boueibu
いつも通り部室を出た地球防衛部の面々は、長い階段の途中にある黒玉湯へと向かっていた。実のない話をしながらだらだらと進んでいく。その、さなかのことだった。
あ、と由布院が心許ない声を上げるのを、鬼怒川はただ呆然と眺めていた。手を伸ばすことすらできなかった。周囲で後輩たちが由布院の名前を口々に叫んでいる。由布院のからだは空中に投げ出され、そして瞬きをしている間に、下に落ちて、ごろごろと転がっていった。
「煙ちゃん先輩!」
有基の甲高い声が鬼怒川の耳に届いてようやく我に返ったときには、踊り場で倒れている由布院の周りに、有基と鳴子、蔵王が集まっていた。慌てて階段を駆け下りる。煙ちゃん、と叫んだつもりだったけれど、声にならなかった。
「救急車……」
なぜか由布院は自らそう呟いて、そのまま目を閉じる。有基がキョロキョロと辺りを見回している間に鳴子と蔵王は顔を見合わせ、ふたりしてお揃いの携帯電話を取り出し、それから結局鳴子が119に電話をかけた。
とはいえ、由布院の怪我は実際大したことはなく、二日間の検査入院のあと念のためもう一日休み、三日後にはいつもの鬼怒川との待ち合わせ場所にやって来た。
「おはよー熱史」
頭に包帯だって巻いているくせにいつもどおりの調子で挨拶してくる由布院に、鬼怒川ははあっと息をついた。
「煙ちゃん……、おはよ」
怪我をした自分以上に憔悴しているように見える鬼怒川に、由布院は少し目を見開いた。入院している間思う存分寝たので、今朝はいつもよりは元気がある。
「なに熱史、どーしたの、寝不足?」
「寝不足にもなるよ、煙ちゃんのせいで」
「俺のせいって……」
そりゃあ、階段から落っこちて意識を失ったなんて滅多にあることじゃないし、鬼怒川の性格なら心配だってするだろう。だけど由布院の怪我が大したことなかったなんて、病院に運ばれてすぐにわかったことだ。今も頭は少しは痛むけれど、それだけだ。記憶にもからだにもなんの問題もない。ともあれ、学校までの道を歩きはじめる。三日前に落っこちた階段をなんだか感慨深く登りながら、由布院はひとつあくびをした。
「もっと入院出来りゃ合法的にサボれたんだけどな」
彼らしいやる気のないコメントを聞いた鬼怒川は、ぐるりと首を回して、後ろにいた由布院をねめつけた。鬼怒川が思ったよりずっと恐ろしい形相をしているので、由布院は思わず目を丸くする。
「いい加減にしろよ煙ちゃん、これ以上入院するってことは、もっとひどい怪我をするってことなんだからな」
「え、あ、ああ、そーだな、出席日数やばい教科もあるしこれ以上はまずいよな」
「……そういうことじゃなくて……いやそれもあるんだけど……」
いつもよりきつい口調で突然説教され、次には大仰にため息をつかれ、由布院は眉根を寄せた。そこまでか?そんな、不機嫌な顔されるようなことだったか?いや、いつもどおりの自分の発言でしかなかったはずだ。
「はやく行くよ」
鬼怒川の声が低い。あまり刺激するようなことは言わないほうが良さそうだ。由布院ははいはい、とだけ返事をしたが、「なんで二度返事なの」とまた睨まれてしまった。母親にだってそんなこと言われたことないのに。
「おーっ、由布院先輩、復活したんすね」
いつもはシニア先輩だなんだと無礼なことを言ってくる蔵王がなんだか嬉しそうな声でそう言うので、由布院も自然と口許が緩んでしまう。彼の向かいの席に座って、日替わりA定食の内容を確認する。メンチカツ、つけあわせのキャベツに飯と油揚げの味噌汁、それからきんぴら。
「復活も何もねーだろ、全然死んでねーから」
由布院は自分の昼食の焼きそばパンの袋をあけた。由布院の昼食は多くの場合パンだ。食堂で定食を買うために並ぶのも面倒だから、朝のうちにコンビニで買ってくるのである。
