boueibu


「あれ、阿古哉は?」
生徒会室に入ってすぐ有馬が辺りを見回すと、会長用の机に座った草津は書類から顔を上げずに「帰った」とだけ短く答えた。有馬は下呂がなんのために帰ったのか結局わからないまま、しかし理由は尋ねなかった。有馬はいつも通り応接セットのソファに腰掛ける。生徒会室にふたりになるのは久しぶりだ。下呂はなんだかんだこのメンバーの中では口数の多いほうなので、彼がいないとこの部屋は妙に静かだ。校庭の方から運動部の声が聞こえてくる。
「有馬」
有馬も書類を広げようとしていたところだったが、草津に声をかけられれば、そちらを見るしかない。
「なんだい」
有馬の問いかけに返事もせずにおもむろに立ち上がった草津は、会長用の机の引き出しを引いた。ふたりだけになると、草津はいつも以上に横暴になる。有馬とて、それに抗う気もさらさらないのだが。
草津は有馬が腰掛けているソファの傍らまでやってくると、手にしていた高級百貨店の紙袋をこちらに叩きつけた。避けそこねて、それは有馬の肩にぶつかり、ソファの肘掛けに当たって絨毯の上に落ちた。
「着ろ」
たったそれだけを言って、ふたたび机のほうに戻っていく。ソファに座ったまま屈んで紙袋を引き上げ、そのまま中身を見た有馬は、思わずため息をついた。
「こういうのは、阿古哉にやらせたほうがよっぽど似合うんじゃない?」
本人が豪語する程度には中性的で美しい後輩の名前を出して、有馬は草津に苦笑を向けた。しかし草津の視線はさっきと変わらず尖ったままだ。有馬の言動ひとつで草津の不機嫌がどうにかなるようなことなどありえない。
「黙れ」
案の定草津の声は高飛車だった。
「着ろと言っている」
「……はいはい」
もっとも有馬だって、本気で拒否するつもりではなかった。ふう、と息を吐き出して、ゆっくりと紙袋の中身――セーラー服を取り出した。規律と規範と気品と美しさを重んじる草津がどうやって男性サイズのセーラー服を手に入れたのだろう、と有馬はふと考えた。まさかこ手のものが売っているようなバラエティショップに彼が行くわけはないだろうし、こんなものの購入を使用人に頼むわけにもいかないだろう。しかし、それを詮索できる立場にないことは重々承知している。有馬は白い詰め襟のホックを外した。首元が開放されて、少し息がしやすくなる。上着を脱いでできるだけしわにならぬようにソファの背もたれにかけると、シャツのボタンを外して、白い半袖シャツ一枚になった。ベルトを外してスラックスも脱いでしまうと、下着とハイソックスだけの姿になる。念のため確認すると、紙袋のなかに女物の下着は入っていない。それに少しだけ安堵しつつ、紺色のプリーツスカートを手にとった。
一旦スカートを腰に当ててみると、丁度膝丈なのがむしろ草津らしい。こんなことをしても、意味なんかないのに。有馬は心の中でだけ呟いた。聞こえるはずもないのに草津が「早くしろ」と声をかけてきて、一瞬心臓が跳ねる。
白いローファーを脱いで靴下で絨毯の上に立つ。スカートに脚を通し、ファスナーを上げてホックを止める。それから上着を手にとった。こちらも全部が紺色だ。コスプレ用品と言うには存外しっかりとした生地をしている。上からかぶって上着を着て、こちらもあとはスカーフをつけるだけだ。真っ赤なそれを襟のしたに通そうとしたところで、草津がふたたびこちらに近づいてきた。
「錦史郎?」
名前を呼ばれた草津は、黙ったまま有馬から奪うようにしてスカーフを手に取った。有馬の正面に立つと、有馬の背中側にに手を回して、セーラー襟の下にそれを通す。草津の白い手と真っ赤なスカーフは妙に背徳的なコントラストがある。有馬は草津がスカーフ通しにスカーフを通して、その形を整えるのを見下ろしながら、はあと息を吐く。鏡を見たわけではないけれど、自分はやはりセーラー服は似合わない。それは間違いなく。間違いなく自分は男のからだつきをしている。例えばこの、目の前の草津よりもよほど背が高く、しっかりとした骨格をしているのだ。まだ夕方と呼ぶには早い、あくまで健全なこの時間帯に、蛍光灯に照らされた明るい部屋で、自分はなんという格好をしているのだろう。いつなんどき教師や、あるいは一般生徒がこの部屋に入ってくるとも知れないのに。
しばらくスカーフと格闘していたが、どうやらその形に満足したらしい草津は有馬から一歩離れると、上から下までたっぷりと観察した。有馬はさすがに居心地悪く感じて草津から逃れるように目をそらす。そして、不意に、ふは、と草津が息を吐き出すのを聞いて、ようやく彼の顔を見た。
