涙くんさよなら
七
ラインで飲みに誘っていた煙ちゃんから、返事が来た。
「いつ?」
……たったの三文字だ。俺は息を吐き出した。まあ確かに、こちらから誘っておいて日時も告げなかったのはよくなかったかもしれない。俺は「来週の週末どっかの予定だけど」と打ち込んで、送信ボタンを押す。
もっとも、正直、煙ちゃんからの返事は目に見えていた。「わりいその辺バイトつまってて」もしくは「研究が忙しくて」みたいなことを盾に断ってくるんだろう。大学生になってからというものの、煙ちゃんは随分と付き合いが悪くなった。
いや、そうじゃない、煙ちゃんは、俺と錦ちゃんがふたりでいるところに来るのを避けているのだ。
気持ちはわからないわけじゃない。俺だって、カップルと自分ひとりで飲み会なんて、この上なく気乗りしない。だけど俺たちは付き合ってる付き合ってないのまえに高校の同窓生で、とくに俺と煙ちゃんは親友だ。一緒にご飯を食べるくらい、構わないって思うんだけど。しばらくすると、煙ちゃんからの返事が来た。
「考えとく」
あれ、珍しい返事だな。
「わかった。予定決まったら教えてね」
とりあえずそれだけ答えて、了解、と書かれたスタンプを押しておく。スマートフォンを机の向こう側に押しやった。国家試験まではまだまだあるけど、課題は山積みだ。覚えなきゃいけないことがあまりにも多すぎる。おまけに最近錦ちゃんも様子がおかしい。理由はわかっている。もうすぐ有馬――いぶちゃんの誕生日だ。
三年間、俺たちだってそれなりにいぶちゃんのことを探してきた。錦ちゃんにとって、いぶちゃんはいちばん落ち込んでいたときに斜め後ろにいてくれた、大事な相手だ。いつでもにこにこと笑って、錦ちゃんのなにもかもを受け入れた、いぶちゃん。だけど学生の俺たちにやれることはたかが知れていて、結局いぶちゃんがなにもかもを捨てて消えたその理由も行き先も、わかっていなかった。
勉強に集中しなきゃいけないのに、みんなのことを考えるとどうにも上手くいかない。俺はかぶりを振って、テキストに向き合った。
ああそうだ、いぶちゃんがいなくなったと気が付いたのも、こんなふうに曇った日のことだった。三年経ってもキャンパスは相変わらず賑わっていて、俺もその人並みをすり抜けて、足早に教室に向かう。そのときふと煙ちゃんとすれ違った。
「煙ちゃん!」
白衣姿の女の子と話をしながら歩いていた煙ちゃんがこちらを見る。気だるげな、だけどきれいな青い瞳。女の子は先に行ってますと笑って、向こうに行ってしまった。
「なんか、久しぶり?」
「そーだっけ」
大学に入ってからの煙ちゃんは、女子率の低い学部のさらに女子率の低い学科にいるくせに、よくもてた。昔リュウが煙ちゃんがもてると言い始めたときはいまいち信じられなかったけれど、今なら納得できる。今の子も、少なくとも煙ちゃんのことを悪くは思っていないはずだ。
「まあでも昨日ラインしたか、どーかした?」
「や、珍しいなと思って。煙ちゃんがご飯行くって言うの」
煙ちゃんは瞬きをして少し首を傾げる。
「そーだっけ?」
白々しいしぐさと言い方だ。俺は煙ちゃんをねめつける。
「そうだよ、いつも三人でご飯行こって言うと断るじゃん」
「いやまだ考えとく、しか言ってないけど」
それもそうだ。だけど、それでも珍しい。
「あー、そうだな、有馬が」
煙ちゃんはそう言って、そこまでで言葉を切った。やっぱり、いぶちゃんの話題が出てしまう。いぶちゃんの失踪はこの三年間ずっと、俺たちの間によどんだ色を落としている。
「もう有馬……いぶちゃんがいなくなって三年だね」
「いぶちゃん、なあ。あー、でも、それでちょっとおセンチになってたのかも」
「おセンチって……」
それにしては、煙ちゃんはにやにや笑っている。だけど煙ちゃんのことだから、その理由を訊いても答えてはくれないんだろう。俺はため息をついた。
「じゃあ、来週は来てくれる?」
「んー、来週末別件入るかもしれねーんだよ。それ次第だな」
その「別件」より、こっちを優先してはくれないんだな、と思うと少し胸が傷んだ。煙ちゃんは親友なのに、大学に入ってからずっと、なんだか連れない。
「煙ちゃん、今日は?」
「研究室行って資料取ったらちょっと打ってバイト」
「いい加減パチンコはやめなよ」
煙ちゃんは肩をすくめた。煙ちゃんのたちが悪いところは( 俺はやったことがないからよくわかんないんだけど)、 勘がいいのかなんなのか、めったにパチンコで負けないところだ。だいたい勝つか、プラスマイナスゼロ。そして、いろんな景品を手に入れてくる。お菓子、煙草、ゲーム機。いつかは大損するよと言い聞かせているけれど、この分じゃたぶん当分やめないだろう。
「勝ったら熱史にも板チョコくらいはやるよ」
「それはいらないから」
そんなやりとりをしていると、ふと煙ちゃんがスマホを取り出した。しばらくなにかを確認すると、すぐに顔を上げる。
「『別件』が今週末になったから、行けるわ、来週」
特に嬉しそうでもなんでもない顔でそう言って、煙ちゃんはポケットにスマホを突っ込んだ。
「そっか、よかった」
「あの会長さんが俺にツンケンしないようにちゃんと躾けといてよ」
「煙ちゃんが錦ちゃんをからかわなきゃあんなにツンケンしないと思うんだけど」
「そうか?」
「そうだよ」