「いやー、あんときは、怪我人が自分で『救急車……』っ言ったからびっくりしちゃいましたけど」
「全くですね」
こちらは蔵王の隣で日替わりB定食を前にした鳴子である。くすくす笑われ、由布院は肩をすくめた。鳴子も機嫌がいいように見える。もっともこれは、自分の復活とは関係なく、単に株で一発当てただけかもしれないけれど。
「まあ、なんにせよ良かったです。ここ三日、鬼怒川先輩なんて見てられませんでしたから。……そういえば鬼怒川先輩は?」
鳴子に言われて、由布院はあー、と声を上げる。見てられなかった、の意味はすぐに理解できた。今朝のあの剣幕では、この三日、もしかしたやこのふたり、そして有基にもなんらかの被害が及んだことは想像に難くない。
「トイレ寄るっつってたからすぐ来るんじゃ、」
ねーの、と由布院がすべて言い切る前に、弁当箱の包みを片手に鬼怒川が現れた。
「ごきげんよう、鬼怒川先輩」
鳴子がすらりと挨拶をすると、鬼怒川はにこりと笑った。
「B定食は回鍋肉?おいしそうだね」
言いながら由布院の隣に座わる。包みの結び目をほどき、弁当箱のふたを開ける。鬼怒川お手製の弁当は、今日も彩りよく行儀よく、さまざまなおかずが箱の中に収まっている。中身を覗き込んだ蔵王がうまそう、と声を上げた。
「で」
鬼怒川は右手に箸を持ち、久しぶりの焼きそばパンを味わう由布院を横目で見た。
「なんで煙ちゃんはろくに野菜も食わないわけ」
「病院食って味気なくてさ。好きなもの食べさせろよ」
「理由になってないから」
鬼怒川が由布院にこの手の注意をするのは決して初めてではない。鳴子と蔵王はすでに受け流す体制で、ふたりしておかずを咀嚼している。
「はやく治すためにも栄養バランス考えなきゃ」
「いやだから別にそんな」
「はいこれ煙ちゃんの分」
鬼怒川は由布院の目の前に、小さな密封容器を置いた。さらにそのふたの上に割り箸を置く。由布院はさすがに鬼怒川の方を見たし、今度こそ鳴子と蔵王も呆気にとられたような顔をする。明らかに野菜を食べない由布院に鬼怒川がひとくちふたくちおかずを分け与えることは今までもしばしばあったことだけど、鬼怒川が由布院のためにおかずを用意してきたのははじめてだった。
「……なにこれ」
「いんげんの胡麻和え」
「いやそうじゃなくて」
「どうせ煙ちゃんは野菜食べないんだろうなって思って。だから作ってきたんだ、早く治さないとね」
「……」
遠慮するのもまずい気がして、由布院は仕方なく割り箸を取り密封容器のふたを開けた。中には確かにいんげんが入っている。割り箸を割ると失敗してしまい、由布院は眉根を寄せた。
「……うまそうだな」
「でしょ」
鬼怒川はにこりと笑った。蔵王が「相変わらずっすねえ」と無邪気に言って、鳴子が同意する。相変わらず、か。由布院はいんげんを咀嚼しながら蔵王のことばを反芻する。まあ、それなら、いいんだけど。
「煙ちゃん今日部活行く?」
「あー、まあ、じゃあ行くか」
由布院は頭をかこうとして、包帯が頭に巻かれることに気づいて辞めた。鬼怒川は眉を寄せる。
「頭痛むなら辞めとく?」
「や、痛くねーから別に」
スクールバッグを手に、鬼怒川を先にして教室を出た由布院は、今日一日のことをぼんやりと思い返していた。
朝の待ち合わせのときには怒られ、教室でクラスメイトと怪我を笑い話にしていたところでひと睨みされた。体育の授業を見学するとほっとした顔をされる。昼食は野菜を食べないと文句を言われ、五限をまるまる寝て過ごしたら、「まだ具合悪いの?」と眉を寄せられた。
……あからさまに、めちゃくちゃに、心配されている。由布院はため息をつきたくなったが、ため息をついたら今度は鬼怒川がどんなことを言ってくるのか考えるのすら面倒になって黙った。
「ねえ煙ちゃん」
「んー?」
