boueibu
顔が近い。顔が近い。
由布院先輩を見上げながら、それだけしか考えられなかった。相変わらず眠そうな目をして、彼はじっとこちらの目を見ている。鬼怒川先輩とのやりとりを見ていて、パーソナルスペースのせまそうな人だとは思っていたが、その読みはまったく外れていなかったようだ(そもそも有基といい、立といい、防衛部はみんなパーソナルスペースがやたらと狭い)。
目をそらすと負けのような気がしたが、そろそろ耐え難かった。ねむそうな目は、覇気もなくこっちを見ているだけだ。なんの意図があるのかすらわからない。
「あの、由布院先輩、なんなんですか」
私はついに彼の名前を呼んだ。勝ちだ負けだと言っている場合ではないほど、居心地が悪かった。由布院先輩はぱちぱちと瞬きをしてから、唇の端と端をほんの少しだけ持ち上げた。どうやら笑ったつもりらしい。
「やー、うちの部って、有基も熱史も立もまつげなげーけど、お前もまつげなげーなと思って」
……これだけこちらを動揺させておいて、言うことといえばこれである。私はぐっと黙ることしかできなかった。彼の言動になにかと振り回されがちな自覚はあるし、それはどうにも腑に落ちない。
「あなたはすぐそういうことを言いますね」
それで私は、できるだけ自然な動きになるように目をそらした。
「合宿の時、あの草津会長にもなにか言ってたでしょう」
「え、なんか言ったっけ」
「いってましたよ、『いい匂いがする』みたいなこと」
「まじ?全然覚えてない」
飛びかかったうえで押し倒してそんなことを言って、相手が女子だったら大問題になっていた。事案発生だ。いや、あの会長だってずいぶんと不快感を表していた気がするが。
「そういうことを言うのは無意識なんですか?」
「意識してなにかいうこともねーな」
「由布院先輩」
私は彼の顔を見ないようにしながら、注意深く口を開く。
「先輩はきっと、明日には私にこんなに顔を近づけてまでまつげの長さに言及したことも忘れるんでしょうね」
「は?さすがに明日までは覚えてるだろ」
そういう問題ではないが、ここでこの人の発言に乗るのはよくないことだということはよくわかっていた。
「すねてんの?いお」
名前を呼んだ声が妙に丁寧で、甘ったるく聞こえて、私は反射的に顔を上げた。しまった、と思った時には、先輩の意地の悪そうな笑顔が視界に入っている。
「じゃあ、忘れないようにしないとな」
顔が近い。顔が、ちかい!
瞬間、私と由布院先輩は唇を合わせていた。それはほんのまばたき一回分にも満たないような長さで、すぐに由布院先輩は離れていく。
「これで当分忘れない」
「意味が!」
わかりません!と言う前に、由布院先輩が自分の唇を舐めるのが見えて、思わず言葉をのみこんでしまう。ありえない、こんな、本当に意味がわからない。
由布院先輩が口笛を吹いている。私たちの中で口笛がうまく吹けるのは有基と由布院先輩と立で、私と鬼怒川先輩はすかすかした音しか出せない。由布院先輩はなぜか童謡をよく奏でた。今日はうさぎが跳ねるとか跳ねないとか、そういう歌をピィピィ吹いている。
「だってメロディが単純だろ」
「そうなんですか」
「アイドルの歌なんか吹くのめんどくさいし」
また由布院先輩の「めんどくさい」が出る。私はあともう少しで目標売却価格に達する株を、結局売ることに決めた。
また由布院先輩が、今度はカラスの歌を吹き始める。私は尖らせた唇をぼんやり見ている。
あの日由布院先輩がキスをしてきてから、三ヶ月ほどが経っていた。
きっと由布院先輩はあんなこととっくに忘れている。くだらない雑学を覚える代わりに、あのときの会話もあのときしたキスも、とっくに忘却の彼方だろう。
「由布院先輩」
名前を呼ぶと、先輩は口笛をとめずにこちらに視線だけを向けた。私は彼の眠そうな目を見て、それからため息をついた。
「なんでもありません」
ぴゅい、と由布院先輩は最後に高い音を出してから、「なんでもなくないくせに」と笑った。さっきまで尖っていた唇は平坦になる。
「覚えていますか?」
「なにを?」
「覚えてないんでしょうね」
「だからなにを」
「それは、」
キス、なんて二文字を口に出すのはなんだか癪だったし気恥ずかしくて、私は口ごもる。由布院先輩は首を傾げて、「この前タオル借りたことなら、アレもう返したよな?」と見当外れなことを言っている。
「なんでもすぐに忘れるなんて、脳の容量足りてないんじゃないですか」
「ひどいこと言うねお前……」
あからさまに、わざとらしく傷ついたような顔をされる。白々しい、と思った。この人のこういうところがいやだ。私はため息をつく。由布院先輩はなぜかわざわざ立ち上がって、私のほうに近づいてきた。
「お前、なんで俺といるとそんな機嫌悪いの」
「由布院先輩が」
きらいだから、とは言えなかった。きらいではない。すき。いやすきなはずはない、こんな人のことなんか。私がなにも言わないので、由布院先輩は首を傾げるようにして、私の顔を覗き込む。
「俺が?」
「あなたが」
ふたりで顔を見合わせる。ばかばかしい状態のはずなのに、目をそらせなかった。由布院先輩が三回まばたきをする。それからふとこう言った。
「うちの部って、有基も熱史も立もまつげなげーけど、お前もまつげなげーな」
「それ前にも言ってましたよね」
「そうだっけ?」
「そうです」
やっぱり忘れてしまっているのだ、この人は。私は彼からついに目をそらす。そういうことだった。私がこの三ヶ月、時折思い出しては頭を抱えていたあのくちづけを、この人はとっくに忘れてへらへらしていた。
そういう人だということはよくわかっていたはずなのに、どこかでがっかりしている自分がいる。それが悔しくて仕方がない。由布院先輩はまつげに言及するとどうでもよくなったらしく、離れていこうとした。私はそれが許せなくて、おもわずその制服の袖をつかむ。
「なに、」
みなまで言わせる気はなかった。私は立ち上がり、振り返って無防備な由布院先輩の唇に顔を寄せる。
「だいきらいです」
由布院先輩の唇は頼りないくらいに薄い。これは映画やドラマで見るようなそれとはてんで比べ物にもなってないキス、だろう。だけどそれが私の精一杯だ。
「思い出しましたか」
唇を離してそう尋ねると、由布院先輩は今度こそ本気で不可解そうな顔をして私を見る。
「くそ」
唇を手の甲で拭うようにしながら、由布院先輩は私をねめつけた。
「今度は一生忘れられねえじゃねえか」
はじめて由布院先輩のこころを揺さぶることができた気がして、私は勝ち誇りたい気分だった。まだ少し顔が赤い由布院先輩は頭をかいて、それから長くため息をつく。
「鳴子」
「なんです」
「お前、俺に振り回される覚悟できてんの?」
「なんのことですか」
「わかってるくせに」
由布院先輩は背中を伸ばす。いつも猫背気味だから、こんなに背が高いものかと驚いてしまう。
「後悔しても遅いからな」
そう言って由布院先輩はかばんを持ち上げた。どうやら今日はもう帰るらしい。
たぶん、これからも、私と由布院先輩では由布院先輩のほうが私に勝つことが多いだろう。しかし私に勝ち目がないわけではない。それは確かに今日の収穫だった。
「じゃあな」
「ええ」
また明日、どうなるのか、それは株価より読めないけれど、どうにかなるに違いない。
22/55ページ