涙くんさよなら
十三
パチンコを打つようになってもう五年くらいは経っていて、五年間で俺は毎回それなりにプラスを出し続けていた。負けたことはなかった。熱史にはいつかは負けるよ、と随分口酸っぱく言われ続けていたけれど、俺はそれをなあなあにして、足繁くパチンコ屋に向かっていた。
だが、だというのに今日、俺はうまれてはじめて、パチンコで、負けた。俺は財布のなかをすっからかんにして、店の自動ドアの前で呆然としている。
バイトの給料日直前でろくに手持ちもなかったのに、俺は一気に三万も失ってしまった。調子が悪いことには気付いていたのに、いつもならそれで手を引くのに、今日はなぜか延々台の前に居座ってしまっていた。なぜだ。
とはいえ、相変わらず実家暮らしの俺は、べつに一文なしになったって死にやしない。だからなんともないといえばなんともないんだけど、今日はこれから熱史や後輩たちと、防衛部飲みなのだった。これじゃその飲み会の金も出せない。どうしたもんか。今回の幹事は立だから、立に連絡して不参加を告げるか、誰かに金を借りるか。
俺はスマートフォンを取り出し、ラインの画面を見て、それからため息をついた。熱史に言えば、金は借りられるだろう。立も、いざ俺が不参加だと言えば「しょーがないっすねえ」って貸してくれる気がする。有基にはなんとなく、借りたくない。硫黄に金の話をするなんて論外だ。
熱史に借りるにせよ立に借りるにせよ、飲み会に出る限りどのみち面倒くさいことになるなあ、と思う。特に硫黄は、俺を声高に非難するだろう。大学に入ってますます資産を増やしてやがるあいつの総資産はもうとっくに百億を超えてるとか超えてないとかなんだけどな。それでもケチなところは全然変わってないから、むしろすごいとしか言いようがない。それだけの金をどうするつもりなんだろう、というのは俺の純粋な疑問だ。
俺はため息を吐きながらとりあえず立に連絡を取ることにした。なんとなく、熱史には負けたことを言いたくない気持ちが勝った。
ラインの友達一覧を見ると、「いぶし」という名前が一番上にあった。反射的に、その名前を押してしまう。トーク画面には、昨日のどうでもいいやりとりが残っている。
燻にこの負けを報告したらどんな反応をされるのだろう。ふと、そう思った。どうせこの距離ではあいつに金を借りたりはできないし、それはそれで。
俺は先に立にことのあらましを説明するメッセージを送ると、次にもう一度有馬とのトーク画面を開いた。それから「なー、パチンコで一文無しになっちゃった」とだけ送ってみる。しばらく待ってみたが、燻からの返事はなかった。まあ、時差とかあるしな。
一方で、立からはすぐに返事が来た。あいつのマメさには本当に頭が下がる。「次回の幹事由布院先輩で、全員分おごってくれんなら来てもいいっすよ」だそうだ。「じゃあ行かねーよ」と返したら、「冗談すけど」ときた。それからいくつかのやりとりをして、結局俺は立に金を借りることになってしまった。やっぱり罰が悪いから、とりあえず早めに返そう、と思った。
口止めしておかなかった俺もなんだが、どうやら立は俺が金を借りたことを硫黄に話してしまったらしい。遅れて席についた俺を、硫黄がぎらりとねめつけてくる。
「信じられません、たかがパチンコで三万円も失うだなんて」
「うるせー、今まで一度も負けたことなかったんだよ。お前だってその株だのFXだので負けたことあんだろうが、この間何百万損したんだっけ?」
「ぐ……」
「え、煙ちゃんついに負けたの?」
「煙ちゃん先輩可哀想っす」
「いやー、可哀想じゃなくて自業自得なんじゃねーの」
こいつらマジで、何年経っても先輩に対する敬意というものが足りない。だけど、なんだかそれが心地いいのも事実だった。熱史がため息をつく。
「言ってくれれば四千円くらい貸したのに」
「いやー……」
こいつのこういうところが、俺はなんだかやっぱり、苦手かもしれない、と思う。だから立に最初に連絡したのだし、こうして硫黄たちにあれこれ文句を言われているのが、実は少しだけ、嬉しい。
飲み会は一通り俺をいじったあと、お互いの近況報告をし合うことになった。とはいえ、有基はいまは強羅さんと一緒に黒玉湯をやっているし、硫黄は大学出卒業を控えていよいよ本格的にデイトレーダーをしている。リュウは専門学校を出てから服屋で働いていたけど、本社から引き抜きの話が来ていて、近いうちに東京に出るかもしれないと言う。先輩の俺たちのほうがまだ学生をしているわけだが、立の話を聞いていると、やっぱり働きたくなくなるな。
「そういえば皆生徒会の……いぶちゃん……あー、有馬が行方不明になってたのって知ってたっけ」
だらだらとそんな話をしていると、ふと熱史は有馬の話題を出してきた。硫黄がぱちぱちと瞬きをする。
「知ってますよ。ていうか、鬼怒川先輩がそう言ってましたよね、何年か前に」
「あー、なんか下呂のやつが言ってたような気がする。見つかったんすか?」
「それがこの間煙ちゃんのバイト先に来たらしくて」
「へえ、生きてたんすねえ」
まあ、こいつらはあいつとそんなに絡みもなかったし、そんな感じの反応だろう。俺は黙ってジントニックを飲んだ。すると有基が首を傾げる。
「ていうか俺、有馬先輩のこと、年に一回くらい見かけてたっすよ」
「は? 有馬を?」
いきなりなにを言い出すんだこいつは。思わずグラスをテーブルに置くと、有基はちょっとびっくりしたように目を見開いて、それからこう言った。
「年に一回は言い過ぎかもしれないっすけど。たまーに。まあ、声かけても無視されたりとかして、別人かなーとも思ってたんですけど、あんなに大きい人もあんまりいないし」
「マジかよ」
「マジマジ、大マジっす!」
有基がこんな嘘をつくとも思えないし、恐らくこれは本当だろう。そういえば、今回だって花屋に来たのは供花を買いに来るためだった。家が嫌いだ嫌いだと言うわりには、じいさんの墓参りには毎年来てたとか、そういうことなのだろうか。よくもまあ、毎年誰にも見つからなかったものだ。いや、有基には見つかってたのか。動物的勘みたいなものであいつを見つけていたのだとしたら、むしろ驚いてしまう。
「なんだ、全然行方不明でもなんでもないじゃないすか」
立がそう笑って、熱史が「でも本当に、今まで連絡のひとつも取れなかったんだよ」と取り繕う。
「それにしても有馬先輩は、自分の家の資産を捨ててまで失踪していたということですよね。もったいない」
立や硫黄の反応はこいつらの普段を考えればむしろ当然のもので、なのに俺はなんだかいたたまれない気分になってくる。燻の野郎め、結局さっきから返事もよこしてくれていないし。俺はとりあえずまた酒を煽って飲み干し、次の一杯を頼むために店員を呼んだ。
居酒屋を出て、給料日後に立に金を返すために会う約束を取り付ける。みんなと別れてから、飲み会のあいだじゅう放置していたスマホを見ると、ラインに有馬からの返事が来ていた。俺は返信するために画面の上で指を滑らせる。
十四
「なー、パチンコで一文無しになっちゃった」
朝起きると由布院からそんなメッセージが送られてきていて、俺はそれをベッドの中で見ながら眉を寄せた。なんだこれ、めちゃくちゃ反応に困る。こういうとき、由布院は叱ってほしいのだろうか、それとも優しくしてほしいのだろうか。俺はそんなこともまだわからないままなのに。
ひとまず「何万すったの」と訊いてみると、今度は反応がない。まあこっちも返事は遅くなっちゃったしいつものことだから気にはせず、俺はベッドから体を起こして立ち上がった。今日も朝食の準備をして、学校に行かなきゃいけない。顔を洗って髪を直すために洗面所に立つと、あの日由布院にピアスをあげてからなにもしていないピアスホールが塞がりかけていた。どうしよう、新しいピアスでも買ってきて差しておくか、それともこのまま塞いでしまうか。
