涙くんさよなら







わるいおくれる、とだけ書かれたメッセージが届いていて、俺はため息をついた。全部ひらがななのは急いで送ってきたからだろうか。煙ちゃんらしいといえばらしいけど、おかげで錦ちゃんがまたぶつぶつ文句を言い始めている。
「なにか理由があるのかもしれないし」
「寝坊とか?」
「……まあ、その可能性が高いけど」
向かいに座ってる錦ちゃんがぐっと熱燗を飲み干した。錦ちゃんは酒に強いのに、それを見ているとなんだかハラハラしてしまう。もう付き合いも長いはずなんだから、煙ちゃんのペースになんか慣れてしまえばいいのに。そういう頑ななところが錦ちゃんらしいんだと思うけど。
とにかく、煙ちゃんを気にしていても仕方がない。俺たちは刺し身やサラダやステーキなどを注文して、とっくに食べ始めていた。ここのお店は値段よりはずっとおいしくて、俺たちのお気に入りなのだ。
サラダをとりわけながら、不意に錦ちゃんがため息をつく。あまり調子がよくなさそうだ。俺は錦ちゃんが持っているトンクを取り上げて、自分の分のサラダをよそう。
「錦ちゃん、疲れてる?」
「思ったように勉強が進まないんだ」
「俺もだ。なんか、全然頭に入ってこないんだよね」
種類は違うけれど、お互い国家資格を目指す身だ。その苦労は分かり合っている。
「わり、遅くなった」
そのとき不意に、聞き慣れた低い声が降ってきた。顔を上げると、やっぱり煙ちゃんが立っている。なんだかやたらにニヤニヤしてるな。そういえば、この間大学ですれ違ったときも、こんな顔をしていた、と思う。
「由布院、遅い、」
ぞ。まで錦ちゃんは言えなかった。俺も何も言えなかった。ぽかんと大きく口を開けて、煙ちゃんの隣に立っている、彼を見上げることしかできない。
「ひさしぶり」
にこりと笑った有馬――いぶちゃんの手は、どういうわけか煙ちゃんの手としっかり繋がれていた。錦ちゃんは相変わらず口を開いたまま、声を出せないでいる。
「あ……、」
「有馬もいいだろ、今日」
俺たちの驚きをまるで無視して、煙ちゃんはいつも通りのテンションでそう言って、俺の隣の席に座った。いぶちゃんもすんなりと錦ちゃんの隣に座る。錦ちゃんはいぶちゃんの顔を見て、それから目を逸らして、もう一度有馬を見る。
「どうしたの、錦史郎」
いぶちゃんは、不思議そうな顔で錦ちゃんを見る。
「どうしたのもこうしたのもないだろう!」
なんかもう錦ちゃんは今すぐにでも立ち上がりそうな勢いだ。だけどやっぱりいぶちゃんのことは直視できないらしく、なぜか煙ちゃんのほうを見た。
「由布院!」
「なに?」
錦ちゃんに比べると、煙ちゃんのテンションは本当に低い。からかっているような口許に、錦ちゃんがぶわりと怒りをふくらませるのが手に取るようにわかった。
「隠していたのか」
「え、なんの話」
「き、君は、有馬の居場所を知っていたのか!」
とりあえずなんでも煙ちゃんのことを疑ってかかってしまう錦ちゃんのくせはまだまだ健在で、でも煙ちゃんもそれに慣れっこで、肩をすくめた。
「そんなわけないでしょ、この間バイト先でたまたま会ったんだよ、な、有馬」
「そうだね。それでこの飲み会に誘われたんだ」
いぶちゃんは高校生のときのままのように見えた。こちらから錦ちゃんとふたりで並んでいるのを見ると、懐かしい気分になってしまうくらいには、馴染んでいる。そうあるべきものが、そこに収まっているような感覚にすらなってくる。錦ちゃんはたぶんいぶちゃんに訊きたいことがたくさんあるのだろう。、もちろん、俺だってあるけど。
「……有馬」
「うん」
「よかった」
だけど、やっといぶちゃんのことをまっすぐに見ることができるようになった錦ちゃんの口から出てきたのは、それだけだった。