前のほうを歩いている鬼怒川が声をかけてきたので、由布院は意識をここにいる鬼怒川のほうに戻した。鬼怒川がこっちを見ている。前向いて歩けよ、と言うと、煙ちゃんには言われたくないよ、とまた眉をひそめられる。
「それはともかく。今度でいいんだけど、母さんと煙ちゃんち行っていいかな」
「え……はあ?」
由布院は目を見開いた。
「いやなんで、」
「だって煙ちゃん怪我しちゃったし。ちゃんとおうちの人に謝りに行かなきゃって」
「だからそれは」
由布院はこんどこそため息ががまんできなかった。
「別にいいって言ったじゃねえか」
「俺はいいと思ってない」
鬼怒川はきっぱりとそう言った。この問答を、入院している間にも何回もしている。そして鬼怒川は必ずこう言うのだ。
「煙ちゃんが怪我したのは俺のせいなんだから」
鬼怒川はそう言うけれど、由布院はそんなことこれっぽっちも思ってもいない。たぶん、同じ場所にいた有基たちもそうだろう。……そりゃあ、確かに、鬼怒川がそう思ってしまう理由もわからないではない。自分が同じ立場なら、きっと同じことを言っていただろうとも思う。
あの階段で最初につまずいたのは、鬼怒川のほうだった。よろめいた鬼怒川は前を歩いていた由布院の背中を押した。それで、由布院のからだが投げ出されたのだ。
もちろん、鬼怒川は故意に由布院の背中を押したわけではない。眉難高校の生徒のうち年に何人かは、あの階段で怪我をする。由布院もたまたまそのひとりになってしまったというだけで、珍しいことでもなんでもない。
鬼怒川には何度もそう言っているのだが、彼は頑として自分の非を主張し、由布院にあれこれと気を遣う。
「久しぶりの学校はやっぱだりーわ」
「由布院さんは戻ってきても相変わらずのチョンマゲ」
ウォンバットがやれやれ、といった様子で肩をすくめる。
「そーいや、俺が休んでる間って怪人でたの?」
「出なかったっすよ、ラッキーだったっす!」
有基はウォンバットを抱え込み、そのピンク色の毛並みのなかに顔を埋めようとしながらそう答えた。ウォンバットがなにやら騒いでいるがそれにコメントするのも面倒な由布院は、部室をぐるりと見回した。
「ふーん、それじゃもっと休んでても、」
「煙ちゃん」
「はいはい」
どうやらまた鬼怒川センサーに引っかかってしまったらしい。やりとりするのも面倒で、由布院が机に突っ伏そうとしたそのときだった。
「げー」
蔵王が不満げな声をだして眉を寄せる。ラブレスレットをつけた左手首がぱちんと痛んだのだ。
「由布院さんが戻った途端さっそくラブアラートでマッチョ!皆さん、バトルラヴァーズに変身するのです!」
ハイテンションに前足を突き出したウォンバットだが、言われた側は軒並み心底だるそうに立ち上がった。
「よっしゃー!行くっす行くっすー!」
「あー、今度は何怪人だろ」
「今いいところだったのに……」
元気な有基とは対照的に、蔵王と鳴子がそれぞれため息をつく。由布院も伸びをすると、のろのろとふたりの後に続こうとした。面倒くさいことこの上ないが、バトルラヴァーズへの変身を拒んだら拒んだで面倒なことになることはわかっている。
「ったく、あちらさんもよく飽きねーよな」
なあ熱史、といつもの調子で続けようとしたところで、鬼怒川がまたこちらを睨んでいることに気づく。え、なに、今なんか俺、まずいこと言ったか?由布院がそう思った瞬間、鬼怒川はぐるりとウォンバットのほうを見た。
「ウォンバット、煙ちゃんは頭に怪我したばっかりだし、今日は変身しなくていいんじゃない」
「ぷひょ」
わかりにくく、ウォンバットが驚いた顔をする。由布院本人がさぼりたいと言うならともかく、鬼怒川からこんな申し出があると思わなかったのだ。
「えーと、由布院さん、そんなにお加減が悪いのですか」
「いや?まあサボらせてくれんなら願ったり叶ったりだけど」
