、腹が鳴りそうな気がしたからだった。こうすると、無様な音を立てるのが防げるような気がして、僕はしばしばそうして背筋を伸ばす。昼休みに食べた白身魚のポワレなんかもうもっくに消化されて、胃の中がからっぽになっている。まあ、はっきり言ってしまえば、僕はどうしようもなく今、お腹がすいていた。
「有馬さん、まだですか?」
「今出すよ」
阿古哉の催促に振り返って、マカロンを応接セットのテーブルまで運ぶ。それから今度は紅茶だ。ガラスポットのなか、茶葉がひらいて色も香りもしっかりでてきたことを確認して、僕はそれをカップに注ぐ。
「お待たせしました」
「お待ちしておりました」
「はいはい」
阿古哉の当てつけがましい声をいなして、錦史郎のほうに声をかける。
「錦史郎、休憩にしよう」
「……そうだな」
珍しく素直に僕の進言を聞き入れ、会長用の大きな机から立ち上がった錦史郎がこっちに近付いてくる。僕は湯呑みに緑茶を注ぎ、錦史郎の前に茶托と共に差し出した。
「頂きます」
阿古哉がそう言って、さっそくてっぺんのマカロンに手を伸ばす。僕はそれを見ながら考えていた。お腹が空いた。マカロンなんかじゃなくて、ご飯とか、パンとか、甘いものならせめて大福みたいな、お腹にたまるものが食べたい。
大人っぽいだのなんだのと人に言われることはあるけれど、僕は十七歳の男子高校生だ。正直に言うと、いつもお腹をすかせている。
高校に入って、生徒副会長をつとめて、錦史郎や阿古哉のそばにいるようになって、なにがいちばん辛いかというと、彼らが求めるお上品な態度を取らなければいけないことだった。早弁だの、お昼のご飯のおかわりだの、おやつに菓子パンだの、そういう庶民じみた振る舞いが許される空間ではなかった。一般生徒は学校の食堂でラーメンとチャーハンセット(餃子五個付き)が食べられることが羨ましくて仕方がない。生徒会は食堂でも特別メニューが供される。お上品な味の、お上品な量のそれは、田舎町の高校の食堂のレベルを超えた品ではあるのだけれど、とにかく、量が足りなかった。錦史郎や阿古哉があれで満足していることが、未だに信じられない。ところがふたりは、今も甘くて軽くてちっとも腹を満たさないマカロンで満足しているようだった。
今日はカエルラ・アダマスとしての出動がなかったからまだよかったな。僕はふたりが飲み終わったティーカップを片付けながらそう思った。まあ、カエルラ・アダマスって言っても、自分が敵と直接戦うわけじゃないんだけど、変身して、怪人を作って、影からそれを見守るっていうのは、なにもしないよりは体力を使う。ないならないほうが、お腹はすかない。
ティータイムの後片付けをしてしまうと、僕も副会長としての仕事をしなければいけない。といっても、会長と会計兼初期に比べると、実は副会長って仕事らしい仕事がないんだけど。会長や会計兼書記が優秀過ぎるんだろうな、きっと。
「錦史郎、まだ残ってる仕事、ある?」
そこでひとまず錦史郎に尋ねてみることにした。書類を読むことに没頭していた彼は少しだけ眉根を寄せてこちらを見上げ、机の上の書類の束をひとつこちらに差し出した。
「誤字や脱字がないか確認してくれ」
「かしこまりました」
応接セットに戻って、書類を留めるクリップを外し、一ページ目から読んでいく。どうやらこれは、先日の生徒総会の議事録らしい。錦史郎は「低俗な要望ばかりだ」と鼻を鳴らしていたけれど、まあ、為政者が下の人間の話を聞くのは悪いことではない。
「有馬さん」
「ん?」
錦史郎が作った書類にそうそうミスがあるわけもなく、順調に三ページほど進んだところで阿古哉に声をかけられる。
「僕、そろそろ帰ります」
「ああ、お疲れ様」
見れば阿古哉はノートパソコンを閉じてしまっている。今日のノルマは達成した、ってとこなんだろう。阿古哉が錦史郎のほうへ報告に行く背中を眺めて、それから僕は今の時刻を確認する。