「生きていてくれて、……よかった」
錦ちゃんの目から、ぼたりと涙が落ちる。いぶちゃんが瞬間目を見開いた。驚いているようにも、笑っているようにも、泣いているようにすら見える。なんとなく煙ちゃんのほうを伺うと、煙ちゃんはいぶちゃんの顔を食い入るように見つめていた。
「……ありがとう」
いぶちゃんは小さな声で、それだけ言った。それしか、言えないみたいだった。俺たちの間に沈黙が降りる。誰もなにも言えない。
「お客様、ご注文をお伺いします」
だけど、煙ちゃんといぶちゃんのドリンクを訊きに来た店員さんが俺たちの沈黙を破る。この状況のせいか店員さんの表情がほんの少しこわばっていて、俺たちはここでようやく我に返ったのだった。
「じゃあ俺はピーチウーロン」
「僕は……あ、僕も同じで」
煙ちゃんといぶちゃんは慌てて適当に注文する。俺は食べ終わったサラダの皿を店員さんのほうに押し出して、下げてもらう。
「ていうか煙ちゃん、さっき『バイト先でたまたま会った』って言ってたけど、いついぶちゃんと会ったの? 昨日今日の話じゃないよね」
これで、煙ちゃんが珍しく飲み会に来たいと言った理由も、あのときやたらニヤニヤしていた理由もわかってしまった。煙ちゃんはあのときにはもういぶちゃんを発見していて、それで、俺たちをどう驚かせようか画策していたに違いない。
「えーと、いつだっけ、有馬」
ところが煙ちゃんはすっとぼけて、あろうことにいぶちゃんに話を振った。いぶちゃんはええっと、と言って首を傾げた。
「十日くらい前だっけ」
「そ、んなに前から知っていたのに私達に知らせなかったのか由布院は!」
「いやー、驚かせたほうが面白いかなって思って。おかげで会長さんの泣き顔見れたし大成功だわ。ドッキリ大成功~! なんちゃって」
「煙ちゃん」
とりあえずたしなめておく。煙ちゃんのちょっとしたいじわるで、また錦ちゃんの頬が赤くなる。さすがに錦ちゃんをこんな風に面白がるのはいただけない。だけど煙ちゃんはにやにや笑ってばかりだ。俺はとりあえず話題を変えるために、いぶちゃんのほうを見た。
「それで、いぶちゃんはこの三年、なにしてたの?」
 

八‐三





「あ、付き合うとは言ったけどさ」
「ん?」
「俺、」
そういえばこいつすっかり一人称は俺で行くことにしたんだなあ、と思いつつ俺が少しだけ居住まいを正すと、有馬は少しだけ首を傾げてこう言った。量の多い髪がぼたりと落ちる。
「錦史郎たちとの飲み終わったら、すぐ東京戻るから」
「え?」
「さすがにこっちに長く居すぎたよ。いい加減向こうに戻らなきゃ」
そうだ、有馬は留学している身分なのだった。付き合い始めた途端に超遠距離レンアイかよ、と思ったものの、まあ、そのほうが気楽でいいかもしれねーな、と思い直す。俺みたいなのにはたぶん都合がいい、めちゃくちゃ。
「そういえばお前って結局家には」
「帰ってないよ、今はホテルを転々としてて」
「うわー、てかそれバレねえの、お前の家に」
「仮名で泊まってるから」
「仮名で泊まれんのかよ」
「泊まれるよ。田中でも鈴木でも高橋でも。なんなら今晩は由布院にしようかな」
「やめろ」
ほんとにこいつ、前以上にいい性格になりやがったんじゃないの。さっきまであれだけ感傷的なやりとりをしていたとは思えない気軽な態度に俺はすこしだけムッとして、それからそれならもう少しこっちだっていろいろ言ってやる権利はあるはずだと思った。
「じゃあ、俺も来週行くわ、東京」
「え?」
「久々にバイトねえし。研究はやんなきゃいけねーけどまあいいわ、お前が東京行くなら俺も行く」
「どうしたの、いきなり」