高校の頃よりピアスホールを増やしたことにそんなに深い理由はない。なぜか人にピアスをもらうことが多くて、もらったからにはそれを差しておくべきだと思ったからってだけだ。やっぱり、つけておくと喜ばれる、し。
身支度を整え朝食を食べて家を出ると、寒さにぶるりとからだが震えた。こちらの気温は日本より低いし、雪だってよく降る。今日の天気もあんまりよくなくて、俺は白い息を吐きながら、いつもの石畳の道を歩いた。
「三万」
授業が一段落したところでふとスマホを見ると、由布院からの返事が来ていた。短い答えに苦笑して、俺は結局朝迷ってはいたけれど、とりあえず忠告はしておこうと思った。
「まあ、お金をどう使おうと由布院の勝手だけど、俺は金は貸さないからね」
「貸してとは言ってないだろ」
今度はすぐに返事が来る。どうやらタイミングがよかったみたいだ。なんだかむすっとしている由布院の顔が頭に浮かんで、俺はちょっとだけ笑ってしまった。クラスメイトには訝しげな顔をされたけれど、それには笑って手を振っておく。こちらでもきちんと人付き合いをしていないので、余計なことを訊かれなくてすむのは助かった。
「お金貯めたら?」
廊下を歩きながらそう返事すると、またすぐに返ってくる。
「必要ねーもん」
「てか」
たったの二文字が送られてきて、それから次に「電話していい?」というメッセージが送られてくる。
「いいよ」
丁度学校から出たところだったのでそう返すと、すぐにそのまま電話がかかってきた。俺は表示された受話器のボタンをタップする。
「もしもし」
「おー、もしもし」
「珍しいね、電話なんて」
「いや、……ちょっとあ、燻に訊きたいことがあって」
由布院はまだ俺のことを燻と呼ぶことに慣れてないみたいだ。正直、まあ、錦史郎がまだ鬼怒川と仲直りする前からなんとなく思っていたことだけど、燻という名前は、ほんの少し熱史という名前と発音が似ている。まさか由布院が鬼怒川の名前を呼ぶかわりにいぶし、なんて呼んでいるとは思っていないけれど。
こうして名前を呼ばれると、どうしても、あの人のことを思い出してしまう。あまり普段下の名前で呼ばれないから、なおさらだ。
「訊きたいことって?」
「あのさ、お前、毎年じいさんの墓参り、来てた?」
「え」
まさかこのタイミングで由布院の口からあの人の話が出るなんて思ってもみなくて、俺はうんともすんとも言えなくなってしまう。
「な、んで」
「や、さっきまで防衛部で飲んでたんだけどさ、有基がお前のこと見かけてたって言ってたから、毎年」
「うそ」
「いやあいつ嘘とかつかねーだろ」
俺は高校を卒業してから箱根有基の顔は見ていないけど、確かに俺の知っているあの彼はそういうタイプではない。そもそも、それは図星だった。俺は毎年あの街に帰っていた。もちろん、知っている人には誰にも合わないように細心の注意を払って、墓参りをするだけして、すぐに帰っていたのだけれど。
「お前、そんなにじいさんのこと好きだったんだな」
由布院はなんだかしみじみとした声でそう言って、俺は返事に困ってしまう。恥ずかしいとか、恥ずかしくないとか、そういう問題じゃない。由布院が受話器の向こうで「もしかしてこれ地雷だった?」と訊いてくる。そういうわけじゃないんだけど。そういうわけじゃ、ないんだけど。
「祖父は、……あの家で唯一すきな人だったから」
「そっか」
由布院の声が優しいので、俺は少しだけ背中を曲げて、はあ、と息を吐き出す。
「……ねえ」
「なに」
「あのさ、名前もう一回呼んで」
「いぶし?」
由布院は理由も聞かずにさらりとそう言った。やっぱり由布院の発音の仕方が、声が、少しだけあの人に似ている。由布院にあの人を見ているなんて、本当にろくでもない。
あのとき、由布院とくっついて寝るなんてしなきゃよかった。今までここになかったものを思い知らされて、ときどきあの暖かさが恋しくなるなんて笑えやしない。もともとこちらでも必要以上の人付き合いはしないようにしていたせいで、不意に寒さを感じてしまう。コートのえりをかき合わせて息を吐くと、真っ白なそれはすぐに消えてしまった。
零
「いい燻。お父さんのような人になっちゃだめよ」
それが母親の口癖だった。母親は穏やかないい母親そのものの目で息子の目を覗き込み、何度もそう言った。
「いいか燻、お前の母さんのような女とは絶対に結婚するな」
一方で、父親の口癖はこれだ。父親は厳格で優しいいい父親そのものの目で息子の目を覗き込み、何度もそう言った。
ふたりとも、人前にでるときは威厳のある父親と穏やかな母親である。そういうときの彼らはいっそ親密すぎるほどで、周囲からはまさにおしどり夫婦だと囁かれていた。それが、息子の前では一変する。ふたりはお互いを憎しみ合い、互いの悪口を息子に吹き込み続けた。燻、と呼ばれた息子は、そのどちらの言葉にも頷いた。
「はい、お母様」
「はい、お父様」
聞き分けのよい息子であることはそんなに難しくない。彼らに向けて微笑んで、頷いておけばいいからだ。そうすれば彼らは優しく頭を撫でてくれる。嫌い合っているくせに、どこまでも似たもの同士の夫婦なのだな、と彼は思っている。
しかし、それにしてもうんざりしてくる。頭を撫でられたって、ちっとも嬉しくなんかない。みんな、上辺だけのことばに、態度に、簡単に騙される。両親のことをおしどり夫婦だと思っている使用人やその他の金持ちたち、ただ笑って頷いているだけなのに、息子は自分の味方だと思い込んでいる両親。馬鹿みたいだ。大嫌いだ。この苗字が自分についていることすら、本当は許しがたい。
彼が有馬という家のなかでこころを許しているのは、父方の祖父だけだった。彼は十五年前のバブル崩壊の際、その采配を間違え家の事業を傾けかけたせいで、妻からは離縁され、親戚中から疎まれ、腫れ物扱いされていた。社の経営からは隔絶され、隠居を強いられ、屋敷の隅の部屋で、本を読んで過ごしていた。両親からは祖父には近づくなと言われていたけれど、彼はしばしば親の目を盗んで祖父の部屋に行き、一緒に本を読んだり、昔行ったことのある外国の話をしたり、トランプでする手品を教わったりした。
「きっとお前にも、こころを捧げるべき相手が見つかるはずだ」
ある日祖父はそう言って、彼の頭を撫でた。父のものとも、母のものとも違う、渇いた手のひらだった。
「そんなもの、僕には必要ありません」
首を横に振ると、祖父はどういうわけか妙に優しく笑った。
「必要の有無は関係ないんだ、それがお前に存在することが重要なのだから」
彼はそのとき、祖父がなにを言っているのかがうまく理解できなかった。自分はぜったいにひとりで生きていくのだと思っていた。誰かを信じることなんてありえない。誰かを好きになることなんてありえない。
――少なくとも、彼が覚えている限りでは、これが最後の祖父との会話である。その言葉を置いて、祖父はあっさりと死んだ。そのとき彼は、小学生になったばかりだった。葬式にやってきた親戚たちは口々に祖父の文句を言った。あのせいで有馬家は没落しかけたのだ、せいせいした、早く死んでくれて助かった。
燻は祖父の骨を拾いながら、涙を流すことすら許されなかった。火葬場から帰るとすぐに祖父の部屋に行き、彼が机のなかに大事にしまいこんでいた小さな箱を手に取り、ポケットにいれる。自室に戻ってからその箱を開けると、ふたつぶの小さな銀色の玉のようなものが入っていた。後ろ側についていた棒状の部分をつまんで取り上げると、夕方の光を反射してにぶく光る。そういえばこんなものを母親も持っていた。耳に穴を開けて、そこに刺すのだ。