もう五時近い。
そりゃあ腹も減るわけだなあ、と思う。やっぱりマカロンの二つや三つじゃ腹の足しになんてならないんだ。僕はこっそりお腹をさすった。
「では、お先に失礼します」
阿古哉はそう言ってさっさと生徒会室を出て行ってしまう。部屋の中には、僕と錦史郎だけになる。静まり返った部屋で、僕は腹に力を入れて姿勢を正した。
その、瞬間。
「っ……」
ぐぅぅ、とあられもない音がした。かっと顔が赤くなるのが自分でもわかった。ここまでちゃんと我慢できてたはずなのに、阿古哉が目の前にいなかっただけマシか、いやでも、そういえば錦史郎には聞こえていたのだろうか。
僕は恐る恐る書類から顔を上げて錦史郎のほうを伺う。錦史郎は向こうの机で、相変わらず表情を変えずに仕事をしている。よかった、聞こえてなかったみたいだ。ほっとして息を吐き出すと、不意に錦史郎がこちらを見た。
「有馬」
「なに?」
「腹が減っているのか?」
「う……」
どうやらしっかり聞かれていたらしい。僕は今度こそため息をついた。
「もう夕方だからね」
「さっきマカロンを食べたばかりだろう」
マカロンみたいなお上品な食べ物じゃ、全然お腹は膨れないんだよ、錦史郎、少なくとも僕は。
「そうだね」
言い訳がましいことを言うのもなんだか違うような気がして同意しておくと、錦史郎は眉を寄せた。
「釈然としないように見えるな」
「そんなことないよ」
「…………」
錦史郎がいぶかしげにこちらを見る。僕は余計なことを言う気にはなれなくて、書類に視線を戻す。たぶん、気が緩んだんだと思う。また、ぐぅぅ、と唸るような腹の音が鳴った。今度こそ耳まで熱くなるのがわかって、僕は顔をふかく伏せるけれど、錦史郎には確実に聞かれてしまっただろう。
「有馬」
「……はい」
「そんなに腹が減っているなら、今日はもう終わりにしよう」
「や、別にその必要は」
「そんなに腹を鳴らされては集中できない」
そりゃそうだ。僕は自分の大食いを心底恥じた。いや、たぶんだけど、男子高校生としては人並み程度の食欲なんだよ、たぶん。錦史郎が少食なんだ。……と、思う。
錦史郎は僕が凹んでいるのを見て、ふ、と口許を緩めた。
「なにか食べたいものでもあるのか?」
「食べたいものって」
大盛りのカツ丼。もやしがたっぷり乗ったラーメン。ピザ。フライドポテト。チャーハン。ステーキ。ああ、パンケーキもいいな。カレーはやめておこう。食べたいものなら頭の中に次々と浮かぶ。思わずつばを飲み込むと、錦史郎は書類の端を揃えて立ち上がりながら、「そんなに腹が減っているのか」と笑う。錦史郎が笑うのは珍しいので、まあこれがちょっと嘲笑が混じったものでも、僕は悪くはない気分だった。
錦史郎がかばんを片手にこちらに近付いてくるので、僕も身支度を整えてソファから立ち上がった。途端にまた腹が鳴る。二度あることは三度あるというか、二回聞かれてどうでもよくなったのか。抑えの効かない腹の虫を叱咤したところでどうしようもなく、錦史郎がついに吹き出す。
「なにか食べに行こう」
言いながら錦史郎は僕の腹をするりと撫でた。恥ずかしくて死にそう。勘弁してほしい。
「……錦史郎はお腹すいてないんでしょ」
「紅茶くらいなら飲める」
付き合わせるのもなんだかなあ、とは思うんだけど、錦史郎がそうしたがっているようなので、僕は頷いた。たまには高校生らしく寄り道するのも悪くはないかもしれない。寄り道は高速で禁止されているわけじゃないしね。
「じゃあ、……パンケーキ、かな」
錦史郎が紅茶を所望しているのを踏まえて、僕はそう言った。錦史郎が満足げに頷く。はしゃぐように腹の虫がまた鳴いて、そろそろ本気で消えてなくなりたい。