「たまには都会に出たいだろ」
「それだけ?」
「それだけ」
有馬は俺の目をじっと見て、長く息を吐き出した。
「……由布院ってほんといい性格してるよね」
「それ、お前にだけは死んでも言われたくねえわ」
言って笑うと、有馬もくすくすと笑った。なんだか性格の悪い女同士の会話みたいで、端から見たらめちゃくちゃ気色悪いだろうなと思うけれど、俺たちがまともじゃないのはたぶん最初からで、要するにそんなの今更だ。
とにかく有馬は断らなかったので、俺は来週末東京に行くことにした。有馬のことだ、さぞかしいいホテルに泊まるに違いない。いやどうかな、こいつもう金持ちの家は捨てちまったのか。じゃあただのビジホかも。
そんなことを考えながら俺は皿に残っていたトマトを箸でつまんで口の中に放り込む。水っぽくて全然おいしくない。
「つーかさ、連絡取るのめんどくさいからスマホにラインいれてよ、お前も。てかラインやってる?」
「この間やってないって言わなかったっけ?」
「あ、まじでやってないのか」
てっきり俺をかわすためにそう言ったんだと思っていた。有馬は信頼されてないなあ、と口許を緩める。だけど、実際、バイト先で会ったときの有馬は、今よりずっと、なんていうか、こちらに壁を作っていたというか、とにかく、それくらいの嘘はつきそうな雰囲気だったんだよな。
「なあ、ラインないとまじでお前に連絡しなくなるぜ」
「……わかったよ。あとで」
「今」
俺がそう言うと、有馬はため息をつくと、しぶしぶスマホを操作しはじめた。アプリのストアを開いてダウンロードして、それが終わったらアカウントを登録するために、個人情報を入力する。
「ていうか、これじゃ由布院専用アプリになっちゃうんだけど」
「いーじゃん、べつに」
有馬の目はいいわけないだろ、と言っているようだったけど、俺はそれを無視した。登録が終わったらしい有馬のスマホを覗いて、QRコードを使って俺のアカウントと繋げてしまう。
「あ、もしかして俺のラインが有馬専用じゃねーのが不満?」
「そんなわけないだろ」
「どうだか」
俺が肩をすくめると、有馬が少し眉間にしわを寄せた。あ、冗談のつもりだったけど、もしかして図星だった? からかってやるべきかフォローを入れるべきか考えて、俺は結局後者を選ぶことにした。
「まあ、俺はできるだけお前の名前をいちばん上にしとくから」
言いながら有馬のトーク画面にスタンプをひとつ押す。これ由布院くんっぽいよね、と言いながら、学部の女子がプレゼントしてくれたたまごのキャラクターのスタンプが、だるそうにしているイラストだ。
「別に不満だなんて言ってないだろ」
「はいはい」
なんだこいつ結構かわいいとこあんじゃん。俺の顔はたぶんめちゃくちゃ緩んでいる。自分でわかるもんだ。携帯がぶるりと震えて、見ればラインに最初からインストールされてあるくまのキャラクターが怒った顔をしているスタンプが有馬から送信されていた。
「可愛いなお前」
「そういうのいらないから」
有馬はスマホをテーブルの上に置くと顔を背けた。酒を入れても赤くならなかった顔は、今も別に真っ赤ってわけではないけれど、照れているのはこちらからでもわかる。なんだかこっちまで照れちまいそうだ。有馬のやつ、いつももっと、余裕たっぷりの顔してる、くせに。









三年ぶりの四人の飲み会は、つつがなく終わった。結局一通りしんみりした再会のあとは草津も熱史もつぎつぎと有馬に質問して、有馬はそれをさりげなくかわしながら、いくつかに答えた。俺と飲んだときもこの調子だったな。だけど俺たちはあいつらに「付き合い始めた」とは言わなかった。草津は久しぶりに実家に顔を出すからと早々に帰って行き、熱史はそれに付き添い、俺たちは駅でふたりになった。