そんなもんかね、と煙ちゃんは肩をすくめた。じゃあな、とひらひらと手を振る煙ちゃんに手を振り返す。いたずらっ子みたいな笑い方は高校生のときのままで、俺は少しだけ安堵していた。煙ちゃんが煙ちゃんでいてくれるなら、それでいいんだ。
三
生徒会室は真っ赤だった。窓の外から差し込む西日の強さに目を細める。遠くに見える山々を眺めていると、かちゃん、と音がして我に返る。有馬がカップを片付けている音だ。さっき生徒会室の外のシンクで洗ってきたものを、布巾で拭いている。
「……今日も鬼怒川と帰るの?」
「あ、ああ」
不意打ちでそう尋ねられて、まごついた声が出てしまう。しかし有馬はそんなことは気にしないようだった。
「鬼怒川は優しい?」
「当然、だ」
有馬の質問に頷く。有馬はまぶしそうに目を細めてこちらを見る。そのまなざしが妙に幸せそうな色をしていて、僕は瞬きをした。そのあいだに有馬はまたカップのほうに視線を戻してしまったけれど。
僕は受験が終わってすぐ、幼なじみに告白した。はっきり言ってしまえば、まったく勝算のない勝負だったはずだ。僕は彼にずいぶんとひどいことをしてしまったし、彼の隣にはもう、いつも一緒の相手がいた。けれど彼は、あっちゃんは、僕を前にして頷いた。嬉しいよ、と微笑んでくれた。
「――有馬」
その瞬間、なんだか有馬の背中が縮こまって見えて、有馬の名前を呼ばなければならない気持ちになり、声をかける。
「なに?」
有馬は返事こそしてくれたものの、今度は顔を上げなかった。
「……君に謝らなくてはいけないことがある」
僕は、この際だから、ずっと腹の中にわだかまっていたことを有馬に告げてみようと思った。そんなことを考えたのも、ひとえに舞い上がっているからだという自覚はあったけれど。
「錦史郎が? 僕に?」
「ああ」
「なにかな」
どうしてそれを言う気になったのかといえば、特に深い理由はない。本当なら、言わなくても済むことだったのかもしれない。けれど、その時僕はやっぱり自分の気持ちをきちんと相手に伝えなければいけないと、そう思っていた。だって僕はそうやって、あっちゃんの手を取ることができたのだから。
有馬の目はいつものように優しそうに細められている、それが救いで、僕は口を開くことができた。
「私は」
そう口に出してから、なんだか違う気がして、僕はこう言い直す。
「……僕は、本当は、君と初めて会ったときのことを覚えていた」
有馬が一瞬手を止める。しかしすぐに作業を再開した。彼はまたカップを全部しまって、戸棚の扉を閉めて、それからゆっくりとこちらを見る。僕は容疑者になった気分で、有馬のあかい瞳がこちらを向くのを待った。
「うん、それで?」
生徒会室は早くも暗くなり始めていた。有馬の表情が、今度はよく見えない。
「僕は忘れたふりをして、昔の話をされるのを避けていたんだ」
「うん」
「すまない、嘘をついたりして」
「……そんなことだろうと思ってたよ」
有馬がこちらに近づいてくる。彼はどこまでもいつも通りの声だったし、距離が近付いてようやく把握できたその目もいつも通りだった。有馬に見抜かれていたことによる気恥ずかしさに、僕は目を伏せる。
「それが君が僕に謝ること?」
「そうだ」
「そう」
有馬はどうやら許す許さない以前の問題で、僕のしたことをなんとも思っていないようだった。ほっとして、息を吐き出す。有馬の笑みはあらゆる感情を押し殺すことに長けているけれど、ながく隣にいればその笑みの種類くらいは見分けられるようになる。
「本当に、あの頃は錦史郎も随分と可愛げがあったよね」
まあ、鬼怒川と仲直りしてから、それも戻ってきたような気がするけど。どうやら有馬は僕がついた嘘の罰として、軽いからかいを選んだらしい。僕はなんとか言い返さなければならないような気分になって、「有馬こそ、あの頃は愛想がなかっただろう」と言った。
「そうだったっけ?」
「ああ」
「よく覚えてないな、あの頃僕は」
有馬はそれだけ言って、今度は口を閉ざして手で口許を覆う。有馬が自分から自分の話をするのは珍しい。たぶんそれに自分で気づいたのだろう。話を逸らされる前に有馬のことも聞いておこうと思って、僕は口を開いた。
「『あの頃僕は』、どうしたんだ」
「や、あの頃は……金持ち同士の上辺だけの付き合いに嫌気がさしてて。愛想笑いもしたくなかったんだよね」
「ふ、ならば今は、それも随分と上手くなったんだな」
言った瞬間、有馬がはっと目を見開いた。さっきまでの完璧な微笑みがばらばらと音を立てて崩れていくのが、手に取るようにわかった。そして僕は、自分の失言を悟ったのだった。有馬の笑みの種類は僕が誰よりもわかっている。つまり、有馬の笑顔が決して愛想笑いだけで構成されているわけではないことも。
「あ、はは、錦史郎はやっぱり手厳しい」
次には、有馬はなんとか取り繕った笑みを浮かべた。正しくそれは愛想笑いだった。あまりに下手な。僕は有馬になんと声をかければいいのかすらわからず、一歩後ずさる。
ああ、有馬を、傷つけてしまったのだ、僕は。
「――あっちゃんと、約束があるんだった」
しかも、なお悪いことに、場を取り繕うために口にしたのは、有馬を突っぱねるような言葉だった。有馬の瞳がゆらりと揺れる。
「……うん、いってらっしゃい」
「すまない」
「なんで謝るの」
ところが、有馬の声は今度こそいつも通りになっている。僕はもうなにも言えなかった。僕は一歩後ずさって、鞄を胸の前で抱えて、それからきびすを返して、足早に部屋を出ることしかできなかった。