彼は試しに自分の耳にあてがってみたものの、穴がないので通るわけもなく、しかたなくそれを箱に入れ、自分の机にしまった。
おそらく今は許されないだろうけれど、いつか母のように、自分も耳に穴をあけよう。そうして、この耳飾りをつけるのだ。
燻はそう決めて、それから部屋の床に蹲って少し泣いた。こころを捧げるべき相手なんかいらない。今すぐにだって、おじいちゃんに会いたい。
十五
「遠慮しないでなんでも好きなもん食っていいぞ」
「ファミレスでそんなこと言われてもなー」
そう言いながら、立はテーブルの上でメニューを広げた。ページをめくってあれこれ悩んだあと、店員を呼んで注文する。そのメニューがあんなことを言ったわりに十分に空気を読んだラインナップだったので、俺はほっと胸を撫で下ろした。立はなんだかんだ気が遣えるやつだ。モテるわけだよ、こいつは。
「これ、ありがとな」
「はいどーも」
銀行のロゴが入った封筒に入れた金を立に渡すと、立はすぐにそれを開けた。中身を確認されると、確認して入れたつもりなのに、なんだか不安になってくるな。
「この金どうしたんすか?」
「なんの質問だよ、普通にバイト先の給料日が来たから下ろしてきただけだよ」
「なんだつまんねーの」
「つまんねーってなんだよ」
さすがに究極怠慢主義者の俺だって、犯罪行為を犯してまで金を手に入れようとは思わない。俺がむくれていると、店員が立のハンバーグとサラダとライスを持ってきた。
「いただきます」
「おー、どうぞどうぞ」
それからすぐに俺が頼んだ海鮮パスタもやってきたので、俺もフォークを取った。
「そーいやお前、結局東京行くの?」
今は地元の駅ビルでショップ店員をしている立は、成績がいいので本社に引き抜かれるかもしれない、らしい。前回の飲み会でそんな話をしていたことを思い出して、話題を振ってみる。
「いやまだ決定はしてないっすけど。行くなら四月からっすかねー」
「ふーん」
「まー一回くらい東京出てみたかったんで、行けるなら行きたいんですけど」
俺はまだ学生で、就職活動のことを考えることすら面倒くさい。なんだか立のほうが大人になっちまったような気がして、少々つらい。いや、別にいいんだけどさ。
「そういやお前って、ピアス減らした?」
ふと目に入った立の耳には、高校のとき程は飾りがついていない。俺がそう言うと、立はナイフを手放して自分の耳たぶに触れた。
「あー、店員があんまチャラチャラしてんのもなって思って?」
立が売ってる服は俺からすればまさに「チャラチャラ」してる服なんだけど、まあ、立には立の考えがあってのことだろう。俺は頷いて、せっかくならそれから最近疑問に思っていることを尋ねてみることにした。
「……ピアスあけるのって、やっぱ痛いわけ?」
「からだに穴開けるんすよ、痛くないわけないじゃないっすか」
「だよなあ」
こいつにせよ有馬にせよ、なんでそんなに痛い思いまでしていくつもピアスなんか着けてんだろ。俺は肩をすくめた。
「なんすか由布院先輩、穴開けるんすか?」
「や、別にその予定はないけど」
「まあ俺はその辺で売ってたピアッサーで開けてましたけど、病院とかでも開けてもらえるらしーっすよ。そっちのが痛くないかも」
「いやだから、からだに穴あけんだろ、痛くないわけねーだろ」
「ビビリっすねえ」
立はくくく、と笑って、それからハンバーグを完食した。食った食った、と言いながら、紙のおしぼりで口許を拭う。俺もパスタの最後のひとくちを食べて水を飲む。満腹だ。伝票を手にして財布の小銭入れの中を見ると、あのとき有馬からもらったピアスが入ったままになっている。
「先輩、これから暇ならうちの店行きません? 服買ってってくださいよ」
「お前んとこの服趣味じゃねーもん」
「ですよねー」
立はけらけら屈託なく笑い、だけど俺たちは立の職場が入っている駅ビルに向かった。服じゃなくても欲しいものはたくさんある。たとえば、そろそろ寒くなってきたから、しててもスマホが使える手袋が欲しい。
せっかくなので売れっ子販売員に手袋を選んでもらい、俺もバイトがあるので立とは駅ビルのなかで別れた。立とふたりだけで飯を食べたのは初めてだったような気がするけれど、まあまあ気楽だったな。いつも通り花屋に向かって歩いていると、尻のポケットでスマホが震えた。見れば燻からのラインだ。この間はじいさんのことを持ちだしたら妙におろおろしていた気がするけれど、まあそれはそれで。
「蔵王くんにはちゃんとお金返した?」
「丁度いま返したとこ」
「給料入ったんだ」
「そ、これからバイトだし」
歩きスマホはよくないっていうことはまあわかってるんだけど、俺は歩きながらだらだらと燻とラインでの会話を続ける。
「そっちはもうすぐ休み?」
「まあ、研究室には行くけどな」
「それって休めない?」
有馬から送られてきたそれに、俺はぱちぱちとまばたきをした。こいつがそんなことを言い出すなんて意外にもほどがある。
「いや、休もうと思えばいつでも休めるけど」
「それなら一度くらいこっち来なよ」
またまた意外な文章が送られてくる。俺は自分が意地の悪い顔をしているのを自覚しながら、「なに、さびしいの」と送ってみる。丁度ここで俺は花屋の前に到着し、スマホをしまってしまった。
そしてその二時間後、休憩に入ってからラインを見ると、そこには「会いたいよ」とだけメッセージが残っていて、俺は頭を抱えたくなったのだった。
十六
青天の霹靂というかなんというか。なんにせよ驚いたのは確かだった。ある日大学から帰ると、待ち構えていたように母親に声をかけられた。曰く、姉が、先日お見合いをした相手と結婚することになったらしい。彼はナントカ家のナントカさんで、まだ若いのにナントカという大きな企業の役員で。そんなことをべらべらと言われたけれど、あんまり頭には入ってこなかった。勉強で存分に疲れていたし、おまけに「結婚」ということばがあまりにも非現実的だったからだ。
母さんをかわして部屋に戻ると、そのままベッドの上に横になる。結婚。姉貴が結婚。まあ、そりゃあ、年齢を考えれば妥当なことなのかもしれないけれど、俺はそのお相手をお見合い写真でしか見たことがないわけで、やっぱり考えれば考えるほど混乱するばかりだった。
そこで俺はベッドから起き上がった。
「姉貴が結婚するんだって」
なんとなく錦ちゃんにそうラインすると、すぐに返事がきた。
「それはおめでとう、うちからもお祝いを出すよ」
「お気遣いなく」
カッコ笑い。そう打ち込みながら、ベッドの上に寝転がって天井を見上げる。結婚。結婚か。
少なくともこの小さな町じゃ、俺と錦ちゃんはそうすることはできない。もっとも、法令が整備されてそれが可能だったとしても、お互いの家族が反対するだろうことも目に見えていた。もちろんその理由だってわかるし、俺が家族の側なら同じように反対するんじゃないかと思う。
俺と錦ちゃんは、お互い今までとても真面目に生きてきたと思う。ずっと成績はトップだったし、運動だってそれなりにやったし、もちろん法律に反したこともない。俺たちの人生に、後ろめたいことなんかなにひとつないはずだ。それなのに、俺たちはただひとつ、大好きな相手と一緒になることを、たぶん、認められない。
そんなことを考えていると、無性に錦ちゃんの声が聞きたくなってきて、手にしていたスマートフォンをそのまま操作した。いつもの番号に回してスマホを耳に押し付けると、錦ちゃんはすぐに電話にでてくれた。
「もしもし」
「もしもし、俺だけど」
「わかってるよ」
向こうで錦ちゃんがくすくす笑う気配がした。やっぱりこういう笑い方をする錦ちゃんはかわいいなと思うし、おかげで少し気持ちがすっとした。