草津は笑っている。
「やはり似合わないな、有馬、醜いな!」
「だから阿古哉のほうが似合うって言っただろう」
高らかな声を上げる草津に、有馬はいつも通りの平坦な声で反論した。その態度が気に食わなかったのか、草津の眉が釣り上がる。
「そういう話ではない!」
笑ったと思えば叩きつけるように声を張り上げる。有馬はしかし表情を変えなかった。そのまま草津をじっと見つめていると、なにがおかしいのか彼はまた笑った。
「ああ、有馬、こんなものを着て、きみは女になりたいのか?」
妙に猫なで声で、草津は言う。こんな服を着るよう命令したのは誰か、などと野暮な反論はするべきではない。
いい加減、この生徒会長の考えていることは手に取るようにわかる。それだけの時間をとなりで過ごしてきたつもりだ。……彼がこの間、三年生の教室で、鬼怒川熱史と由布院煙の性交の現場を目撃してしまったことも知っている。そうしてしばらく荒れていたことも知っている。その現場でで女役をしていたのが由布院の側だったことを勘案すれば、草津の奇行の理由など明らかだった。
草津のひんやりと冷たく細い指が、有馬の耳を撫でる。その指先が耳たぶまでたどりつくと、ピアスのところで止まった。
「こんなものをつけて」
草津の声は突然攻撃的になった。ピアスをぐっと押されて、有馬はここでようやくわずかに顔をしかめた。草津は
ピアスをつまんでくりくりと回す。それをもてあそびながら、くく、と喉の奥で笑う。
「ピアスなどをつけて、セーラー服を着て、きみなどどう足掻いても女にはなれないのにな!」
高らかに言い放つ草津の目には確かに薄い涙の膜が張っていて、有馬はその痛々しさから目を逸らせない。
おんなになりたいのは君自身だろう。それも、草津錦史郎という男は、「鬼怒川熱史のおんな」になりたい。けれど今、その立場にいるのは由布院煙だ。鬼怒川よりもすらりと背が高く、大人びた顔立ちに低い声の、およそどこにも女らしさなどない、由布院煙だ。彼がおんな役をつとめていることが認められないから、彼と似た体格の自分に「典型的な女の格好」であるセーラー服を着させた。やはりおんなと似ては似つかぬ存在であるとあざ笑うために。
だからこれは結局、セーラー服姿の有馬の滑稽さを笑っているわけではない。つまるところ、自嘲だ。――笑ったところで、虚しいだけだろうにね。
「まったく、こんなにおもしろい見せ物は他にないな」
「……錦史郎」
「ハハ、」
敵役のような高笑いをしようとして、草津はそれを途中でやめた。有馬はそれでも、やはり黙って草津を見ていた。草津は今度は唇を噛み締めていた。さっきまで妙にハイテンションだった草津が口を閉ざしてしまい、部屋が突然静かになる。また外からのんきな運動部の掛け声が聞こえてきた。
「…………目障りだ、脱げ」
それだけ絞るように言うと、草津はくるりと踵を返した。おそらくもう二度と有馬の女装した姿など見たくないということだろう。有馬は「わかった」とだけ言って、草津が整えてくれたスカーフをするりと抜き取った。
「……なぜ拒否をしない」
こちらに背中を向けたまま、草津は言った。
「従う理由はあるけど、拒否をする理由がないからね」
有馬はからだの横についているファスナーのスライダーを引っ張りながらそう答えた。上着を脱いでしまうと、それを一旦ソファの上に放る。スカートもさっさと脱いでしまうと、着慣れた制服の上着を羽織る。やっぱりこっちのほうがよほど落ち着く。
「有馬」
「うん」
有馬はスラックスに脚を通しながら返事をした。
「きみも私を笑っているんだろう」
「なぜ?」
「こんなことをさせて」
「まさか」
有馬は再びソファに腰掛ける。まるでさっきまでの時間がなかったように。しかしセーラー服は傍らにあるので、改めて畳み直すと紙袋に入れ直した。どうしたものかと思ったが、最終的に草津の小さな背中に向かって声をかける。
「錦史郎、返すよ」
「…………」
草津はちらりとこちらを見て、すっかり着替え終わっていることを確認し、それからようやくしっかりとこちらを見た。有馬は草津の手を取り紙袋の持ち手を握らせる。
「きみのしたいことが、ぼくのしたいことだよ」
「……そうか」
草津は紙袋を見ながら頷いた。
そうだ、自分は決して草津のことを滑稽だなんて思ってはいない。
――ただ、哀れだとは思っているけれど、それを口に出そうとも、思っていない。

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