boueibu
地元では一応名門校ってことになっている眉男高校に進学した俺と煙ちゃんは、つつがなく同じクラスになった。受験は大変だったけど――もちろん俺じゃなくて煙ちゃんが――また一緒に過ごせることは素直に嬉しい。俺と煙ちゃんは毎朝待ち合わせをして一緒に登校し、もちろん一緒に帰っている。クラスに友達はいくらか出来たけれど、やっぱり、俺のいちばんの親友は煙ちゃんだ。
さて、高校生になったものの、だからといって煙ちゃんが突然溌剌として、やる気を出して、さわやかな男になるわけではなかった。相変わらず教室ではいつも眠そうで、やる気はない。俺は新しいクラスでさっそく学級委員になってしまい、五月にある懇親目的の宿泊学習の準備に追われることになった。部活に入る気もなく、委員会はいちばん仕事が少ないともっぱらの噂の図書委員になった煙ちゃんは、「じゃあ熱史が終わるまで待ってる」と言って、実際いつも俺が委員会が終わると、昇降口で待っている。
そんな日々を一週間とちょっと続けて、俺はふと疑問に思ったことを尋ねてみる。
「煙ちゃんさ、俺を待ってるあいだ、なにしてるの?」
煙ちゃんは少し首を傾げた。
「んー、学校探検?」
「小学生かよ」
「いや、これがなかなか面白いんだよ」
何が面白いのかよくわからないけど、煙ちゃんは俺からは想像がつかないことに面白みを感じるやつだからなあ。それが煙ちゃんと付き合ってて面白いところでもあるんだけど。だからまあいいや。
「なんかいいところあったら教えて」
「おー」
やる気のないテンションで、煙ちゃんはそういった。
そのうち、まあ然るべきことだったのかもしれないけど、煙ちゃんはちょいちょい授業をさぼるようになった。三週間も授業を受ければ、そりゃあつまらない授業と面白い授業くらいは判別がつく。煙ちゃんは(留年もめんどくせーし、ということで)単位取得できるぎりぎりの線を狙って、保健室や屋上や図書室や空き教室をふらふらするようになった。どうやら「学校探検」は、授業をさぼるのに適切な場所を見つけるためにやっていたらしい。まあ煙ちゃんのことだからうまくやるだろうとは思っているけれど、俺はそれなりの頻度で「ちゃんと授業出なよ」と文句を言って、煙ちゃんはハイハイ、と適当な返事をした。
その日も俺は委員会で遅くなって、煙ちゃんは昇降口で待っていた。中三からぐんぐん背が伸びた煙ちゃんはひとり、長い脚を手持ち無沙汰に交差させている。その仕草が、なんだか子どもっぽい。
「煙ちゃん」
「熱史」
俺の顔を見て、少し頬が緩んだ煙ちゃんは、少し愛想がよく見える。クラスのみんなになんで由布院なんかと仲がいいんだ、と尋ねられたけど、そんな理由、この笑顔だけで十分だ。
「今日はどこ行ってたの?」
階段を下りながらそう尋ねると、煙ちゃんは少しだけ首を傾げた。
「秘密?」
「秘密って」
たかだか放課後を過ごした場所ひとつで大げさだな。俺が苦笑すると、煙ちゃんは少し考えるように眉を寄せた。
「熱史にだけなら教えてやってもいいけど」
「なんだそれ」
「いいとこ見つけたんだ、サボるのに」
そこはたぶん、もともと何らかの物置だったと思わしき部屋だった。壁に沿って色んなものが置いてあって、なにもかもが埃っぽい。部室棟のいちばん上の階、ドアにかかった「地球防衛部(笑)」という古ぼけた木の板、日の光が入ってきて、ぽかぽかと暖かい。
なにが煙ちゃんのお気に召したのかは、たぶんこの日当たりの良さだろう。これは昼寝するにはよさそうだ(夏は暑そうだけど)。
「何日かいたけど誰も来なかったからたぶん誰も使ってねーんだと思う」
部屋の真ん中には申し訳程度にこれまた古そうな机と椅子が置いてあって、煙ちゃんはその机に突っ伏している。俺は部屋を見回して、「掃除したほうがいいんじゃない、さすがに」と言った。煙ちゃんがこの部屋を勝手に占拠することについてはまあ、問題ないだろう。俺としてもすぐふらふらいなくなる煙ちゃんが定位置にいてくれるのはありがたいし。
「熱史」
「ん?」
「秘密な、ここのこと。俺とお前だけだからな」
「うん」
煙ちゃんはさらりとこんなことを言う。俺は頷いた。煙ちゃんにそう言われなくたって、たぶん俺は誰にもここのことを言わなかったと思うけど。日当たりの良さだけじゃなくて、なんだか顔があっつくなってきた気がする。ぜんぶ煙ちゃんが悪い。
そうして俺たちは、その部屋に入り浸るようになった。放課後はもちろん、昼飯をそこで食べることもある。煙ちゃんは授業をさぼるのにも使っている。学校の中に居場所があるというのは、なんだかわくわくすることだった。それから俺たちは、放課後もう一つのルーティンを作った。通学路の途中にある温泉、黒玉湯に寄るようになったのだ。