待ち合わせ場所の校門前に行くと、あっちゃんはひとりで待っていた。いつも彼の横にいる由布院はいない。僕はほっと息を吐く。あっちゃんを見ると、なぜだか安心できる。たぶん、小さい頃からずっとそうだ。
「おまたせ、あっちゃん」
声をかけると、あっちゃんがこちらを振り向いた。すぐに微笑んでくれる。
「生徒会の仕事、まだ忙しいんだね」
「あ、う、うん」
いや、もう、生徒会長としての仕事なんてほとんど終わってしまっている。実際今日は、有馬と話をしていて少し遅れたというだけの話だ。それを思うと、ずきりと胸が傷んだ。さっきの有馬の下手くそな笑い方がまだ、頭から離れない。大好きな人と一緒にいるはずなのに、そちらに意識を向けられないことも申し訳がないし、もうめちゃくちゃだ。
「錦ちゃん、どうかした?」
とうとうあっちゃんに顔を覗きこまれて、僕はかぶりを振る。なんでもない、と言いたかった。けれど「錦ちゃんって顔に出やすいよね」と笑われるともう、言い訳のしようがない。
「有馬を置いてきてしまって」
「有馬?」
あれ、ずいぶん過保護だね、と笑われる。さっきまでの有馬との会話をあっちゃんに言うのも憚られて、僕は首を横に振った。あっちゃんはしばらく黙っていたけれど、「俺も煙ちゃん置いてきちゃった」と言った。
「最近、煙ちゃんといぶちゃん、一緒に勉強してるみたいだよね」
「……あっちゃんは有馬に由布院の面倒を見させるつもり?」
「まさか」
煙ちゃんは本当は周りが思ってるよりずっとしっかりしているんだ。あっちゃんはまったく信じられないことを言う。あっちゃんは(僕からしてみればとんでもなく堕落した人間でしかない)由布院を、随分と信用している。たぶん、僕が有馬のことを信用しているように。
有馬はあんな嘘をついた僕を、世界征服なんて大それたことを夢見た僕を、それでも許して後ろにいてくれた。
「あっちゃん」
「うん」
「……すきだよ」
それでも、いや、それくらいに僕は、この鬼怒川熱史が好きなのだ。
四‐一
いい加減にセンター試験も近付いてきている。仕方なく受験勉強をすることにしたものの、思った以上に進まない。さすがに部室で勉強する気にはなれず図書室に行った俺は、放課後の数時間英語の参考書に向かい、結果自分の英単語に対する憎しみを深めただけだった。覚えられるかこんなもん。
盛大なため息をつくと、不意に前の席に座る気配がした。思わず顔をあげると、見慣れたにやにや笑いがこちらを見ている。
「やあ由布院」
「有馬」
図書室にいると、ときどき有馬と一緒になった。それで、なんとなく一緒に勉強している。訊けば、志望大学と学部まで一緒らしい。この間まで執事みたいに草津のそばにいた有馬は気配が薄いというか、でかいくせに存在感があまりないというか、とにかく、そばにいて違和感がない。
「英語?」
「おう」
有馬は英語が得意だ。なんでも海外で暮らしていた時期があったらしい。そりゃずるい、チートだ、とは思うけど、俺はそのチートキャラを有効に使っている。
「なあ、ここの和訳教えて」
「いいよ」
有馬は軽くうなずいて、こちらのノートを覗き込んできた。ふわりと、すっきりとした匂いがした。香水だろうか。俺はあんまり匂いが強いものは好きじゃないけど、これは嫌味がない匂いで、いかにも有馬らしい。
「ここの関係代名詞がどれを指してるかわかる?」
参考書の解説より、有馬の説明のほうがよっぽどわかりやすい。有馬が指差す単語、その訳。俺はそれをおとなしく訊いているだけでいい。
「あー……、なるほど」
「由布院は理解が早くて助かるよ」
そんなことを言って、有馬は椅子に座り直した。こいつはついでに、人を褒めるのもうまかった。さっきから有馬のことを上げてばっかりだが、こいつにはそういうところがある。そばいても、うまく非が見つけられないのだ。
「いつも悪いな、有馬」
「どういたしまして」
「はあ、お前となら付き合ってもいいわ」
これは礼のゴキブリの一件以来、どういうわけか俺が度々口にしてしまう冗談だった。そして有馬はいつも、「なに言ってるの」「はいはいありがとう」と適当に返してくれるはずだった。いつもだったら。
「――じゃあ、付き合う?」
だけど今日、有馬はこちらをまっすぐに見てそう言った。いつも通りの笑顔と声だけど、いつもと違う。なにを言われたのか、とっさにうまく認識できなかった。こいつは、有馬は、いま、なにを。
「ねえ、どっちが女役する?」
続けて有馬からでてきた言葉に、俺はぞわぞわと寒気を感じた。違う、有馬に女役にされることを予感したからじゃない。有馬の声から、えたいの知れない悲しい色を見出してしまったからだ。
「……有馬お前、なんかあった?」
いつも適当なことを言ってからかっていることに対する意趣返しにしては、なんだか様子がおかしい。有馬はじっと俺を見て、それからごめん、とつぶやいた。張り詰めていた空気がぶつんと切れたような感覚がする。
「おい、有馬」
「ごめん、なんでもない。……からかった、だけだよ」
「あのなあ」
そんな顔でそんなことを言われても、少しも信用できない。とうとう勉強どころではなくなってしまい、俺は有馬の顔をねめつけた。
「なあ、言ってみろよ、有馬」
「……由布院」
「俺は草津じゃないし。なに言っても聞き流しておいてやるから」