「どうかしたの?」
他の人の前では絶対しない柔らかい口調は、俺だけのものだ。たとえば煙ちゃんや後輩たちの前では、彼は絶対にこんなふうにはしゃべらない。俺はどう答えるべきか一瞬考えて、だけど先に錦ちゃんのほうがそうだ、と思いついたように続けた。
「おめでとう」
「なにが?」
いきなり祝われたので、俺は驚いてしまった。すると錦ちゃんがまた笑う気配がする。
「お姉さんの結婚」
「あ、ああ、伝えておくね」
「うん」
そうだった。その話をしていたんだった。姉貴の結婚のせいで、自分たちがそれをできないことを思い出して、俺は少し落ち込んでいたんだった。思わずはあ、とため息をつくと、錦ちゃんが「嬉しくないの」と尋ねてきた。どうしよう。言ってみようか。だけど、もしかしたら藪蛇になるかもしれない。錦ちゃんの性格はわかっているつもりだ。こんなことを言って、落ち込ませてしまうことを考えると、どうしても気が引けた。……いや、ここでちゃんと言わないと、言いたいことは言っておかないと、また錦ちゃんとの仲がこじれてしまうかもしれない。俺はそう思い直した。なんだって、ことばにしなければ伝わらないんだ。
「嬉しくないっていうか、相手のことも全然わからないし……実感がわかなくてさ」
「ああ、そうかもしれないね」
「それに……、なんていうか、俺と錦ちゃんだと」
俺はここで一度深呼吸した。
「結婚は、できないんだなって、思って」
さっきまで穏やかに会話していたはずの錦ちゃんが、ここですっかり黙ってしまった。俺は錦ちゃんの返事を待つ。錦ちゃんがなにを考えているのかはわからない。長い間待った。いや、それは一瞬だったのかもしれないけれど、長い間のように感じた。
「……そうだね」
そして錦ちゃんはそう言った。
「そう、だけど、それを今ここで言う必要はないだろう」
「錦ちゃん、だけど」
事なかれ主義の俺ではあるけど、これは目をそむけてはいけない問題だと思っている。今はお互い学生だから家族から結婚や家の話をされることはないけれど、その瞬間はたぶん、もう間近に迫っている。
「しばらく考えさせてくれ」
錦ちゃんは突っぱねるようにそう言った。俺が返事をする前に電話は切れてしまう。そこにいつもの俺への柔らかな口ぶりはなくて、俺はため息をついてもう一度ベッドに寝転がった。予想はしていたけれど、やっぱりきつい。
「……ってわけで、しばらく錦ちゃんと会話できてなくて」
錦ちゃんとのことを話せるのははっきり言って煙ちゃんしかいない。まあ、煙ちゃん自身は話すたびに心底面倒くさそうな顔をしているんだけど、それはそれ、これはこれだ。俺はたまたま学内で見つけた煙ちゃんを大学のカフェテリアに誘い、あんまりおいしくない学食のカフェラテをおごって話に付き合わせたのだった。
「つーか、そんなの男同士で付き合い始めた時点で考えなかったのかよ」
おまけにごもっともなツッコミをされてしまい、正直ぐうの音もでやしない。
「……一瞬頭をよぎったけど、まあいいやって」
「お前ら、頭いいわりには本能のまま行ってるとこあるよね」
煙ちゃんはテーブルに頬杖をついた。俺は肩をすくめる。やっぱりこれも否定できない。まったく、煙ちゃんの言い分はだいたい的確だ。
「もうあれじゃね? 渋谷だっけ、同性カップルもなんか結婚? できんの。そこに引っ越せな? それかこのまま草津に政治家になってもらってさ、そういうのオッケーな法律作ってもらえよ」
「オッケーな法律ができても、絶対家族に感情論で反対されるし」
「そりゃあ、恋愛だって感情なんだから感情で返されたりすることもあるわな」
……本当に、いつもにも増して、煙ちゃんのことばのキレがいい。俺はもう机に突っ伏してしまう。頭だって抱えたい気分だ。世の中のひとたちは、みんなどうしてるんだろう。そういうのも、全然わからないや。そりゃあ、俺だってずっと錦ちゃんには隣にいてほしいと思う。そういう人生を歩みたい。だけど、現状それは環境的に難しい。煙ちゃんは俺が悩んでいるのを全然気にかけてくれないで、今度はスマホをいじりだした。
「そーいや俺さ、今度有馬んとこ行くんだよね」
煙ちゃんは不意にそう言った。俺は思わず顔を上げる。
「え、煙ちゃん、いぶちゃんと連絡取ってるの」
あの日居酒屋でいぶちゃんと再会したものの、いぶちゃんは俺たちに頑なに連絡先を教えてくれなかった。煙ちゃんは瞬きをして、それから「お前らにメアドなんか教えたら家に教えられそーじゃん」とずばりと言った。ああ、これにも反論できない。とくに錦ちゃんなんか、たとえいぶちゃんに口止めされても、有馬のお父さんやお母さんに言っちゃうだろうなと思う。
「じゃあ、いぶちゃんに誘われたんだ」
「あー、まあ、もうすぐ休みだしな」
「いいなあ」
俺と錦ちゃんも休みの間に一緒にどこかに行こうとは話しているものの、この間の一件でそれも宙に浮いている。俺はまたため息をついた。
「……俺も行きたいなあ」
「行きゃいーじゃん、錦ちゃんとふたりで、どこにでも」
「わかってるくせに冷たいなあ」
煙ちゃんだっていぶちゃんだって、どうせなら俺たちのことも誘ってくれればいいのに。そう考えながら、俺はひとつ思いついた。そうだ、いぶちゃんに会いに行くってことにすれば、錦ちゃんも来てくれるかもしれない。
「ねえ、俺たちもいぶちゃんのところ行っちゃだめ?」
「は? んなのだめに決まってんだろ、あいつがなんでお前らに連絡先言わなかったのかもっかい考えろよ」
「いぶちゃんは俺たちに来るなとは言ってないよ」
「……」
煙ちゃんは黙って、それからため息をついた。
「だいたい向こうまで一緒になる俺が嫌だ。何が悲しくて付き合ってるやつらと長時間飛行機に乗らなきゃいけないんだよ」
「それはこっちも気をつけるからさ、俺たちも行っていいか、いぶちゃんにきいてみてよ」
強引に押し通すと、煙ちゃんはますます大きなため息をつく。それからスマホを取り出して、すいすいと操作した。こういうときに、絶対にだめだって言わないのが煙ちゃんらしい。
海外に行けば、いま錦ちゃんとの間で持ち上がっている問題がスッキリ解決する、はずはない。だけど、考え直す機会にはなるに違いない。どうやら煙ちゃんはいぶちゃんへラインし終えたらしい。俺と煙ちゃんはおとなしくいぶちゃんからの返事を待つ。しばらくすると、煙ちゃんのスマホがぶるりと震えた。煙ちゃんが黙ってスマホを持ち上げて、それからため息をついた。
「いぶちゃんから?」
「ああ」
「なんだって?」
「有馬んちは狭いから俺しか泊められねーって」
「ってことは?」
「……お前らはホテル別に取れば、来てもいいって……」
煙ちゃんはまた大きな息を吐く。どうしてそんなに嫌がってるんだろう。なんだかあからさまに機嫌が悪いような気がする。錦ちゃんに続いて煙ちゃんにまでそうなると、さすがに俺も参ってしまう。
「煙ちゃんはそんなに俺たちに来て欲しくないわけ?」
「だから付き合ってるやつら、おまけに喧嘩中、プラス俺であんな遠くまで行くのがだるいって言ってんだろ」
「じゃあそれまでに錦ちゃんはなだめておくから」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題だろ」
煙ちゃんはスマホに何事かを打ち込んで、それからこちらを目をそらす。返事がないのはずるい。俺が煙ちゃんの名前を呼ぶけど、煙ちゃんはやっぱりこちらに反応してくれない。
「お前らも有馬もなに考えてんのかさっぱりわかんねーよ」
「俺は煙ちゃんが考えてることがわからないよ」
俺を横目で見た煙ちゃんはなにも言わずにスマートフォンを机の上に置いた。