「じゃ、行く?」
「行きますか」
そう言い合って、俺たちはスイカにたっぷりの金をチャージし、まずはこの辺りでいちばん大きな駅に向かうことにした。
新幹線を使えばあっというまに東京につくことはもちろん知っていたけれど、俺たちは鈍行を選んでガラガラの車内、ボックス席に向かい合って座った。有馬はタートルネックにジャケットといういかにもおぼっちゃまって感じの格好をしていて、家を捨てて地元を飛び出して、さらにこれから男と交際しようとしているようには全然見えない。だけど耳についてるピアスはやっぱり高校のころより増えていて、なんだかそれが痛々しかった。
「向こうについたら日付変わってるかも」
「『かも』じゃなくて、変わってるだろ」
スマホで乗り換え検索をすると、この電車が終点の上野に到着するのは十二時半を回った頃だ。有馬はなにが楽しいのかふふふ、と笑った。もしかしたら酒のおかげでそれなりに陽気になっているのかもしれない。
「……久々に会った『錦史郎』はどうだったよ」
「全然変わってなくてびっくりした」
「あー、それな、あいつほんとに変わんねーよな」
たぶん鬼怒川が隣にいてくれたからだね、と有馬は穏やかな声で言った。そりゃあさっきまで飲んでたわけだけど、乗る前にビールの一本や二本買っておけばよかった、と俺は思う。田舎を走る電車の窓の外は真っ暗で、なんにも見えやしない。
まるで逃げているようだ。実際逃げているのかもしれないけれど。
「死ななくてよかった、って思った?」
俺はそう尋ねた。草津の第一声、「生きててよかった」。あいつに、あの声で、あんな顔で、あんなことを言われて、有馬はどう思ったのだろう。十日前に有馬と再会して、一回飲んで、それから今回飲み会に引っ張り出して、俺はその間、有馬があんなに動揺した顔は見なかった。やっぱり有馬のこころを揺さぶるのは草津なのだと確信した、というか。
別にそれはそれで、全然いいんだけども。仕方のないことだ。
「……うん」
返事はやっぱり俺の考えていたとおりだった。有馬は窓枠に頬杖をついて、窓の外を見ている。真っ暗で、なんにも面白いことなんかないはずなのに。有馬がこちらを見ないので、俺はもう一つ質問をした。
「じゃあもう、死ななくていいって、思った?」
有馬はこれには明確な答えをださなかった。やんわりと笑ってみせただけだ。俺はそれにひやりとしたものを感じてしまう。まだ、有馬のこころのどこかに、棘が刺さっていることを理解してしまった。
「あのね由布院」
「なに?」
「俺はやっぱり家のこと、すきじゃないから」
「は、死ななくてもお前はもう十分親不孝もんだと思うけどな」
「そうかな」
「そうそう」
勝手に行方不明になって、戻ってきても家には顔を出さず、こうして夜中の電車で男と一緒に逃げようとしている。十分親不孝だ。俺はため息をついた。窓に息がかかって、一瞬そこだけが曇る。
「有馬はさ」
「うん」
「向こうで付き合ったやつとかいたの」
「えー、うん、まあ、それはご想像にお任せします」
まあ、質問するまでもなく、いたんだろうなあと思う。あの町から出たことすらろくにない俺は外国での日本人の需要なんか知ったこっちゃないが、こいつの顔とか品の良さとか人当たりとか、外国人でも好きになっちまうやつはいただろう。有馬の顔をまっすぐに見るのがなんだかだるくて、窓ガラスに映った垂れ目を見やる。高校時代は美男コンテスト不動の二位だった有馬燻は、何年経っても端正な顔をしている。やっぱりもったいないなあ、という思いがないではない。金持ちの家での何不自由ない生活、かわいくてやさしい女とのお付き合い、こいつは望めば手に入っただろうし、だけれど捨ててしまったのだ。