「俺は、」
有馬は口を開いてから、それからかぶりを振った。
「僕は」
わざわざ一人称を言い直す。それが随分と有馬が動揺している証のようで、俺はごくりと喉を鳴らした。有馬は静かな声で、今日の天気の話をするみたいに、こう言った。
「……ほんとうはずっと死にたかった」
八‐一
由布院との待ち合わせ場所は由布院の――そしてかつて自分も通っていた大学の最寄りから二駅離れた繁華街で、とにかく人が多い。誰かに会うのを嫌ってできるだけ無難な服を着てサングラスをかけてきたけれど、なんとなくそわそわする。落ち着かない気持ちでスマートフォンを操作しながら待っていると、約束より少し遅れて由布院がやってきた。高校のときより長く伸ばした髪をうなじの辺りでゆるめにくくって、服装は良く言えばシンプルで、まあ、そんな格好なんだけれど、身長があるからちゃんとして見える。隣に立っても違和感はない。
「悪い、遅れた」
「いや、想定してたよりは遅れてないよ」
「……ハードル下げられてんなあ」
とはいえ、これは本音だ。高校生の頃の由布院はもっともっと遅刻しがちだった。鬼怒川が、映画を観に行く約束をして彼の家まで迎えに行ったことがあるのだと笑って話していたことはまだ覚えている。
「これ食う?」
歩き出しながら、由布院は小さな箱を差し出してきた。
「なにこれ」
とりあえず受け取ると、それは懐かしいお菓子の箱だった。
「今日もパチで勝っちゃったから。コアラのマーチ? そういえばお前こういうの食うの?」
「……とりあえずもらっておこうかな」
改めて見てみれば、由布院はなんだか袋にいっぱいお菓子を持っている。あと、煙草も何カートンか入ってそうだ。それにしても、由布院はいつの間にパチンコになんてはまったのだろう。俺はパチンコを打ちに行ったことはないけど、この量は相当やらなきゃもらえないんじゃないだろうか。鬼怒川が近くにいれば、パチンコになんてはまらなかったような気もするんだけど。まあ、それはどうでもいい。
「その辺の店でいいよな。フォアグラとかキャビアが食べられなきゃ嫌、とか言うなよ」
「まさか」
俺は高級店じゃなきゃいやだなんて思わないし、そもそもあの家を捨ててから、標準以下の暮らしをしたことだってある。どんな店にでも連れて行ってくれればいい。由布院はたぶんこの辺でよく飲んでいるんだろうから。
「ところで、そのサングラスは外したほうがいいんじゃね?」
不意に、こちらの顔を覗き込むようにして、由布院はそう言った。
「人目を避けるつもりなら、どう考えても悪目立ちしてますよ、有馬さん」
「……まじで?」
「まじで」
そんなことを言いながら、由布院は雑居ビルの合間を気楽に歩いていく。たどりついたのは古びた雑居ビルの五階にある小さな居酒屋だった。どうやらチェーン店ではないらしい。なんだか辛気臭い店構えで、あまり混んでいない。でもまあ、あまり人に出くわさないような配慮なのかもしれない。由布院なりの。
案内された席について、それぞれ酒を頼む。由布院はハイボールで、俺はモヒートを頼んだ。お通しのキャベツをつまみながら、由布院はぽつぽつと質問をしてきた。どこの国に行ってたんだ、なにしてたんだ、結局あのあとじいさんの墓参りには行ったのか、向こうは飯がうまいのか、ピアス増やしただろ、家帰ったの、彼女できた?
俺はそれに答えられるだけ答えた。由布院になにかを取り繕う必要を感じないのは高校生のころ――あのとき、ずっと昔からの目標を教えてからずっとだ。俺たちは三年ぶりとは思えないほど気楽に、適当に、色んな話をした。
由布院は色の薄いハイボールを煽ると、酒臭そうな息を吐き出す。
「たばこ吸っていい?」
「どうぞ」
由布院のほうに灰皿を押し出すと、由布院は本日の戦利品からたばこの白い箱と安そうなピンクのライターを引っ張り出す。薄い唇で細い紙巻きを挟んで、先端を手で覆うようにしてライターに火をつける。由布院が目を伏せると、思ったより睫毛が長くて、そんなどうでもいい発見に、ひとりで苦笑してしまう。
「お前は吸わないの?」
「吸ってた時期もあったんだけど、向こうは日本以上に喫煙者に厳しくて」
「あー。最近はこっちでも十分肩身狭いけどな」
笑い方はすっかり大人っぽい。やさぐれてしまった、とでも言おうか。由布院はけむりを吐き出すと、少し遠い目をした。
「言えばよかったんだよな」
「なにが?」
「お互い。あの時。あいつらに」
由布院の言葉は指示語ばっかりで、だけど俺は、それがなにを示しているのか全部わかった。わかったのになんて答えればいいのかがさっぱりわからず、目の前のモヒートが入ったグラスに視線を向ける。俺たちが錦史郎や鬼怒川に自分のきもちを伝えておいたとして、俺たちの未来は変わっていただろうか。例えば、パチンコを打たない由布院に、なっていただろうか。
そんなの、ばかみたいな話だ。
「……もしお前が草津とできてたらさ、」
中々答えない俺に焦れたのか、由布院は質問を変えてきた。
「お前は留学しなかった?」
「うーん」
少しの思案のあと、首を傾げる。家のこと。あの人のこと。親のこと。錦史郎のこと。その他これまで出会ったひとのこと。
「した……んじゃないかな。たぶん。わからないけど」
「そうだよなあ、お前が『留学』したのは別に、失恋のせいじゃないもんな」
失恋、という初々しいフレーズに、思わず笑ってしまう。それはそうだけど、そうじゃない。