有馬の腹の虫があまりにも活発に鳴くものだから、生徒会の仕事を切り上げることにした。一度腹を鳴らすごとにどんどん赤くなっていく有馬の顔がおかしかった、と言ったらまた赤くなるのだろうか。
女性ばかりの店内で、有馬は店の名物たる苺がたくさん載ったパンケーキを注文した。夕飯前なのによくこんなものが食べられるな。しきりに「錦史郎は食べないの」と尋ねられたが、私は紅茶だけを頼む。
パンケーキは焼くのに時間がかかるらしい。待ちきれない様子の有馬は、しかしそれを隠そうとしているのか、なんだか妙な顔になってしまっている。
「有馬」
「なに?」
「……いや」
いつも淡々としている有馬が口許を緩めているのが新鮮で、思わず有馬の顔を眺めてしまう。有馬は時折店内に目線を向けて、どうやら店員が来るのを伺っているらしい。
「二十分かかると言っていただろう」
「う、……そうだね」
有馬が目を伏せる。いつも優しげな色を浮かべている目尻のまつげがこちらからよく見えた。
「……いつもならもう少し我慢できたんだけど」
「いつもこんなに腹をすかしているのか?」
「まあ、……うん」
それは知らなかった。昼食と彼が供する三時過ぎの間食で、自分の腹は事足りているからだ。だが、一般的な男子高校生が他よりすぐ腹が減ることは知っている。クラスメイトたちは、しばしば早弁と呼ばれる愚かな真似をし、勿論昼食も食べ、帰りにコンビニエンスストアで買い食いをしているらしい。しかし自分ではその必要を感じなかったし、有馬だってそんな真似をしてはいなかった。そういうものだと思っていた。
「我慢していた?」
「そういうわけじゃないよ」
有馬は否定するが、これをおいそれと鵜呑みにする気にはなれなかった。私がそれについて言及しようとした瞬間、目の前に三段に重なったパンケーキが差し出された。
「ご注文のパンケーキになります」
女性店員はにこやかにそう言った。有馬は感嘆のため息をつく。確かにそれは見事だった。一枚三センチはあろうかというケーキはどれもが黄金色に輝くようで、控えめに添えられた生クリームとたっぷりのいちごがそれらを彩っている。こういうものを楽しむのは女性ばかりだと思っていたけれど、こうして目の前に出されると、確かに私にも魅力的だ。
「ごゆっくりお楽しみください」
店員が離れていくと、ついに有馬は「ああ……」と声を出した。待ち望んだものを目の前にして、とろけるような声だった。よだれでも垂らしやしないだろうか、と心配になってしまう。
「いただきます」
それでもきちんと手を合わせて、有馬はフォークとナイフを取った。ごくんと喉を鳴らして、一段目のケーキの上のバターを塗りたくり、切り分けて、さっそく一切れを口の中に入れる。
「おいしい……っ」
「だろうな」
見ればわかる。有馬はすっかりそれに夢中だった。目を輝かせて、頬を紅潮させて、味わいたい気持ちと早く食べてしまいたい気持ちの間でどろどろになっている。私は紅茶を飲んで、せっかくなので有馬のことを眺めることにした。どうせ有馬はこちらに構う余裕を無くしている。
いつも昼食を共にしているが、有馬がこんなに美味しそうにものを食べるのは初めて見た。もっと高級な材料を使った、もっと品のある料理のまえで、有馬はこんな顔をしない。しかし、この黄色いパンケーキの前では、確かにすました顔をしているほうが野暮なのかもしれなかった。
気がつけば有馬は三枚のパンケーキのうち、二枚を食べ終えていた。どうやらようやく落ち着いたらしく、手が止まる。ふう、と息を吐きだして、それからこちらを見る。落ち着いたとはいえ、まだ顔が緩い。
「ごめんね錦史郎、夢中になっちゃって」
「構わない」
見ていて決して不快ではなかった。むしろ……、いや、そんなことはどうでもいい。有馬は最後の一枚を大切そうに切り分けて、それから一切れをフォークに突き刺し、皿の隅に持ってある生クリームといちごをその上に丁寧に乗せた。