「由布院は?」
「自分で言わねえのに答えてもらえると思ってんの?」
「はは」
それもそうだね、と有馬は言って、それきり黙ってしまった。電車のなかは静まり返ってしまい、酒のせいで俺は眠くなってくる。それはもちろんすぐに有馬にバレて、「寝ていいよ」と言われてしまった。それならさっさとその言葉に甘えてしまおう。俺は目を閉じた。最後に見た有馬の顔は笑っていた。やっぱりきれいな顔をして笑うやつだと、そう思った。
 

十一





すっかり寝入ってしまった由布院を見ていると、なんだかこちらまで眠くなってきてしまう。由布院はいつも、ずいぶんと気持ちよさそうに眠るのだ。高校生だった頃、図書室で何度か見たのと同じ寝顔をしている。終点まで乗るから俺もこのまま寝てしまったっていいんだけど、それもなぜか、もったいないような気がした。
錦史郎に会ったのは(由布院や鬼怒川ともそうなんだけど、)三年ぶりだった。三年経っても錦史郎の表情も、中身も、変わっていなかった。隣に座って喜んでしまいそうになるくらいにはまだ、錦史郎のことが好きだった自分にあきれてしまう。
由布院ははっきり言ってしまえば錦史郎と正反対の性格をしている、と言ってもいいと思う。なのに僕は彼を選ぶことにしてしまった。彼は僕を選んでしまった。あからさまに傷を舐め合うためだけのこの関係がきちんと成立できるのか、俺にはまだわからない。
ただ、由布院は錦史郎には似ていないけれど、そばにいると、なんだか懐かしい気持ちになる。こちらがどろりと溶けてしまいそうになるような、そんな心安さがある。つまり俺は錦史郎のことをまだ忘れきれていないというのに由布院に簡単に絆されていて、そしてたぶん由布院もそれに気がついている。
結局、電車がホームに滑りこむときには、俺もすっかり寝入ってしまっていた。硬い座席のせいできしむからだを伸ばして、由布院と共に電車を降りる。
「そーいや宿とってんの?」
「いや、ビジネスホテルならいくらでもあると思ってたから……」
俺はスマホの画面を見ながらそう言った。ちょっと検索をかけると、神田にあるホテルに空きが見つかる。今から行ってもチェックインできそうだ。由布院にそれを告げると、彼は「東京はこの時間なのによくこんなに人がいるよな」と明後日の返事が飛んできた。まあ、拒否はされていない。俺たちは山手線に乗って、神田に向かった。電車のなかは酔っぱらいばっかりで、俺たちは息を潜めるようにして数駅を過ごした。
「そういえばこの前、お前結局由布院で宿取ったの?」
「え?」
この前。由布院。俺は少しだけ考えて、ようやく思い出した。俺はあの町で仮名を使ってホテルを転々としていたのだった。
「いや、結局あの夜は確か……なんだったかな」
「じゃあ今日は由布院で部屋取ろうぜ」
実際由布院も泊まるんだから仮名でもなんでもない気がしたけれど、俺は頷いた。穏やかに駅にたどり着いた電車から降りて、すっかり冷えきった空気に震える。居酒屋ばかりの町並みを通り抜けて、俺たちはようやく目的のビジネスホテルにたどり着いた。
宿泊者カードに由布院燻、とふざけた名前を書き込むと、由布院はなにがおかしいのか、やけに笑っている。俺たちはシングルベッドが二つ並んだ部屋に通された。
部屋についた瞬間真っ先にベッドに飛び込んでいった由布院は、ああー、と声を上げた。本当に寝るのが好きなんだなあと思いながら眺めていると、今度は少しだけ頭を上げて、「部屋狭いなあ」と言う。実際適当に取ったホテルなので、仕方がない。部屋の面積のうち九割がベッドに占められているんじゃないかとすら思えてくるような狭さだ。清潔なのだろうが建物自体が古そうで、陰気な空気が漂っている。しかし由布院はそんなことまるで気にしないで、ベッドの上でごろごろと寝転がる。