「でも、錦史郎がいたから、死ぬのをやめられたんだと思う。あの時由布院が言った通り」
四‐二
「死ぬ?」
想像もしていなかった重たい単語が有馬の唇から飛び出してきて、俺はらしくもなくうろたえてしまった。有馬は「聞き流してくれるんじゃなかったの」と笑う。俺はそれに返事もできなかった。だって有馬はあまりにもいつも通りの、優しげな笑い方をしている。それで、その表情のまま、俺にこう言った。
「由布院は、生きてるの面倒だって思ったこと、ない?」
「え……」
そりゃあ、生きていくのはとてつもなく面倒だ。死んでしまえば受験勉強も、就職活動も、未来のことも、過去のことも、なんにも考えなくてすむ。防衛部にいて「生きていくのも悪くない」なんて言ったこともあるけれど、それももうまもなく卒業、するわけだし。
「僕は自分ちが嫌いなんだ」
「……家が?」
「そう、家が。有馬って家が大嫌いでさ、だから俺はさっさと死んじゃいたい」
ヒーローになりたい、宇宙飛行士になりたい、パイロットになりたい。そんな叶いもしない将来の展望を語るような口調で、有馬はそう言った。家が嫌い。だから死にたい。見目がよくて、頭がよくて、人当たりがよくて、金持ち。そういう男が死にたがっている。にわかには信じられないけれど、有馬の言うことを嘘だと言い切ることもできなかった。
もしかしたら、俺もそのとき、ぼんやりと死にたくなっていたからかもしれない。
「……お前って、長男?」
「そう。やっぱり由布院は察しがいいね」
あくまで庶民の俺は金持ちの家のことはよく知らないけど、長男、つまり跡継ぎがいなくなれば、「家」を困らせることができる。そういうことが言いたいのかもしれない。なるほど。いや、なるほどじゃなくて。
そんなことを話している間に、図書室はすっかり暗くなり始めていた。他に人がいないみたいに静かで、ぞっとする。
「……有馬」
「うん」
こいつは、こうやってにこにこ笑いながら、ずっとそんなことを考えていたのだろうか。だから草津が地球征服だなんてとんでもないことを言い出したのにも、のこのこ従えたのだろうか。俺だったら絶対、嫌だって言うからな、あれ。
「この話、草津にしたことあんの」
「ないよ、誰にも。由布院がはじめてだ」
随分と俺も信頼されたものだな、と思った。いや違うか、有馬にとって俺はたぶんどうでもいい人間で、だからこそなにを言っても構わない相手なんだろう。
だから、だからこそ、か。俺は短く息を吐き出した。それからゆるりと唇を釣り上げて、有馬のほうを見る。
「……じゃあ、一緒に死ぬ?」
「は、なんで由布院が一緒に死ぬのさ」
「そりゃ、『生きてるのが面倒』だからだよ」
どうせ今後熱史からの世話は望めない。いや、あれに期待するほうがどうかしているのだ。なんちゃって。俺が笑うと、有馬は俺の顔をじっと見て、それからため息をついた。
「目標は、二十歳までに死ぬことだったんだ」
「二十歳……あと二年後か」
「そう、なんだけど」
有馬はここですっと目を伏せた。柔らかな印象を残す垂れ目がかげる。まったく何をしても綺麗な男だ、と思った。
「最近、それが、……揺らいできてたんだよね。なんでだか、わかんないんだけど」
「死にたくなくなってきた?」
それはたぶん、悪いことじゃないはずだ。俺が問いかけると、子どもっぽい動きで有馬がこくんと頷いた。
「死にたくなくなってきてたんだけど、今日、久しぶりにああ、やっぱり死にたいな、って思っちゃって」
それはきっとなにかのきっかけで起きた変調なのだろう。だけど有馬はきっとそれを俺には言わないだろうし、俺も訊こうとは思えなかった。
「なあ有馬、明日になったら、また死にたくなくなってるかもしれないぜ」
仕方がないので、俺はそう言った。有馬が顔を上げる。なんだか、道に迷った子どものような顔をしていた。
「まあ、お前が死にたいのを、俺が止められるわけないと思うけど。でも、絶対、止めてくれるやつがいるよ、お前なら」
「……そうかな」
「そうだよ」
どうしてだかほっとしたように息を吐き出す有馬の頭を撫でてやると、有馬はおとなしくうつむいた。まるでもっと撫でて欲しいみたいに。
でもたぶん、本当にこうして欲しい相手は、俺じゃないんだろうな。
八‐二
「それならよかったよ」
由布院はたばこを灰皿に押し付けながら、そう言って笑った。
「お前が生き長らえたなら、上々だ」
「……うん」
あの頃、確かに自分は二十歳までには死のうと考えていて、自分のことなんかどうでもよかった。良家の息子の立場を捨てて執事のまねごとをしても、プライドはほんの少しも傷つかなかった。
なのに、錦史郎のそばにいて、錦史郎のことを後ろから見ていて、自分の目標がぐらぐらと揺らぎだして、どうしたらいいかわからなくなっていて、そこで錦史郎が鬼怒川と付き合うことにしたのだと言われて、自分の居所を見失いかけていたのだった。由布院に言われたことばは確かに俺のなかでにぶく光って、たとえ錦史郎に選ばれないのだとしても、生きていくしるべにすればいいのだと、なんとか落ち着くことができたのだった。
「……ところでさ、」
「うん?」
由布院は少し重たい口調で話題を切り替えた。
「来週その『錦史郎』と熱史と飲むんだけど、お前も来る?」
「え?」
「や、お前と会ったとはまだあいつらには言ってないんだけどさ。もしお前がもう大丈夫だって、言うなら」