「変身時は元のからだの不調はなかったことになりマッチョ、ですから」
「みんなまだっすかー!?」
ウォンバットが言いかけたところで有基が大声を上げた。ウォンバットが有基に返事をする。
「今から行きますー!」
「……だってよ、行くぞ熱史」
「うん……」
鬼怒川の不服そうな顔は見なかったことにして、由布院は部室のドアを開け、階段を駆け下りた。
いつも通りつつがなく怪人は有基によって浄化され、部室に戻った面々は、いつも通りそれぞれの暇つぶしに戻った。ふとスマートフォンの充電器コンセントを部室のプラグから抜いた蔵王が、くるりと振り向きながら声をかけた。
「そいや先輩たち、今日黒玉湯行きます?」
「由布院先輩は怪我してますし、無理じゃないですか」
「えーっ!無理なんすか!?」
由布院がひとことも言わないうちに鳴子と有基にさっさと結論を出されてしまったが、それも間違えてはいない。今度こそ机に突っ伏していた由布院は、のろのろとからだを持ち上げた。
「まあ、そーだな、無理だわ」
「えーっ、じゃあ熱史先輩は来るっすよね?」
「え、」
「言ってこいよ熱史、有基が来て欲しがってるじゃねーか」
どうせまた煙ちゃん煙ちゃんと言い出すのだろうと踏んだ由布院は、先手を打ってそう言った。鬼怒川は由布院を見、有基を見、それから目を伏せた。
「……そうだね」
「やったっすー!」
手放しで喜んでいる有基を見てようやく鬼怒川は顔を緩めた。たかだか温泉に行くだけでこんなに喜んでくれるのだから、まあ、行く甲斐がある。下校時刻を知らせるチャイムが鳴っている。五人はそれぞれ帰り支度をはじめることにした。
*
由布院はぐったりとからだを机に預けた。登校するようになってからちょうど一週間、頭の包帯も取れて、もう階段から落ちたことなんてとっくに昔のことのような気がする。
「お疲れですか、由布院先輩」
「……」
まったく声をかけてきた鳴子の言うとおりなのだが、返事をするのすら億劫だ。すると蔵王が「若々しさに欠けるっすね!」と気にしていることをえぐってきた。それで由布院はようやく反論する気になって、目線だけを持ち上げる。
「……うるせえ」
「体育で持久走でもやらされましたか?」
「休んでた分の課題が終わってねーとか?」
「どっちも」
そう、それはどちらも正解だった。今日の体育は由布院が大嫌いな持久走だったし、だからと言ってもう見学もしていられない。休んでいた三日分に加えてもともとサボってたまっていた課題もかなりの量になっている。
「まあ、私も持久走はあまり好きではありませんが」
「おれも。だったら球技とかのがマシー」
「持久走なんか好きなやつ、陸上部でもなきゃそうそういないだろ」
「でも課題に関しては自業自得ですね」
「っすね」
「おい」
このふたりはときどきどことなく由布院を馬鹿にしているフシがある。もっとも、こちらも尊敬されるような先輩ではないのは確かだ。変に期待されるよりもあなどられているくらいのほうがよっぽど楽だ、というのが由布院の持論である。
「休んでて、体力落ちてるんじゃないっすか!?」
ここでウォンバットのもふもふに興じていた有基が突然声を上げた。ウォンバットはすっかりぐったりしている。由布院はゆるゆるとかぶりを振った。長いため息をつく。
「疲れてるなら温泉っすよ、もう怪我も治ったっすよね?」
有基はわざわざ由布院に近付いて、顔を覗き込んだ。常日頃から覇気のない二つ上の先輩は、有基の想像以上に疲れた顔をしていて、少しびっくりしてしまう。しかしなんだかんだと付き合いの悪くない由布院はこちらをじっと見つめてから「そーだな、久々に行くか」とこれまただるそうな声で言った。有基がよかったっす、と笑うと、由布院は困ったように笑い返してくる。
「じゃあ今日はみんなで黒玉湯行けるっすね」
「けっこー久しぶりだよな、十日ぶりか?もっとか?」