「錦史郎もひとくち食べる?」
そして有馬はそのパンケーキをこちらに差し出した。そうされて断る理由もなく、口を開けかけた私は、ここがどういうところかようやく思い出した。女性ばかりのにぎやかな店内、甘ったるいにおい。
「場を弁えろ」
「あ」
どうやら有馬も深く考えての行動だったわけではないらしい。我に返ったような顔をして、結局フォークの柄の方をこちらに向けてきた。それを受け取り、パンケーキを口の中に入れる。
それはパンケーキとは名乗っているが、未知のものだった。口の中にいれると、しゅわりと溶けるような感触がある。口の中に濃厚な卵の味が広がり、甘すぎない生クリームと酸味のあるいちごと相まって、ふわりと夢見心地にさせるような感覚があった。
「おいしい?」
「ああ」
頷くと、有馬は嬉しそうに笑った。自分自身が褒められたわけでもないのに。有馬にフォークを返すと、有馬は大切そうにまたパンケーキをフォークに刺して、それを口に運ぶ。目元も口許もすっかり緩んでしまっている。ふたりでいるときにこんな顔をされるのは初めてだ。
有馬には忘れたと言っているけれど、本当は彼と初めてあった日のことを覚えている。あっちゃんが隣にいて、むっつりと眉を寄せていた有馬に手を差し出したあの日。あの頃私は今よりずっと幼く、有馬はずっと無愛想だった。私と――そしてあっちゃんは、突然できたこの友人を笑わせようと、こっそりあれこれ話し合ったものだった。おいしいものを食べよう、楽しいことをしよう。性善説を心から信じ、裏切りということばすら知らなかったあの頃。いろんなことを試したけれど、有馬はなかなか笑わなくて、だけど、最後、他愛のない会話の最中に、彼はようやく笑ったのだった。あれは私が担任の老教師の口ぶりを大げさに真似たときだっただろうか。
有馬のいまの緩んだ表情は、あのとき以来のものだと言ってもいい。こんなにも幸せそうな顔ができるものなのか。あの頃は私があの顔にさせることができた。今有馬にあの顔をさせているのは、パンケーキだ。
気がつけば有馬の手元にあるのは残り一切れになっていた。有馬はそれを食べる踏ん切りが付かないのか、しばらくそれを見つめている。私は「食べないのか」と尋ねた。少し剣呑な声になってしまったかもしれない。有馬はこちらを見て、それから少しだけ首を傾げた。
「錦史郎、食べる?」
まさかそんなことを言われるとは思わず、私は目を瞠るしかない。あれだけおいしいと言っていたものを、容易に人に渡そうとできるものなのか。僕はうんともすんとも言わず、有馬がふたたび差し出してきたフォークを見つめる。
「これ、おいしかったでしょ」
「そうだが」
「錦史郎のおかげでこの店に来られたから。食べてよ」
有馬はまた私のほうにパンケーキを向けている。学ばない男だ、と心のなかで悪態をつく。店員はみなキッチンに引っ込んでいるようだし、客は各々のパンケーキやフレンチトーストに夢中とはいえ、やはりそれで食べる気にはならない。誰に見られたものか、わかったものではないからだ。
「有馬」
「あ、ごめん」
有馬は慌ててふたたびフォークの柄をこちらに向けた。それを受け取り一口食べると、有馬は満足気に笑っている。
「錦史郎、すごく幸せそうな顔するね」
有馬にそう言われて、思わず口許を抑える。そんなはずがない。私はこんなもので。……いや、確かにこれは幸福の味だった。こどものころを思い出しても不愉快にならない程度には。
「……うるさい」
呟くと有馬は苦笑した。結局同じものをたべて同じような顔をしていたらしい私たちは、それをからかいあうことはまだできない。

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