「きんしろうと、きぬがわ」
そこに並べられた二つの名前を繰り返す。心臓にぞくりと冷たさを感じて、さっきまでの酔いがさめていくような気がした。由布院が顔を覗き込むようにしてこちらを見つめている。妙に心配されているのがおかしくて、そうすると浅くなっていた呼吸が戻ってくる。
「無理ならいいぜ、また死にたがられちゃこっちも寝覚めが悪いし」
「由布院の寝覚めが悪いのはいつもだろ……」
「なんだ、思ったより大丈夫そうだな」
由布院はからだをもとの位置に戻すと、肩をすくめて笑った。
「ぜんぶ、もうずっと昔の話だよ」
「そうだな」
「……昔の話だ」
俺が死にたがっていたのも、俺が錦史郎のことを好きになったのも、由布院が鬼怒川のことを好きだったのも、全部昔の話になってしまった。だから。
「……ねえ、付き合う? 俺たち」
つるりと口から出た言葉は、自分でも意外なものだった。
「は、」
由布院の唇が、中途半端な笑みの形になっている。
「それも昔の話だろ」
「そうだけど」
俺は、二杯目の酒であるウィスキーが入ったグラスを横にどける。
「いま、の話にだってできるよ」
酒は強いほうだと自負していたけれど、酔っ払ってるのかもしれない。由布院がこちらをじっと見たままちっとも文句を言わないので、俺は由布院がテーブルの上に置いている手の甲に自分の手を重ねた。由布院はしばらくじっとその手を見つめていた。
「お前、手きれいだな」
「由布院はちょっと荒れてる?」
「花屋だからな」
そういえば、どうして由布院は花屋でアルバイトなんかしてたんだろう。おかげで俺は見つかってしまったわけだけど。でもそれも、これからいくらでも訊くことができるような気がした。
「……じゃあ、どっちが女役する?」
由布院のからかうような口ぶりも、表情も、なぜか昔とおんなじだった。昔の話を今に引っ張りだしたから、戻ってしまったのだろうか。ああ、どんなに高校生ぶったって、たばこと酒のにおいのせいで台無しだ。
俺も由布院も、昔とすっかり同じまま、すっかり変わってしまったのだ。
ラインで飲みに誘っていた煙ちゃんから、返事が来た。
「いつ?」
……たったの三文字だ。俺は息を吐き出した。まあ確かに、こちらから誘っておいて日時も告げなかったのはよくなかったかもしれない。俺は「来週の週末どっかの予定だけど」と打ち込んで、送信ボタンを押す。
もっとも、正直、煙ちゃんからの返事は目に見えていた。「わりいその辺バイトつまってて」もしくは「研究が忙しくて」みたいなことを盾に断ってくるんだろう。大学生になってからというものの、煙ちゃんは随分と付き合いが悪くなった。
いや、そうじゃない、煙ちゃんは、俺と錦ちゃんがふたりでいるところに来るのを避けているのだ。
気持ちはわからないわけじゃない。俺だって、カップルと自分ひとりで飲み会なんて、この上なく気乗りしない。だけど俺たちは付き合ってる付き合ってないのまえに高校の同窓生で、とくに俺と煙ちゃんは親友だ。一緒にご飯を食べるくらい、構わないって思うんだけど。しばらくすると、煙ちゃんからの返事が来た。
「考えとく」
あれ、珍しい返事だな。
「わかった。予定決まったら教えてね」
とりあえずそれだけ答えて、了解、と書かれたスタンプを押しておく。スマートフォンを机の向こう側に押しやった。国家試験まではまだまだあるけど、課題は山積みだ。覚えなきゃいけないことがあまりにも多すぎる。おまけに最近錦ちゃんも様子がおかしい。理由はわかっている。もうすぐ有馬――いぶちゃんの誕生日だ。
三年間、俺たちだってそれなりにいぶちゃんのことを探してきた。錦ちゃんにとって、いぶちゃんはいちばん落ち込んでいたときに斜め後ろにいてくれた、大事な相手だ。いつでもにこにこと笑って、錦ちゃんのなにもかもを受け入れた、いぶちゃん。だけど学生の俺たちにやれることはたかが知れていて、結局いぶちゃんがなにもかもを捨てて消えたその理由も行き先も、わかっていなかった。
勉強に集中しなきゃいけないのに、みんなのことを考えるとどうにも上手くいかない。俺はかぶりを振って、テキストに向き合った。
ああそうだ、いぶちゃんがいなくなったと気が付いたのも、こんなふうに曇った日のことだった。三年経ってもキャンパスは相変わらず賑わっていて、俺もその人並みをすり抜けて、足早に教室に向かう。そのときふと煙ちゃんとすれ違った。
「煙ちゃん!」
白衣姿の女の子と話をしながら歩いていた煙ちゃんがこちらを見る。気だるげな、だけどきれいな青い瞳。女の子は先に行ってますと笑って、向こうに行ってしまった。
「なんか、久しぶり?」
「そーだっけ」
大学に入ってからの煙ちゃんは、女子率の低い学部のさらに女子率の低い学科にいるくせに、よくもてた。昔リュウが煙ちゃんがもてると言い始めたときはいまいち信じられなかったけれど、今なら納得できる。今の子も、少なくとも煙ちゃんのことを悪くは思っていないはずだ。
「まあでも昨日ラインしたか、どーかした?」
「や、珍しいなと思って。煙ちゃんがご飯行くって言うの」
煙ちゃんは瞬きをして少し首を傾げる。
「そーだっけ?」
白々しいしぐさと言い方だ。俺は煙ちゃんをねめつける。
「そうだよ、いつも三人でご飯行こって言うと断るじゃん」
「いやまだ考えとく、しか言ってないけど」