「ええ、十二日ぶりです」
そんなことを言い合っていると、部室のドアが開く。学級委員として教師に呼び出されていた鬼怒川が、ようやくやってきたのだ。
「ごきげんよう」
「ちーす」
「お疲れ」
鳴子と蔵王のいつもの挨拶にいつものように返すと、有基がぱっと顔を上げた。
「熱史先輩熱史先輩、今日黒玉湯みんなで行くっすよ!」
「うん、でも煙ちゃんは?」
由布院は鬼怒川の方を見ずに、ふう、と息を吐く。
「包帯取れたから行くよ」
「そっか。じゃあ俺も行くよ」
鬼怒川は鞄を下ろし、由布院の隣の席に座った。由布院は今度こそ机に突っ伏そうとしたが、鬼怒川に肩を掴まれる。
「煙ちゃん、課題終わらせるよ」
「…………」
それでも由布院はからだを起こさなかった。今日はもう閉店だと主張するように、背中を丸めたままだ。鬼怒川はそれでも諦めず、由布院の肩をつかんでからだを揺らした。
「あと古典と生物だけだろ」
「…………」
「煙ちゃんってば」
見ていた蔵王は、いつにない鬼怒川のしつこさにスマートフォンをいじる手を止めた。はやいとこ起きて、課題なんかさっさと終わらせちまえばいいのに。自分ならそうするだろう。
「帰ってからやるからいい」
机に伏せたまま、ようやく由布院はそう言った。くぐもった声に鬼怒川は眉を跳ね上げる。
「そんなこと言って、煙ちゃんが家に帰ってからやるわけないだろ。じゃあ俺今日煙ちゃんち行くよ?」
過保護な発言はいつも通りだが、なんだか思春期の息子と母親を見ているような気分になってきていたたまれない。蔵王は鳴子のほうを見て、「由布院先輩、反抗期かな」と言ってみる。
「更年期のつぎは反抗期なんて、由布院先輩も忙しいですね」
鳴子は案外と乗ってきてくれて、由布院は「聞こえてるし……」とふてくされている。
今までだってさんざん鬼怒川に世話を焼かれてきた。由布院にだってその自覚はある。それは周りから見ればいっそ普通の男子高校生同士の関係ではないだろうということもわかっている。だけど、それでも、これはおかしいんじゃないのか。
勉強机に座らされた由布院は、後ろで床にあぐらをかいて座っている鬼怒川の背中にはりつくような視線の重たさが、正直耐え難いところまで来ていることを実感せざるを得なかった。ため息をつきたくて仕方がないが、彼を刺激するのも億劫でごくりと喉を鳴らした。
由布院はぐちゃぐちゃと髪を掻きむしり、ノートをねめつける。教科書を書き写せばなんとかなる生物の課題はすぐに終わったけれど、文法だの単語の意味だのを考えなくてはいけない古典はあまり得意ではない。
「わからない?」
「……お前に見られてっと集中できない」
「煙ちゃんってばなに考えてるんだよ……」
「お前が考えているようなことじゃないのは確かだな」
鬼怒川は立ち上がり、机の上を覗き込む。ふうん、と言いながら問題を読み、教科書を読んでいくつか文法を解説する。言われてみればそう難しい問題ではないことがわかり、由布院はシャープペンシルでノートに答えを書き込む。そうしているうちに、あっという間に課題は終わってしまった。
「終わってよかったね、煙ちゃん」
「あー、」
礼言わなければいけない。由布院は顔を上げて、鬼怒川を見た。鬼怒川の大きな瞳がこちらを見つめている。
「あ、りがとな……」
「まあ、煙ちゃんの課題がたまったのは俺のせいでもあるし」
ああ、またこれだ。この一週間何度この「俺のせい」を聞いたのだろう。はっきり言ってしまえばうんざりしている。いつも鬼怒川に世話を焼かせていたのは自分で、階段から落ちて鬼怒川を動揺させたのだって自分だ。だけど、だからといって、ちょっとでも自分の怪我を茶化そうとしたり、変身しようとしたり、からだによくない食事をしようとしたりしただけで文句を言われる筋合いがあるだろうか。いや、ない。