パチンコを打つようになってもう五年くらいは経っていて、五年間で俺は毎回それなりにプラスを出し続けていた。負けたことはなかった。熱史にはいつかは負けるよ、と随分口酸っぱく言われ続けていたけれど、俺はそれをなあなあにして、足繁くパチンコ屋に向かっていた。
だが、だというのに今日、俺はうまれてはじめて、パチンコで、負けた。俺は財布のなかをすっからかんにして、店の自動ドアの前で呆然としている。
バイトの給料日直前でろくに手持ちもなかったのに、俺は一気に三万も失ってしまった。調子が悪いことには気付いていたのに、いつもならそれで手を引くのに、今日はなぜか延々台の前に居座ってしまっていた。なぜだ。
とはいえ、相変わらず実家暮らしの俺は、べつに一文なしになったって死にやしない。だからなんともないといえばなんともないんだけど、今日はこれから熱史や後輩たちと、防衛部飲みなのだった。これじゃその飲み会の金も出せない。どうしたもんか。今回の幹事は立だから、立に連絡して不参加を告げるか、誰かに金を借りるか。
俺はスマートフォンを取り出し、ラインの画面を見て、それからため息をついた。熱史に言えば、金は借りられるだろう。立も、いざ俺が不参加だと言えば「しょーがないっすねえ」って貸してくれる気がする。有基にはなんとなく、借りたくない。硫黄に金の話をするなんて論外だ。
熱史に借りるにせよ立に借りるにせよ、飲み会に出る限りどのみち面倒くさいことになるなあ、と思う。特に硫黄は、俺を声高に非難するだろう。大学に入ってますます資産を増やしてやがるあいつの総資産はもうとっくに百億を超えてるとか超えてないとかなんだけどな。それでもケチなところは全然変わってないから、むしろすごいとしか言いようがない。それだけの金をどうするつもりなんだろう、というのは俺の純粋な疑問だ。
俺はため息を吐きながらとりあえず立に連絡を取ることにした。なんとなく、熱史には負けたことを言いたくない気持ちが勝った。
ラインの友達一覧を見ると、「いぶし」という名前が一番上にあった。反射的に、その名前を押してしまう。トーク画面には、昨日のどうでもいいやりとりが残っている。
燻にこの負けを報告したらどんな反応をされるのだろう。ふと、そう思った。どうせこの距離ではあいつに金を借りたりはできないし、それはそれで。
俺は先に立にことのあらましを説明するメッセージを送ると、次にもう一度有馬とのトーク画面を開いた。それから「なー、パチンコで一文無しになっちゃった」とだけ送ってみる。しばらく待ってみたが、燻からの返事はなかった。まあ、時差とかあるしな。
一方で、立からはすぐに返事が来た。あいつのマメさには本当に頭が下がる。「次回の幹事由布院先輩で、全員分おごってくれんなら来てもいいっすよ」だそうだ。「じゃあ行かねーよ」と返したら、「冗談すけど」ときた。それからいくつかのやりとりをして、結局俺は立に金を借りることになってしまった。やっぱり罰が悪いから、とりあえず早めに返そう、と思った。
口止めしておかなかった俺もなんだが、どうやら立は俺が金を借りたことを硫黄に話してしまったらしい。遅れて席についた俺を、硫黄がぎらりとねめつけてくる。
「信じられません、たかがパチンコで三万円も失うだなんて」
「うるせー、今まで一度も負けたことなかったんだよ。お前だってその株だのFXだので負けたことあんだろうが、この間何百万損したんだっけ?」
「ぐ……」
「え、煙ちゃんついに負けたの?」
「煙ちゃん先輩可哀想っす」
「いやー、可哀想じゃなくて自業自得なんじゃねーの」
こいつらマジで、何年経っても先輩に対する敬意というものが足りない。だけど、なんだかそれが心地いいのも事実だった。熱史がため息をつく。
「言ってくれれば四千円くらい貸したのに」
「いやー……」
こいつのこういうところが、俺はなんだかやっぱり、苦手かもしれない、と思う。だから立に最初に連絡したのだし、こうして硫黄たちにあれこれ文句を言われているのが、実は少しだけ、嬉しい。
飲み会は一通り俺をいじったあと、お互いの近況報告をし合うことになった。とはいえ、有基はいまは強羅さんと一緒に黒玉湯をやっているし、硫黄は大学出卒業を控えていよいよ本格的にデイトレーダーをしている。リュウは専門学校を出てから服屋で働いていたけど、本社から引き抜きの話が来ていて、近いうちに東京に出るかもしれないと言う。先輩の俺たちのほうがまだ学生をしているわけだが、立の話を聞いていると、やっぱり働きたくなくなるな。
「そういえば皆生徒会の……いぶちゃん……あー、有馬が行方不明になってたのって知ってたっけ」
だらだらとそんな話をしていると、ふと熱史は有馬の話題を出してきた。硫黄がぱちぱちと瞬きをする。
「知ってますよ。ていうか、鬼怒川先輩がそう言ってましたよね、何年か前に」
「あー、なんか下呂のやつが言ってたような気がする。見つかったんすか?」
「それがこの間煙ちゃんのバイト先に来たらしくて」
「へえ、生きてたんすねえ」
まあ、こいつらはあいつとそんなに絡みもなかったし、そんな感じの反応だろう。俺は黙ってジントニックを飲んだ。すると有基が首を傾げる。
「ていうか俺、有馬先輩のこと、年に一回くらい見かけてたっすよ」
「は? 有馬を?」
いきなりなにを言い出すんだこいつは。思わずグラスをテーブルに置くと、有基はちょっとびっくりしたように目を見開いて、それからこう言った。
「年に一回は言い過ぎかもしれないっすけど。たまーに。まあ、声かけても無視されたりとかして、別人かなーとも思ってたんですけど、あんなに大きい人もあんまりいないし」
「マジかよ」
「マジマジ、大マジっす!」
有基がこんな嘘をつくとも思えないし、恐らくこれは本当だろう。そういえば、今回だって花屋に来たのは供花を買いに来るためだった。家が嫌いだ嫌いだと言うわりには、じいさんの墓参りには毎年来てたとか、そういうことなのだろうか。よくもまあ、毎年誰にも見つからなかったものだ。いや、有基には見つかってたのか。動物的勘みたいなものであいつを見つけていたのだとしたら、むしろ驚いてしまう。
「なんだ、全然行方不明でもなんでもないじゃないすか」
立がそう笑って、熱史が「でも本当に、今まで連絡のひとつも取れなかったんだよ」と取り繕う。
「それにしても有馬先輩は、自分の家の資産を捨ててまで失踪していたということですよね。もったいない」
立や硫黄の反応はこいつらの普段を考えればむしろ当然のもので、なのに俺はなんだかいたたまれない気分になってくる。燻の野郎め、結局さっきから返事もよこしてくれていないし。俺はとりあえずまた酒を煽って飲み干し、次の一杯を頼むために店員を呼んだ。
居酒屋を出て、給料日後に立に金を返すために会う約束を取り付ける。みんなと別れてから、飲み会のあいだじゅう放置していたスマホを見ると、ラインに有馬からの返事が来ていた。俺は返信するために画面の上で指を滑らせる。
十四
「なー、パチンコで一文無しになっちゃった」
朝起きると由布院からそんなメッセージが送られてきていて、俺はそれをベッドの中で見ながら眉を寄せた。なんだこれ、めちゃくちゃ反応に困る。こういうとき、由布院は叱ってほしいのだろうか、それとも優しくしてほしいのだろうか。俺はそんなこともまだわからないままなのに。
ひとまず「何万すったの」と訊いてみると、今度は反応がない。まあこっちも返事は遅くなっちゃったしいつものことだから気にはせず、俺はベッドから体を起こして立ち上がった。今日も朝食の準備をして、学校に行かなきゃいけない。顔を洗って髪を直すために洗面所に立つと、あの日由布院にピアスをあげてからなにもしていないピアスホールが塞がりかけていた。どうしよう、新しいピアスでも買ってきて差しておくか、それともこのまま塞いでしまうか。
