boueibu
その日は眉難高校の卒業式だった。桜のつぼみがふくらみ空は高く晴れ、春のはじめだというのに陽気が心地よい、いかにも卒業式日和といった天気だ。
式では粛々と生徒会長として送辞を読み上げた下呂は、その式を終え、数ヶ月前まで同じく生徒会役員として活動していた元会長の草津や、元副会長の有馬に最後に挨拶をしに行くことにした。卒業生たちは別れを惜しんでか、なかなか帰ろうとはしない。教室で最後の談笑をしている卒業生たちのざわめきを聞きながら廊下を歩き、そして目的のクラスにたどりつく。
「草津、さん」
以前のように「草津会長」と呼びそうになって、ぎりぎりでそれを回避する(以前そう呼んだら、「会長はもう君だろう」とネチネチ言われたのだ)。クラスメイトの輪に入りそこねていたらしい草津は、下呂の声にすぐに振り向いた。幾分ほっとしたような顔をしている。
「卒業おめでとうございます」
「ああ、どうしたんだ、阿古哉」
こちらに近付いてきながら、草津がそう尋ねてくる。
「いえ、最後に挨拶でもと思って。本当にお世話になりました、草津さん」
「ああ、阿古哉も生徒会長として成長したと、送辞を聞いていて思ったよ」
「ありがとうございます」
数ヶ月前まで地球征服なんておかしなことを実行しようとしていたとはいえ、先代の生徒会長にそう言われて、もちろん悪い気はしない。それから下呂は首を傾げた。
「あの、有馬さんは?」
「有馬ならさっき同級生に声をかけられて出ていったぞ」
「はあ、そうですか」
「待つか?かばんは置いていったから、すぐに戻ってくるとは思うが」
下呂は少しだけ思案して、それから首を横に振った。
「探してみます」
「そうか」
草津は頷いた。下呂はもう一度彼に頭を下げて、廊下を歩いていく。
「ずっと有馬のことが好きだったんだ。あ、いや、付き合ってほしいとか、そういうわけじゃないんだけど」
「うん」
「ただ、最後に気持ちだけは伝えておこうと思って……」
有馬は目の前の同級生を見下ろしていた。彼は卒業式も終わってから、有馬を校舎の最上階へ続く階段の踊り場まで連れてくると、はっきりと、そう告白したのだった。
卒業間際になって、当然こうして告白してくる人間が増えた。男子校なのにおかしな話だけれど、毎月美男コンテストが行われるような学校だから、むしろ仕方がないのかもしれない。
彼らはみな告白しておきながら、付き合いたいわけではない、と言う。有馬とて付き合う気はないから、それは構わないのだけど。
「気持ちは嬉しいよ、ありがとう」
「あ、うん……」
彼とはクラスメイトだったとはいえ、ほとんど接点がなかった。もしかしたら、もう二度と会わない相手かもしれない。彼もそう思っているのだろう、なんだか名残惜しそうな顔をしている。有馬は彼のことばの続きを待った。
「最後、に、」
かわいそうに、ここから見て、彼は耳の上のほうまで真っ赤だった。
「最後に、なにかもらえないだろうか、っ」
ほとんど予想していたとおりのことばだった。これで何人目だろう、自分の普段の態度が、彼らにこのような要求が通ると思わせていたのだろうか。おそらくそうなのだろう。いつも生徒会長の草津のそばにいるが、彼と違ってクラスメイトを見下さず、分け隔てなく接し、柔和に笑って、それなりにノリがいい。それが教室での有馬燻の評価であることはもちろんわかっている。だから、頼めば何でもしてくれると思われている。
まあ、全然それで構わないんだけど。
有馬は返事もしなかった。彼のあごのした、指先で持ち上げて目線を合わせる。彼が目を見開いてこちらを凝視しているので、いっそのこと微笑んでみる。それから目を閉じて、有馬は彼の唇と自分の唇をすんなりと合わせた。
きっちり三秒数えて顔を離すと、彼は発火でもするのではないかと思うほど顔を真っ赤にして、「うわ」とか「あわ」とか呟いたあと二歩後ずさり、辛うじて「ありがとう」と言ってすぐに踵を返してしまう。告白しておいてこちらを置いてけぼりにするとは。有馬は息を吐いて、自分も教室に戻ることにした。