由布院はそう結論づけた。まずは勉強ですっかり凝り固まってしまった自分のからだを伸びをしてほぐし、それから椅子から立ち上がる。
「あのさあ熱史」
「なに?」
こちらのほうが少し背が高いから、こうしていれば見下ろす体勢になる。由布院はなんと言って切り出すべきか少し考える。
「……もう怪我とかも治ったし、大丈夫だから」
「なにが?」
「だから、そうやって、色々してくれなくて平気だから」
由布院は鬼怒川がなにを言うのかうかがうように見た。鬼怒川は驚いたように目を見開いて、それから「そっか」と呟いて俯く。こうしょんぼりされると、なにか悪いことを言ったような気分になってくる。
「まあ今までありがとな、助かった、ぜ」
罪悪感をどうにかしようとひとまずフォローしてみると、鬼怒川が上目遣いにこちらを見る。
「……迷惑だった?」
「んなこと言ってねーだろ」
「じゃあどうしてそんなこと言うの」
「どうしてって……」
そんなの理由なんかない。理由なんかないということは結局後輩たちが言っていたように、反抗期なのだろうか、俺は。そんなばかな。由布院はゆるりとかぶりを振った。鬼怒川はこちらの答えを待っている。
「何度も言ってっけど、俺はお前のせいで落っこちたとは思ってねーから。罪滅ぼしのつもりならもういいって言ってるんだよ」
「そういうつもりじゃないよ」
「じゃどういうつもりなのよ」
毎回鬼怒川がしつこく由布院は自分のせいで怪我をしたのだと主張するので、それで、いつもの世話焼きが過剰になったのだと思っていた。ところが鬼怒川自身がそうではないという。
「俺が煙ちゃんの世話したいから、してた」
「したいから?」
「そう。だからやめろって言われるのは残念かな」
「じゃあ」
鬼怒川の大きな目がこちらをじっと見ている。なんだかギラギラ光っているようにすら見えて、由布院は喉を鳴らした。生半可な世話焼きではないことはわかっていたつもりだけれど、ここまでだっただろうか。こんな、背筋が冷たくなるほど、強い目で見られたことなんか、あっただろうか。
「お前は、」
「……そうだよ、俺は煙ちゃんの怪我に託つけていろいろ世話させてもらってた」
「な、」
由布院は今度こそ絶句した。なんだそれ、その発想はなかった。ところが鬼怒川はまるで表情を変えない。当然のことを言った、みたいな顔をしている。
「別に煙ちゃんの怪我が嬉しかったわけじゃないよ」
「今のはそう取られてもおかしくない言い方だぞ」
「あー、いや、うん、嬉しかったわけじゃないけど、都合はよかった、よね」
由布院は一歩後ずさったけれど、それでどうにかなるわけもなかった。いま自分はどんな顔をしているのだろう。鬼怒川の大きな瞳は確かにこちらを見つめているが、そこに映った自分の表情なんて見えるはずもない。
「煙ちゃん」
「……なに」
「俺はまだ煙ちゃんの世話がしたいな」
言いながら鬼怒川がこちらに一歩近付いてきて、由布院はけれどもう一歩後ずさることができなかった。ひどくのどが渇いていた。
「俺は」
自由が好きだ。好き勝手に生きて行きたい。いくら熱史にだって縛られたくはない。そう思っているはずなのに、鬼怒川の手が伸びてくるのを払いのけられなかった。じっとりと汗ばんだ手でするりと頬を撫でられて、由布院はごくりと喉を鳴らした。
「煙ちゃん」
鬼怒川の顔が近づいてくる。呼吸のタイミングがわかるくらい近くにいることに動揺した由布院は思わず口を開いた。
「のど、かわいた……」
「へえ」
世話を焼くと言ったくせに、こちらの要望なんてまるで聞きもせずに、鬼怒川はゆるりと笑った。手首を捕まれ、もう逃げられない。唇と唇が重なるのを待って、由布院は目を閉じた。
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