高校の頃よりピアスホールを増やしたことにそんなに深い理由はない。なぜか人にピアスをもらうことが多くて、もらったからにはそれを差しておくべきだと思ったからってだけだ。やっぱり、つけておくと喜ばれる、し。
身支度を整え朝食を食べて家を出ると、寒さにぶるりとからだが震えた。こちらの気温は日本より低いし、雪だってよく降る。今日の天気もあんまりよくなくて、俺は白い息を吐きながら、いつもの石畳の道を歩いた。
「三万」
授業が一段落したところでふとスマホを見ると、由布院からの返事が来ていた。短い答えに苦笑して、俺は結局朝迷ってはいたけれど、とりあえず忠告はしておこうと思った。
「まあ、お金をどう使おうと由布院の勝手だけど、俺は金は貸さないからね」
「貸してとは言ってないだろ」
今度はすぐに返事が来る。どうやらタイミングがよかったみたいだ。なんだかむすっとしている由布院の顔が頭に浮かんで、俺はちょっとだけ笑ってしまった。クラスメイトには訝しげな顔をされたけれど、それには笑って手を振っておく。こちらでもきちんと人付き合いをしていないので、余計なことを訊かれなくてすむのは助かった。
「お金貯めたら?」
廊下を歩きながらそう返事すると、またすぐに返ってくる。
「必要ねーもん」
「てか」
たったの二文字が送られてきて、それから次に「電話していい?」というメッセージが送られてくる。
「いいよ」
丁度学校から出たところだったのでそう返すと、すぐにそのまま電話がかかってきた。俺は表示された受話器のボタンをタップする。
「もしもし」
「おー、もしもし」
「珍しいね、電話なんて」
「いや、……ちょっとあ、燻に訊きたいことがあって」
由布院はまだ俺のことを燻と呼ぶことに慣れてないみたいだ。正直、まあ、錦史郎がまだ鬼怒川と仲直りする前からなんとなく思っていたことだけど、燻という名前は、ほんの少し熱史という名前と発音が似ている。まさか由布院が鬼怒川の名前を呼ぶかわりにいぶし、なんて呼んでいるとは思っていないけれど。
こうして名前を呼ばれると、どうしても、あの人のことを思い出してしまう。あまり普段下の名前で呼ばれないから、なおさらだ。
「訊きたいことって?」
「あのさ、お前、毎年じいさんの墓参り、来てた?」
「え」
まさかこのタイミングで由布院の口からあの人の話が出るなんて思ってもみなくて、俺はうんともすんとも言えなくなってしまう。
「な、んで」
「や、さっきまで防衛部で飲んでたんだけどさ、有基がお前のこと見かけてたって言ってたから、毎年」
「うそ」
「いやあいつ嘘とかつかねーだろ」
俺は高校を卒業してから箱根有基の顔は見ていないけど、確かに俺の知っているあの彼はそういうタイプではない。そもそも、それは図星だった。俺は毎年あの街に帰っていた。もちろん、知っている人には誰にも合わないように細心の注意を払って、墓参りをするだけして、すぐに帰っていたのだけれど。
「お前、そんなにじいさんのこと好きだったんだな」
由布院はなんだかしみじみとした声でそう言って、俺は返事に困ってしまう。恥ずかしいとか、恥ずかしくないとか、そういう問題じゃない。由布院が受話器の向こうで「もしかしてこれ地雷だった?」と訊いてくる。そういうわけじゃないんだけど。そういうわけじゃ、ないんだけど。
「祖父は、……あの家で唯一すきな人だったから」
「そっか」
由布院の声が優しいので、俺は少しだけ背中を曲げて、はあ、と息を吐き出す。
「……ねえ」
「なに」
「あのさ、名前もう一回呼んで」
「いぶし?」
由布院は理由も聞かずにさらりとそう言った。やっぱり由布院の発音の仕方が、声が、少しだけあの人に似ている。由布院にあの人を見ているなんて、本当にろくでもない。
あのとき、由布院とくっついて寝るなんてしなきゃよかった。今までここになかったものを思い知らされて、ときどきあの暖かさが恋しくなるなんて笑えやしない。もともとこちらでも必要以上の人付き合いはしないようにしていたせいで、不意に寒さを感じてしまう。コートのえりをかき合わせて息を吐くと、真っ白なそれはすぐに消えてしまった。
零
「いい燻。お父さんのような人になっちゃだめよ」
それが母親の口癖だった。母親は穏やかないい母親そのものの目で息子の目を覗き込み、何度もそう言った。
「いいか燻、お前の母さんのような女とは絶対に結婚するな」
一方で、父親の口癖はこれだ。父親は厳格で優しいいい父親そのものの目で息子の目を覗き込み、何度もそう言った。
ふたりとも、人前にでるときは威厳のある父親と穏やかな母親である。そういうときの彼らはいっそ親密すぎるほどで、周囲からはまさにおしどり夫婦だと囁かれていた。それが、息子の前では一変する。ふたりはお互いを憎しみ合い、互いの悪口を息子に吹き込み続けた。燻、と呼ばれた息子は、そのどちらの言葉にも頷いた。
「はい、お母様」
「はい、お父様」
聞き分けのよい息子であることはそんなに難しくない。彼らに向けて微笑んで、頷いておけばいいからだ。そうすれば彼らは優しく頭を撫でてくれる。嫌い合っているくせに、どこまでも似たもの同士の夫婦なのだな、と彼は思っている。
しかし、それにしてもうんざりしてくる。頭を撫でられたって、ちっとも嬉しくなんかない。みんな、上辺だけのことばに、態度に、簡単に騙される。両親のことをおしどり夫婦だと思っている使用人やその他の金持ちたち、ただ笑って頷いているだけなのに、息子は自分の味方だと思い込んでいる両親。馬鹿みたいだ。大嫌いだ。この苗字が自分についていることすら、本当は許しがたい。
彼が有馬という家のなかでこころを許しているのは、父方の祖父だけだった。彼は十五年前のバブル崩壊の際、その采配を間違え家の事業を傾けかけたせいで、妻からは離縁され、親戚中から疎まれ、腫れ物扱いされていた。社の経営からは隔絶され、隠居を強いられ、屋敷の隅の部屋で、本を読んで過ごしていた。両親からは祖父には近づくなと言われていたけれど、彼はしばしば親の目を盗んで祖父の部屋に行き、一緒に本を読んだり、昔行ったことのある外国の話をしたり、トランプでする手品を教わったりした。
「きっとお前にも、こころを捧げるべき相手が見つかるはずだ」
ある日祖父はそう言って、彼の頭を撫でた。父のものとも、母のものとも違う、渇いた手のひらだった。
「そんなもの、僕には必要ありません」
首を横に振ると、祖父はどういうわけか妙に優しく笑った。
「必要の有無は関係ないんだ、それがお前に存在することが重要なのだから」
彼はそのとき、祖父がなにを言っているのかがうまく理解できなかった。自分はぜったいにひとりで生きていくのだと思っていた。誰かを信じることなんてありえない。誰かを好きになることなんてありえない。
――少なくとも、彼が覚えている限りでは、これが最後の祖父との会話である。その言葉を置いて、祖父はあっさりと死んだ。そのとき彼は、小学生になったばかりだった。葬式にやってきた親戚たちは口々に祖父の文句を言った。あのせいで有馬家は没落しかけたのだ、せいせいした、早く死んでくれて助かった。
燻は祖父の骨を拾いながら、涙を流すことすら許されなかった。火葬場から帰るとすぐに祖父の部屋に行き、彼が机のなかに大事にしまいこんでいた小さな箱を手に取り、ポケットにいれる。自室に戻ってからその箱を開けると、ふたつぶの小さな銀色の玉のようなものが入っていた。後ろ側についていた棒状の部分をつまんで取り上げると、夕方の光を反射してにぶく光る。そういえばこんなものを母親も持っていた。耳に穴を開けて、そこに刺すのだ。