「つーか、お前こんな部屋で大丈夫なわけ? もっとこう高そうな、てーこくホテルとかじゃなくていいわけ」
「は、そんな金あるわけないだろ」
そうだ、俺が「有馬燻」だった頃は、あんな、鈍行列車の硬い座席に座っての移動だってありえなかった。だけど由布院はそんなことも知らずにベッドの上でまた寝返りを打つ。昔からいつもだるそうな目をしているけれど、今日はいつもに輪をかけてそんな感じで、よくもまあ鬼怒川はこれの面倒なんてみていられたなと思う。いや、鬼怒川も錦史郎と付き合い始めてからそんなこともしなくなったわけだし、なら由布院は、いったい今までだれに甘えて生きてきたのだろう。
いや、そんなこと、どうだっていいんだけど。
「せめてコートくらい脱いでから寝たら?」
「んー」
返事をしながらまるで起き上がる気配も見せず、由布院はこちらを見上げて手招きした。なぜかそれに逆らえずに近づくと、いきなりがばっと起き上がった由布院が、こちらの首に手を回してにやりと笑う。次にはふたりしてベッドに沈み込んでいた。百八十超えのでかい男ふたりの体重を受け止めたベッドが不穏に軋むけれど、由布院がそんなことを気にするはずもない。
「ベッドも狭いな」
「当たり前だろ」
「なー有馬」
甘えるような声で名前を呼ばれながら抱き寄せられる。ぺたりとくっつくとさっきまで気温の低い東京の街を歩いていた由布院の頬は冷たくて、ついでにたぶん、俺の手も冷たくて、それになぜかどきりとした。
「誘い慣れてるね、由布院」
「別に?」
「いや別にじゃなくて。ていうかせめて上着脱がせてよ」
結局俺はまたベッドから立ち上がって上着を脱ぎ、ついでに由布院の薄手のトレンチも脱がせて部屋の入り口のそばのクローゼットにかけに言った。色気もくそもねえな、と由布院が向こうで笑っている。そんなもの、あってたまるか。
戻ってくると、ベッドに腰掛けている由布院が軽く両腕を広げて待っていた。どういうことだそれは。まさかそこに入っていかなければいけないのか。
「いやいやいや」
「いいだろ、な」
上着を脱いだせいで、妙に体温が近くなった。由布院からはたばこと酒のにおいがする。由布院はくくっと笑って「お前香水くせえな」と言った。お互いにおいなんか嗅ぎあっていたことがなんだか恥ずかしくて、俺が眉を寄せると、由布院はなおのこと擦り寄ってくる。
「由布院って猫みたいだよね」
「まあ実際どっちかっつーとネコだし」
「……、」
「なあ有馬、どっちが女役する?」
このやりとりは、付き合いはじめてからは前回の居酒屋以来二回目だった。俺が答えられなかったのは、自分が由布院のことを抱くイメージも、由布院に抱かれるイメージも、うまくできなかったからだ。
「……由布院はどっちがしたいの」
どっちかっつーとネコ、という発言から考えれば、由布院はきっと抱かれたい側なのだろう。わかっていながら尋ねると、意外にも由布院は「どっちでもいいっていうかどっちもあんまりしたくないっていうか」などと言い始める。それをきくとなんだか笑えてきてしまう。
「ふふ」
「え、なんでそこで笑うの」
「いや、俺も同じようなこと考えてたから」
由布院はぱちぱちと瞬きをする。いつも眠そうな目をしているくせに、由布院の瞳はちょっとびっくりするほど綺麗な青い色をしている。
「……まーいいんじゃね、気が向いたらしようぜ」
「そうだね」
「だいたい、付き合い始めて一週間でえっちしよ、ってどんだけ爛れてんだよって話」
「最初にこの話題振ってきたの由布院だろ」