平穏な日々だった、と思う。特に地球なんか防衛はしてないけど、ふたりで部屋にいて、各々好きなように過ごして、ときどきしゃべったり、ふたりで課題をやったり、こっそり持ち込んだゲームをしたり、まあ、いろんなことをした。さながら秘密基地だ。高校生にもなって秘密基地なんて言葉にテンションが上がるなんて、と思わないでもないけれど、他の誰も知らないこの場所は、俺にとっては大事な場所だった。たぶんそれは、煙ちゃんにとっても。
そうやって夏が来た。部屋はまあ随分と気温が上がった。だけど俺たちは汗だくになりながら、この部屋を動かなかった。窓をあけると風通しは悪くないので少しマシになる。マシになるとは言っても、動かなくても汗が滴り落ちることには違いがなく、煙ちゃんはますますだらけるようになった。
「夏休みになってもここ来たいな」
「しまってんじゃねーの?」
俺の希望を煙ちゃんは否定してくる。吹奏楽部の演奏がかすかに聞こえてきた。
「一応部室棟だしあいてるんじゃないのかな」
煙ちゃんはじっとしていた。薄い茶色の髪が、風に揺れる。
「だといいな」
小さな声でそう言った煙ちゃんは、つまり夏休みをこの部屋で俺とふたり過ごすことを望んでいるわけで、俺はふわりと嬉しくなる。
ああ、俺は煙ちゃんのことが好きだった。いつからだろう。ついこの間のような気もするし、仲良くなったあの日からのような気もするし、同じクラスになって「由布院煙」という名前を知った瞬間からかもしれなかった。それは本当にどうでもいいことだ。この、やる気がなくて眠たげでそのくせよく口が回る、顔がきれいな煙ちゃん。できればずっとそばにいたい、できれば長い間一緒にいたい。
「夏休みの初日にさ、一回来てみようぜ、ふたりで」
「……うん」
煙ちゃんからしてみればちょっとしたいたずらのようなものかもしれないけれど、俺はその約束が嬉しかった。そもそも俺たちはあんまり約束というものをしないし。
結局夏休み、俺たちの秘密基地に繋がる部室棟の裏口は鍵がかけられて入れなくなっていて、俺たちは夏休みの居場所を失い図書室に行ったりお互いの家に行ったり街に行ったりして過ごした。夏休みの後半にもなるとあそこが恋しくて、なんだかんだ新学期が楽しみになるくらいだった。
まだ夏の余韻がありありと残る九月、俺たちはまた防衛部(笑)の部室にいた。
「久々だな、この部屋も」
「掃除しないとだな、煙ちゃん窓開けて」
「掃除はいいだろ」
煙ちゃんはそう言いながら窓を開けた。ふわりと外の空気が入ってくるけど、どちらにせよ暑いことに変わりはない。
「あーねみ」
「はいはい」
煙ちゃんは一応机の上を払って、その上に突っ伏した。はあっと大きくため息が出る。
「熱史さ」
「ん?」
「なんでいちいちここまで付き合ってくれんの」
「え?」
「ここ教室から遠いじゃん。ここに来たって俺は寝てるだけだし。お前に掃除させるし。何が楽しーの」
こっちに質問してるくせにこっちを見ようとしない煙ちゃんを、俺はまっすぐに見た。いや、前々から、他の人にはよく訊かれていた。なんで鬼怒川は由布院なんかの面倒を見るんだ。なんでって、そんなの。
「煙ちゃんといたいから?」
「変なやつだな」
「煙ちゃんには言われたくないけど」
うちの学校は自慢じゃないけどまあまあ偏差値が高くて、つまり真面目に勉強するやつが多い。だから煙ちゃんみたいにひょいひょい授業をさぼるやつは、変わり者扱いだ。
「……俺よりお前のほうが変だよ、ぜったい」
「どういう意味だよ」
言ってみたけど煙ちゃんは答えてくれなかった。わざとらしい寝たふりなのに、俺はそれ以上追及できないまま、煙ちゃんを見ていることしかできなかった。
秋、そして冬になると、この部屋が本領を発揮した。暖房もついてないのになにしろ暖かくて、煙ちゃんと俺はますますそこに入り浸るようになった。俺は相変わらず煙ちゃんのことが好きで、だけどまだそれを煙ちゃんには言っていない。
だって言わなければ、俺たちは親友同士として、卒業までずっとこのあったかい部屋にふたりっきりでいられるのだ。あと二年もある。(俺たちが頻繁に出入りしてるから、もしかしたらもう誰かに知られてるかもしれないけど、少なくとも建前上は)俺たちだけの秘密の場所。防衛部(笑)の部室はそういう場所だった。告白なんてしなくたって十分だ。煙ちゃんのことを想像して抜くことはあったけど、それを煙ちゃんにぶつける気なんてさらさらなかった。