彼は試しに自分の耳にあてがってみたものの、穴がないので通るわけもなく、しかたなくそれを箱に入れ、自分の机にしまった。
おそらく今は許されないだろうけれど、いつか母のように、自分も耳に穴をあけよう。そうして、この耳飾りをつけるのだ。
燻はそう決めて、それから部屋の床に蹲って少し泣いた。こころを捧げるべき相手なんかいらない。今すぐにだって、おじいちゃんに会いたい。
十五
「遠慮しないでなんでも好きなもん食っていいぞ」
「ファミレスでそんなこと言われてもなー」
そう言いながら、立はテーブルの上でメニューを広げた。ページをめくってあれこれ悩んだあと、店員を呼んで注文する。そのメニューがあんなことを言ったわりに十分に空気を読んだラインナップだったので、俺はほっと胸を撫で下ろした。立はなんだかんだ気が遣えるやつだ。モテるわけだよ、こいつは。
「これ、ありがとな」
「はいどーも」
銀行のロゴが入った封筒に入れた金を立に渡すと、立はすぐにそれを開けた。中身を確認されると、確認して入れたつもりなのに、なんだか不安になってくるな。
「この金どうしたんすか?」
「なんの質問だよ、普通にバイト先の給料日が来たから下ろしてきただけだよ」
「なんだつまんねーの」
「つまんねーってなんだよ」
さすがに究極怠慢主義者の俺だって、犯罪行為を犯してまで金を手に入れようとは思わない。俺がむくれていると、店員が立のハンバーグとサラダとライスを持ってきた。
「いただきます」
「おー、どうぞどうぞ」
それからすぐに俺が頼んだ海鮮パスタもやってきたので、俺もフォークを取った。
「そーいやお前、結局東京行くの?」
今は地元の駅ビルでショップ店員をしている立は、成績がいいので本社に引き抜かれるかもしれない、らしい。前回の飲み会でそんな話をしていたことを思い出して、話題を振ってみる。
「いやまだ決定はしてないっすけど。行くなら四月からっすかねー」
「ふーん」
「まー一回くらい東京出てみたかったんで、行けるなら行きたいんですけど」
俺はまだ学生で、就職活動のことを考えることすら面倒くさい。なんだか立のほうが大人になっちまったような気がして、少々つらい。いや、別にいいんだけどさ。
「そういやお前って、ピアス減らした?」
ふと目に入った立の耳には、高校のとき程は飾りがついていない。俺がそう言うと、立はナイフを手放して自分の耳たぶに触れた。
「あー、店員があんまチャラチャラしてんのもなって思って?」
立が売ってる服は俺からすればまさに「チャラチャラ」してる服なんだけど、まあ、立には立の考えがあってのことだろう。俺は頷いて、せっかくならそれから最近疑問に思っていることを尋ねてみることにした。
「……ピアスあけるのって、やっぱ痛いわけ?」
「からだに穴開けるんすよ、痛くないわけないじゃないっすか」
「だよなあ」
こいつにせよ有馬にせよ、なんでそんなに痛い思いまでしていくつもピアスなんか着けてんだろ。俺は肩をすくめた。
「なんすか由布院先輩、穴開けるんすか?」
「や、別にその予定はないけど」
「まあ俺はその辺で売ってたピアッサーで開けてましたけど、病院とかでも開けてもらえるらしーっすよ。そっちのが痛くないかも」
「いやだから、からだに穴あけんだろ、痛くないわけねーだろ」
「ビビリっすねえ」
立はくくく、と笑って、それからハンバーグを完食した。食った食った、と言いながら、紙のおしぼりで口許を拭う。俺もパスタの最後のひとくちを食べて水を飲む。満腹だ。伝票を手にして財布の小銭入れの中を見ると、あのとき有馬からもらったピアスが入ったままになっている。
「先輩、これから暇ならうちの店行きません? 服買ってってくださいよ」
「お前んとこの服趣味じゃねーもん」
「ですよねー」
立はけらけら屈託なく笑い、だけど俺たちは立の職場が入っている駅ビルに向かった。服じゃなくても欲しいものはたくさんある。たとえば、そろそろ寒くなってきたから、しててもスマホが使える手袋が欲しい。
せっかくなので売れっ子販売員に手袋を選んでもらい、俺もバイトがあるので立とは駅ビルのなかで別れた。立とふたりだけで飯を食べたのは初めてだったような気がするけれど、まあまあ気楽だったな。いつも通り花屋に向かって歩いていると、尻のポケットでスマホが震えた。見れば燻からのラインだ。この間はじいさんのことを持ちだしたら妙におろおろしていた気がするけれど、まあそれはそれで。
「蔵王くんにはちゃんとお金返した?」
「丁度いま返したとこ」
「給料入ったんだ」
「そ、これからバイトだし」
歩きスマホはよくないっていうことはまあわかってるんだけど、俺は歩きながらだらだらと燻とラインでの会話を続ける。
「そっちはもうすぐ休み?」
「まあ、研究室には行くけどな」
「それって休めない?」
有馬から送られてきたそれに、俺はぱちぱちとまばたきをした。こいつがそんなことを言い出すなんて意外にもほどがある。
「いや、休もうと思えばいつでも休めるけど」
「それなら一度くらいこっち来なよ」
またまた意外な文章が送られてくる。俺は自分が意地の悪い顔をしているのを自覚しながら、「なに、さびしいの」と送ってみる。丁度ここで俺は花屋の前に到着し、スマホをしまってしまった。
そしてその二時間後、休憩に入ってからラインを見ると、そこには「会いたいよ」とだけメッセージが残っていて、俺は頭を抱えたくなったのだった。
十六
青天の霹靂というかなんというか。なんにせよ驚いたのは確かだった。ある日大学から帰ると、待ち構えていたように母親に声をかけられた。曰く、姉が、先日お見合いをした相手と結婚することになったらしい。彼はナントカ家のナントカさんで、まだ若いのにナントカという大きな企業の役員で。そんなことをべらべらと言われたけれど、あんまり頭には入ってこなかった。勉強で存分に疲れていたし、おまけに「結婚」ということばがあまりにも非現実的だったからだ。
母さんをかわして部屋に戻ると、そのままベッドの上に横になる。結婚。姉貴が結婚。まあ、そりゃあ、年齢を考えれば妥当なことなのかもしれないけれど、俺はそのお相手をお見合い写真でしか見たことがないわけで、やっぱり考えれば考えるほど混乱するばかりだった。
そこで俺はベッドから起き上がった。
「姉貴が結婚するんだって」
なんとなく錦ちゃんにそうラインすると、すぐに返事がきた。
「それはおめでとう、うちからもお祝いを出すよ」
「お気遣いなく」
カッコ笑い。そう打ち込みながら、ベッドの上に寝転がって天井を見上げる。結婚。結婚か。
少なくともこの小さな町じゃ、俺と錦ちゃんはそうすることはできない。もっとも、法令が整備されてそれが可能だったとしても、お互いの家族が反対するだろうことも目に見えていた。もちろんその理由だってわかるし、俺が家族の側なら同じように反対するんじゃないかと思う。
俺と錦ちゃんは、お互い今までとても真面目に生きてきたと思う。ずっと成績はトップだったし、運動だってそれなりにやったし、もちろん法律に反したこともない。俺たちの人生に、後ろめたいことなんかなにひとつないはずだ。それなのに、俺たちはただひとつ、大好きな相手と一緒になることを、たぶん、認められない。
そんなことを考えていると、無性に錦ちゃんの声が聞きたくなってきて、手にしていたスマートフォンをそのまま操作した。いつもの番号に回してスマホを耳に押し付けると、錦ちゃんはすぐに電話にでてくれた。
「もしもし」
「もしもし、俺だけど」
「わかってるよ」
向こうで錦ちゃんがくすくす笑う気配がした。やっぱりこういう笑い方をする錦ちゃんはかわいいなと思うし、おかげで少し気持ちがすっとした。