それもそうだ、と言いながら、由布院が俺の背中に手を回す。男同士、胸があるわけじゃないから、からだ全体がぴったりとくっついてしまう。それが嬉しくて、俺は由布院の肩に顔をうずめた。由布院の手が俺の髪を梳くのがなんでだか気持ちがよくて、鼻のあたりがひどく熱い。たぶん涙が出そうなのに、由布院が笑っているから、釣られるようにして笑ってしまう。
由布院は本当にいい性格をしている。甘えるのが上手だとおもいきや、甘やかすのが上手なのだ。
 

十二





あれこれ荷物を小さなトランクに詰め込んだ有馬は、気楽な様子で「それじゃあいってくるね」と笑った。海外にいくにしては少なすぎる荷物に相変わらずサングラスが妙に似合っていて、俺もつられるように笑ってしまう。
「またな」
「うん」
結局、昨日の夜はちゅーのひとつもしないで抱き合って寝た。お互い童貞でも処女でもなかろうに、ふたりしてなにをそんなに怖がっているんだろうとも思うけれど、それがたぶん、俺たちの、お互いの、限界だった。外国語のアナウンスと日本語のアナウンスが入り混じって聞こえてくる空港で、俺たちはなにを言うべきかお互いに困っている。これで俺たちは付き合っているといえるのだろうか。
「ねえ由布院」
「ん?」
「……やっぱりなんでもない」
「は、なに、それ……」
お互い口下手というわけではないはずだけど、俺たちは実のあることはなにも言えないでいた。なにも言えないままぼんやりしていると、有馬は突然自分の耳に手を伸ばす。
「ごめん」
「え?」
なぜか謝罪されながら有馬の手から渡されたのは、有馬のひだりの耳たぶに刺さっていたピアスだった。見覚えがある。たぶんこいつが高校の頃もしていたやつだ。古いものなのに、俺の手の中でぎらりと光る。きちんと手入れされていることがすぐにわかった。
「え、なに、これ、くれんの?」
「……他に渡せるものがなくて」
「いや、俺なんか渡せるもんなんにもねーのに」
適当に地元から出てきたせいで、ろくな持ち物がない。コートのポケットのなかを探っても、不動産屋のティッシュしか出てこなかった。
思わず頭を掻いてしまう。まじでこいつは、非の打ち所のないいい男だなあと思う。まったくどうしようもない。俺はかぶりを振ってやつのほうを見上げた。ひとつ深呼吸をして、サングラスごしの、あかい目をまっすぐに見る。それからやっと口を開いた。
「燻」
「なに、いきなり」
「だってお前もう、家は捨てたんだろ」
「あ、うん……」
「だからまあ、燻で」
言うと、有馬の顔がみるみるうちに赤くなっていく。ちょっとおもしろいくらいだ。やっぱり有馬……燻の照れたときの顔は、ちょっと可愛い。それで俺はもっと照れさせてみたくて、言葉を繋げた。
「……またな」
「う、ん」
「また、会おうな」
燻がこくんと頷いたその動きがちょっと子どもっぽい。お互いとっくにいい年だっていうのにそれがおかしくて笑ってしまう。燻はトランクの取っ手を握って、「ちゃんと帰ってくるよ」と今度こそはっきりと言った。俺は、ぐっと燻の背中を押す。
そうだな、たとえばお前が帰ってこなくても、俺はこのピアスを大事にするよ。生きててくれれば、それで、いいから。
奴が人混みに紛れて手荷物検査の列のほうへ消えていくのを、俺はぼんやりと眺めていた。いい加減に、俺も、あの町に帰らなくてはいけない。
らしくもなく唇を強く結んで、俺はくるりと踵を返した。俺たちの短い逃亡は終わってしまった。あいつは向こうで、俺はあの町で、とにかく生きていかなければならないのだった。
 

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