「有馬さん」
「わ」
ところが不意に階段のほうから声をかけられる。慌てて振り向くと、からかうような笑顔がこちらに向かってのぼってくる。
「見ちゃいましたよ、有馬さん」
「阿古哉……」
厄介な相手に見つけられてしまった。有馬は苦笑して、「なにを?」と尋ねる。無理だとわかってはいるが、一応白を切ろうという態度である。
「会長に言っちゃおうかな」
「会長は君だろ」
「はいはいそうでした」
下呂は有馬の言い方にため息をつく。ようやく下呂も有馬と同じ踊り場に立つが、それでも有馬のほうが背が高いから、目線の高さは揃わない。
「ねえ有馬さん、口止め料を下さい」
下呂がそう言うと、有馬は一瞬真顔になった。じっと下呂の顔を見下ろして、それからさっきの男にしたのとまるで同じ動作で下呂の唇を奪う。
この人、何人に同じことをしたんだろう。
下呂はなんの感情も乗らないくちづけをされながら、ぼんやりとそう思う。有馬の顔が離れていく。
「……庶民と間接キスさせるなんて、嫌がらせですか」
「まさか」
下呂は唇を引き結び、そっぽを向いた。有馬の余裕しゃくしゃくな顔を見ていると、腹が立ってくる。
「最後の思い出にキスするなんてかわいそうに、あの人もう当分……もしかしたら一生有馬さんのこと忘れられませんよ」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあります」
「阿古哉もいまそういう気持ちってこと?」
からかうように言われて、下呂は自分の顔が熱くなるのがわかった。確かに今の文脈では、そう取られかねないだろう。
「馬鹿にしてるんですか」
「いや?」
「やっぱり草津さんに言っちゃいますから」
「お好きにどうぞ」
心底何でもないことのように彼は言った。下呂は思わず目を見開く。なにしろ有馬は草津に随分と執着していて、それは下呂の目から見ても異様だった。誰にでも平気で口付けるなんてことを知ったら、潔癖な草津はきっと有馬を軽蔑するだろう。なのに有馬はそれを気にしないと言う。
「有馬さんってほんとうに……」
「ほんとうに?」
ほんとうににんげんなんですか。たとえばもしいま、この階段から落っこちたとしても、彼は平然と立ち上がって平然と笑うんじゃないか、そんな気がした。
「僕は教室に戻るけど、阿古哉は?」
「……僕だって戻りますよ」
下呂は眉を寄せる。こっちだって好きでこんなところまで来たわけではない。
階段を降りる有馬の背中を見下ろす。いっそのことさっきの妄想を実行してしまおうか、と頭を過った考えをすぐに首を振って忘れる。かつて自分たちは宇宙人と長い時間過ごしていたけれど、もしかしたら、彼らのほうが人間らしい感情を持っているような気すらしてくる。
「有馬さん」
「なに?」
「有馬さんが誰彼構わずキスしていることを草津さんに言っていいなら、どうして僕に口止め料……になってませんけど、口止め料、くれたんですか」
「してほしそうに見えたからね」
「……そんな顔してません」
有馬が振り返って、下呂の顔を見上げる。
「ほら、してる」
にこりと笑って、有馬はそう言った。思わず両手で顔を抑える。そんなばかな、そんな顔なんか、しているわけがない。有馬は自分のくちびるを指差して、「もう一回しようか」と言う。
「いりません!」
こんなふうに取り乱して、大きな声を上げて、こんなの全然美しくない。下呂はそういう自分の顔を有馬に見せたくもなくて、下呂は有馬を抜かしげ階段を駆け下りた。
「……卒業おめでとうございます」
「ありがとう、阿古哉」
下呂は有馬の声を聞きながら、振り向かなかった。階段を駆け下りる。嫌だ、嫌だ。あの人がいやだ。こんなところで醜く負けるなんて自分が嫌だ。彼のこの高校での最後の思い出がこれになるのなら、それだけは少し、小気味よいけれど。
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