それもそうだ。だけど、それでも珍しい。
「あー、そうだな、有馬が」
煙ちゃんはそう言って、そこまでで言葉を切った。やっぱり、いぶちゃんの話題が出てしまう。いぶちゃんの失踪はこの三年間ずっと、俺たちの間によどんだ色を落としている。
「もう有馬……いぶちゃんがいなくなって三年だね」
「いぶちゃん、なあ。あー、でも、それでちょっとおセンチになってたのかも」
「おセンチって……」
それにしては、煙ちゃんはにやにや笑っている。だけど煙ちゃんのことだから、その理由を訊いても答えてはくれないんだろう。俺はため息をついた。
「じゃあ、来週は来てくれる?」
「んー、来週末別件入るかもしれねーんだよ。それ次第だな」
その「別件」より、こっちを優先してはくれないんだな、と思うと少し胸が傷んだ。煙ちゃんは親友なのに、大学に入ってからずっと、なんだか連れない。
「煙ちゃん、今日は?」
「研究室行って資料取ったらちょっと打ってバイト」
「いい加減パチンコはやめなよ」
煙ちゃんは肩をすくめた。煙ちゃんのたちが悪いところは( 俺はやったことがないからよくわかんないんだけど)、 勘がいいのかなんなのか、めったにパチンコで負けないところだ。だいたい勝つか、プラスマイナスゼロ。そして、いろんな景品を手に入れてくる。お菓子、煙草、ゲーム機。いつかは大損するよと言い聞かせているけれど、この分じゃたぶん当分やめないだろう。
「勝ったら熱史にも板チョコくらいはやるよ」
「それはいらないから」
そんなやりとりをしていると、ふと煙ちゃんがスマホを取り出した。しばらくなにかを確認すると、すぐに顔を上げる。
「『別件』が今週末になったから、行けるわ、来週」
特に嬉しそうでもなんでもない顔でそう言って、煙ちゃんはポケットにスマホを突っ込んだ。
「そっか、よかった」
「あの会長さんが俺にツンケンしないようにちゃんと躾けといてよ」
「煙ちゃんが錦ちゃんをからかわなきゃあんなにツンケンしないと思うんだけど」
「そうか?」
「そうだよ」
そんなもんかね、と煙ちゃんは肩をすくめた。じゃあな、とひらひらと手を振る煙ちゃんに手を振り返す。いたずらっ子みたいな笑い方は高校生のときのままで、俺は少しだけ安堵していた。煙ちゃんが煙ちゃんでいてくれるなら、それでいいんだ。
三
生徒会室は真っ赤だった。窓の外から差し込む西日の強さに目を細める。遠くに見える山々を眺めていると、かちゃん、と音がして我に返る。有馬がカップを片付けている音だ。さっき生徒会室の外のシンクで洗ってきたものを、布巾で拭いている。
「……今日も鬼怒川と帰るの?」
「あ、ああ」
不意打ちでそう尋ねられて、まごついた声が出てしまう。しかし有馬はそんなことは気にしないようだった。
「鬼怒川は優しい?」
「当然、だ」
有馬の質問に頷く。有馬はまぶしそうに目を細めてこちらを見る。そのまなざしが妙に幸せそうな色をしていて、僕は瞬きをした。そのあいだに有馬はまたカップのほうに視線を戻してしまったけれど。
僕は受験が終わってすぐ、幼なじみに告白した。はっきり言ってしまえば、まったく勝算のない勝負だったはずだ。僕は彼にずいぶんとひどいことをしてしまったし、彼の隣にはもう、いつも一緒の相手がいた。けれど彼は、あっちゃんは、僕を前にして頷いた。嬉しいよ、と微笑んでくれた。
「――有馬」
その瞬間、なんだか有馬の背中が縮こまって見えて、有馬の名前を呼ばなければならない気持ちになり、声をかける。
「なに?」
有馬は返事こそしてくれたものの、今度は顔を上げなかった。
「……君に謝らなくてはいけないことがある」
僕は、この際だから、ずっと腹の中にわだかまっていたことを有馬に告げてみようと思った。そんなことを考えたのも、ひとえに舞い上がっているからだという自覚はあったけれど。
「錦史郎が? 僕に?」
「ああ」
「なにかな」
どうしてそれを言う気になったのかといえば、特に深い理由はない。本当なら、言わなくても済むことだったのかもしれない。けれど、その時僕はやっぱり自分の気持ちをきちんと相手に伝えなければいけないと、そう思っていた。だって僕はそうやって、あっちゃんの手を取ることができたのだから。
有馬の目はいつものように優しそうに細められている、それが救いで、僕は口を開くことができた。
「私は」
そう口に出してから、なんだか違う気がして、僕はこう言い直す。
「……僕は、本当は、君と初めて会ったときのことを覚えていた」
有馬が一瞬手を止める。しかしすぐに作業を再開した。彼はまたカップを全部しまって、戸棚の扉を閉めて、それからゆっくりとこちらを見る。僕は容疑者になった気分で、有馬のあかい瞳がこちらを向くのを待った。
「うん、それで?」
生徒会室は早くも暗くなり始めていた。有馬の表情が、今度はよく見えない。
「僕は忘れたふりをして、昔の話をされるのを避けていたんだ」
「うん」
「すまない、嘘をついたりして」
「……そんなことだろうと思ってたよ」
有馬がこちらに近づいてくる。彼はどこまでもいつも通りの声だったし、距離が近付いてようやく把握できたその目もいつも通りだった。有馬に見抜かれていたことによる気恥ずかしさに、僕は目を伏せる。
「それが君が僕に謝ること?」
「そうだ」
「そう」