体育祭があって、学園祭があった。中間テストがあって、期末テストがあった。そのあとのクリスマスも平穏だった。バレンタイン、煙ちゃんは見知らぬ女の子からチョコを……貰わなかった。
「一個くらいあったっていいよな〜」
「俺は母さんと姉貴からもらったけどね」
「それはそれで余計虚しくね?」
そんな会話をしながら何十回目?何百回目?の階段を降りる。俺は今の日々に満足していた。幸せだった。煙ちゃんの隣にいるのは自分だけだって、ずっと思っていた。
そうして俺たちは二年になった。二年から進路によって文系理系でクラスが分けられる。俺たちは両方理系選択で、やっぱりつつがなく同じクラスになって、やっぱり防衛部(笑)の部室でのんびり過ごしていた。
その日俺はまたも任命された学級委員の仕事のために、少しだけ遅れて部屋に向かった。どうせ中にいるのは煙ちゃんしかいない。だからいつものようにノックもしないでドアを開けると、そこには煙ちゃんと、見知らぬ顔があった。彼は居心地悪そうな顔でこちらに会釈する。俺もつられて頭を下げた。
「ええと……彼は?」
「あー、なんだっけ、名前」
「鳴子です」
「そう、鳴子。一年だって。あ、こっちは鬼怒川な、鬼怒川熱史」
「よろしく」
「はあ……」
人見知りなのか、鳴子くんは少しぼんやりとした返事をする。見てみれば、鳴子くんの手元には、ノートパソコンがあった。煙ちゃんは彼のことを見てにやにやと笑っている。
「なんかこいつ、FXだか株だかやってるらしくてさ。ネットがよく繋がるところを探してたらここまでたどり着いたんだって」
「……すいません、まさか根城にしている方がいらっしゃるとは思わなくて」
先輩相手にしても随分とかしこまった言葉遣いをするな。俺はとりあえず空いている椅子に座った。
「お前また来んの?ここ」
「いえ、おじゃまなようですから、これからは別のところに行きます」
「え、別に邪魔じゃないぜ。どうせ俺は寝てるだけだしこいつは本読んでるだけだし。なあ熱史」
「え、ああ、うん……」
とっさに頷いてしまった。煙ちゃんは俺の同意を得て、鳴子くんのほうを見る。鳴子くんは眉間にしわを寄せた。心底嫌そうな顔をしている。クールそうに見えるけれど、けっこう顔に出るタイプなのだろうか。煙ちゃんはいつになく面白そうな顔をしていて、なんていうか、新しい知り合いにわくわくしているのがわかる。
「ここが一番よくネットが使えるんだろ?」
「はあ、それは、そうですが」
「じゃあいいじゃん。また来いよ」
「……」
鳴子くんはやっぱり不機嫌そうな顔をしてノートパソコンを畳んだ。また来るとも来ないとも言わずに部屋を出て行く。
「じゃあな」
鳴子くんがかけた煙ちゃんの声は無視されてしまう。人付き合いが苦手なタイプなのかな。それで、俺たちはまたいつものようにふたりきりになった。俺はため息をつく。どういうわけか少し緊張していたらしい。鳴子くんがすっかり向こうに言ってしまったのを確認してから、俺は煙ちゃんに向き直った。
「煙ちゃん」
「ん?」
煙ちゃんは機嫌がいい。新しいおもちゃでも見つけたみたいな顔だ。仮にも迷い込んできた新入生に対してその顔はどうなんだろう。俺は訊きたかった。煙ちゃん、ここは俺たちの部屋じゃなかったの、俺たちだけの、秘密の部屋じゃなかったの。
それはもちろん俺の思い込みにすぎない。俺が勝手にここを秘密基地のつもりにしていただけ。鳴子くんはたまたまここにたどり着いてしまっただけ。誰も悪くなんかない。もちろん。
だから俺はそれを飲み込んだ。飲み込んだらちょっとだけ胸の辺りにもやもやした熱いものがわだかまっていく。
「気に入ったの、鳴子くんのこと」
「だって高校生……先月まで中坊だったくせに株だのなんだので稼いでるって、面白そうじゃん」
「面白そう……、ってのは、失礼だろ」
「そうか?」
寂しいなんて思っちゃいけない。ここはふたりだけの部屋でもなんでもない。なのにどうしてこんなにいやな気持ちになってるんだろう。こんなことでいやな気持ちになるなんて、どれだけ俺はいやな奴なんだろう。
煙ちゃんは機嫌がいいから、今日は寝ないつもりらしい。まんがを取り出して読んでいる口許は緩んでいる。
「煙ちゃん」
「ん?」
「あのさ、俺」
俺たちの特別な場所は失われてしまった。ずっとここにふたりきりでいられればいいなんて、夢に過ぎなかった。
それなら俺は煙ちゃんの特別になりたい。息を吸って吐く。ねえ、煙ちゃん、俺は煙ちゃんのことが。
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