「どうかしたの?」
他の人の前では絶対しない柔らかい口調は、俺だけのものだ。たとえば煙ちゃんや後輩たちの前では、彼は絶対にこんなふうにはしゃべらない。俺はどう答えるべきか一瞬考えて、だけど先に錦ちゃんのほうがそうだ、と思いついたように続けた。
「おめでとう」
「なにが?」
いきなり祝われたので、俺は驚いてしまった。すると錦ちゃんがまた笑う気配がする。
「お姉さんの結婚」
「あ、ああ、伝えておくね」
「うん」
そうだった。その話をしていたんだった。姉貴の結婚のせいで、自分たちがそれをできないことを思い出して、俺は少し落ち込んでいたんだった。思わずはあ、とため息をつくと、錦ちゃんが「嬉しくないの」と尋ねてきた。どうしよう。言ってみようか。だけど、もしかしたら藪蛇になるかもしれない。錦ちゃんの性格はわかっているつもりだ。こんなことを言って、落ち込ませてしまうことを考えると、どうしても気が引けた。……いや、ここでちゃんと言わないと、言いたいことは言っておかないと、また錦ちゃんとの仲がこじれてしまうかもしれない。俺はそう思い直した。なんだって、ことばにしなければ伝わらないんだ。
「嬉しくないっていうか、相手のことも全然わからないし……実感がわかなくてさ」
「ああ、そうかもしれないね」
「それに……、なんていうか、俺と錦ちゃんだと」
俺はここで一度深呼吸した。
「結婚は、できないんだなって、思って」
さっきまで穏やかに会話していたはずの錦ちゃんが、ここですっかり黙ってしまった。俺は錦ちゃんの返事を待つ。錦ちゃんがなにを考えているのかはわからない。長い間待った。いや、それは一瞬だったのかもしれないけれど、長い間のように感じた。
「……そうだね」
そして錦ちゃんはそう言った。
「そう、だけど、それを今ここで言う必要はないだろう」
「錦ちゃん、だけど」
事なかれ主義の俺ではあるけど、これは目をそむけてはいけない問題だと思っている。今はお互い学生だから家族から結婚や家の話をされることはないけれど、その瞬間はたぶん、もう間近に迫っている。
「しばらく考えさせてくれ」
錦ちゃんは突っぱねるようにそう言った。俺が返事をする前に電話は切れてしまう。そこにいつもの俺への柔らかな口ぶりはなくて、俺はため息をついてもう一度ベッドに寝転がった。予想はしていたけれど、やっぱりきつい。
「……ってわけで、しばらく錦ちゃんと会話できてなくて」
錦ちゃんとのことを話せるのははっきり言って煙ちゃんしかいない。まあ、煙ちゃん自身は話すたびに心底面倒くさそうな顔をしているんだけど、それはそれ、これはこれだ。俺はたまたま学内で見つけた煙ちゃんを大学のカフェテリアに誘い、あんまりおいしくない学食のカフェラテをおごって話に付き合わせたのだった。
「つーか、そんなの男同士で付き合い始めた時点で考えなかったのかよ」
おまけにごもっともなツッコミをされてしまい、正直ぐうの音もでやしない。
「……一瞬頭をよぎったけど、まあいいやって」
「お前ら、頭いいわりには本能のまま行ってるとこあるよね」
煙ちゃんはテーブルに頬杖をついた。俺は肩をすくめる。やっぱりこれも否定できない。まったく、煙ちゃんの言い分はだいたい的確だ。
「もうあれじゃね? 渋谷だっけ、同性カップルもなんか結婚? できんの。そこに引っ越せな? それかこのまま草津に政治家になってもらってさ、そういうのオッケーな法律作ってもらえよ」
「オッケーな法律ができても、絶対家族に感情論で反対されるし」
「そりゃあ、恋愛だって感情なんだから感情で返されたりすることもあるわな」
……本当に、いつもにも増して、煙ちゃんのことばのキレがいい。俺はもう机に突っ伏してしまう。頭だって抱えたい気分だ。世の中のひとたちは、みんなどうしてるんだろう。そういうのも、全然わからないや。そりゃあ、俺だってずっと錦ちゃんには隣にいてほしいと思う。そういう人生を歩みたい。だけど、現状それは環境的に難しい。煙ちゃんは俺が悩んでいるのを全然気にかけてくれないで、今度はスマホをいじりだした。
「そーいや俺さ、今度有馬んとこ行くんだよね」
煙ちゃんは不意にそう言った。俺は思わず顔を上げる。
「え、煙ちゃん、いぶちゃんと連絡取ってるの」
あの日居酒屋でいぶちゃんと再会したものの、いぶちゃんは俺たちに頑なに連絡先を教えてくれなかった。煙ちゃんは瞬きをして、それから「お前らにメアドなんか教えたら家に教えられそーじゃん」とずばりと言った。ああ、これにも反論できない。とくに錦ちゃんなんか、たとえいぶちゃんに口止めされても、有馬のお父さんやお母さんに言っちゃうだろうなと思う。
「じゃあ、いぶちゃんに誘われたんだ」
「あー、まあ、もうすぐ休みだしな」
「いいなあ」
俺と錦ちゃんも休みの間に一緒にどこかに行こうとは話しているものの、この間の一件でそれも宙に浮いている。俺はまたため息をついた。
「……俺も行きたいなあ」
「行きゃいーじゃん、錦ちゃんとふたりで、どこにでも」
「わかってるくせに冷たいなあ」
煙ちゃんだっていぶちゃんだって、どうせなら俺たちのことも誘ってくれればいいのに。そう考えながら、俺はひとつ思いついた。そうだ、いぶちゃんに会いに行くってことにすれば、錦ちゃんも来てくれるかもしれない。
「ねえ、俺たちもいぶちゃんのところ行っちゃだめ?」
「は? んなのだめに決まってんだろ、あいつがなんでお前らに連絡先言わなかったのかもっかい考えろよ」
「いぶちゃんは俺たちに来るなとは言ってないよ」
「……」
煙ちゃんは黙って、それからため息をついた。
「だいたい向こうまで一緒になる俺が嫌だ。何が悲しくて付き合ってるやつらと長時間飛行機に乗らなきゃいけないんだよ」
「それはこっちも気をつけるからさ、俺たちも行っていいか、いぶちゃんにきいてみてよ」
強引に押し通すと、煙ちゃんはますます大きなため息をつく。それからスマホを取り出して、すいすいと操作した。こういうときに、絶対にだめだって言わないのが煙ちゃんらしい。
海外に行けば、いま錦ちゃんとの間で持ち上がっている問題がスッキリ解決する、はずはない。だけど、考え直す機会にはなるに違いない。どうやら煙ちゃんはいぶちゃんへラインし終えたらしい。俺と煙ちゃんはおとなしくいぶちゃんからの返事を待つ。しばらくすると、煙ちゃんのスマホがぶるりと震えた。煙ちゃんが黙ってスマホを持ち上げて、それからため息をついた。
「いぶちゃんから?」
「ああ」
「なんだって?」
「有馬んちは狭いから俺しか泊められねーって」
「ってことは?」
「……お前らはホテル別に取れば、来てもいいって……」
煙ちゃんはまた大きな息を吐く。どうしてそんなに嫌がってるんだろう。なんだかあからさまに機嫌が悪いような気がする。錦ちゃんに続いて煙ちゃんにまでそうなると、さすがに俺も参ってしまう。
「煙ちゃんはそんなに俺たちに来て欲しくないわけ?」
「だから付き合ってるやつら、おまけに喧嘩中、プラス俺であんな遠くまで行くのがだるいって言ってんだろ」
「じゃあそれまでに錦ちゃんはなだめておくから」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題だろ」
煙ちゃんはスマホに何事かを打ち込んで、それからこちらを目をそらす。返事がないのはずるい。俺が煙ちゃんの名前を呼ぶけど、煙ちゃんはやっぱりこちらに反応してくれない。
「お前らも有馬もなに考えてんのかさっぱりわかんねーよ」
「俺は煙ちゃんが考えてることがわからないよ」
俺を横目で見た煙ちゃんはなにも言わずにスマートフォンを机の上に置いた。