有馬はどうやら許す許さない以前の問題で、僕のしたことをなんとも思っていないようだった。ほっとして、息を吐き出す。有馬の笑みはあらゆる感情を押し殺すことに長けているけれど、ながく隣にいればその笑みの種類くらいは見分けられるようになる。
「本当に、あの頃は錦史郎も随分と可愛げがあったよね」
まあ、鬼怒川と仲直りしてから、それも戻ってきたような気がするけど。どうやら有馬は僕がついた嘘の罰として、軽いからかいを選んだらしい。僕はなんとか言い返さなければならないような気分になって、「有馬こそ、あの頃は愛想がなかっただろう」と言った。
「そうだったっけ?」
「ああ」
「よく覚えてないな、あの頃僕は」
有馬はそれだけ言って、今度は口を閉ざして手で口許を覆う。有馬が自分から自分の話をするのは珍しい。たぶんそれに自分で気づいたのだろう。話を逸らされる前に有馬のことも聞いておこうと思って、僕は口を開いた。
「『あの頃僕は』、どうしたんだ」
「や、あの頃は……金持ち同士の上辺だけの付き合いに嫌気がさしてて。愛想笑いもしたくなかったんだよね」
「ふ、ならば今は、それも随分と上手くなったんだな」
言った瞬間、有馬がはっと目を見開いた。さっきまでの完璧な微笑みがばらばらと音を立てて崩れていくのが、手に取るようにわかった。そして僕は、自分の失言を悟ったのだった。有馬の笑みの種類は僕が誰よりもわかっている。つまり、有馬の笑顔が決して愛想笑いだけで構成されているわけではないことも。
「あ、はは、錦史郎はやっぱり手厳しい」
次には、有馬はなんとか取り繕った笑みを浮かべた。正しくそれは愛想笑いだった。あまりに下手な。僕は有馬になんと声をかければいいのかすらわからず、一歩後ずさる。
ああ、有馬を、傷つけてしまったのだ、僕は。
「――あっちゃんと、約束があるんだった」
しかも、なお悪いことに、場を取り繕うために口にしたのは、有馬を突っぱねるような言葉だった。有馬の瞳がゆらりと揺れる。
「……うん、いってらっしゃい」
「すまない」
「なんで謝るの」
ところが、有馬の声は今度こそいつも通りになっている。僕はもうなにも言えなかった。僕は一歩後ずさって、鞄を胸の前で抱えて、それからきびすを返して、足早に部屋を出ることしかできなかった。
待ち合わせ場所の校門前に行くと、あっちゃんはひとりで待っていた。いつも彼の横にいる由布院はいない。僕はほっと息を吐く。あっちゃんを見ると、なぜだか安心できる。たぶん、小さい頃からずっとそうだ。
「おまたせ、あっちゃん」
声をかけると、あっちゃんがこちらを振り向いた。すぐに微笑んでくれる。
「生徒会の仕事、まだ忙しいんだね」
「あ、う、うん」
いや、もう、生徒会長としての仕事なんてほとんど終わってしまっている。実際今日は、有馬と話をしていて少し遅れたというだけの話だ。それを思うと、ずきりと胸が傷んだ。さっきの有馬の下手くそな笑い方がまだ、頭から離れない。大好きな人と一緒にいるはずなのに、そちらに意識を向けられないことも申し訳がないし、もうめちゃくちゃだ。
「錦ちゃん、どうかした?」
とうとうあっちゃんに顔を覗きこまれて、僕はかぶりを振る。なんでもない、と言いたかった。けれど「錦ちゃんって顔に出やすいよね」と笑われるともう、言い訳のしようがない。
「有馬を置いてきてしまって」
「有馬?」
あれ、ずいぶん過保護だね、と笑われる。さっきまでの有馬との会話をあっちゃんに言うのも憚られて、僕は首を横に振った。あっちゃんはしばらく黙っていたけれど、「俺も煙ちゃん置いてきちゃった」と言った。
「最近、煙ちゃんといぶちゃん、一緒に勉強してるみたいだよね」
「……あっちゃんは有馬に由布院の面倒を見させるつもり?」
「まさか」
煙ちゃんは本当は周りが思ってるよりずっとしっかりしているんだ。あっちゃんはまったく信じられないことを言う。あっちゃんは(僕からしてみればとんでもなく堕落した人間でしかない)由布院を、随分と信用している。たぶん、僕が有馬のことを信用しているように。
有馬はあんな嘘をついた僕を、世界征服なんて大それたことを夢見た僕を、それでも許して後ろにいてくれた。
「あっちゃん」
「うん」
「……すきだよ」
それでも、いや、それくらいに僕は、この鬼怒川熱史が好きなのだ。
四‐一
いい加減にセンター試験も近付いてきている。仕方なく受験勉強をすることにしたものの、思った以上に進まない。さすがに部室で勉強する気にはなれず図書室に行った俺は、放課後の数時間英語の参考書に向かい、結果自分の英単語に対する憎しみを深めただけだった。覚えられるかこんなもん。
盛大なため息をつくと、不意に前の席に座る気配がした。思わず顔をあげると、見慣れたにやにや笑いがこちらを見ている。
「やあ由布院」
「有馬」
図書室にいると、ときどき有馬と一緒になった。それで、なんとなく一緒に勉強している。訊けば、志望大学と学部まで一緒らしい。この間まで執事みたいに草津のそばにいた有馬は気配が薄いというか、でかいくせに存在感があまりないというか、とにかく、そばにいて違和感がない。
「英語?」
「おう」
有馬は英語が得意だ。なんでも海外で暮らしていた時期があったらしい。そりゃずるい、チートだ、とは思うけど、俺はそのチートキャラを有効に使っている。
「なあ、ここの和訳教えて」
「いいよ」
有馬は軽くうなずいて、こちらのノートを覗き込んできた。ふわりと、すっきりとした匂いがした。香水だろうか。俺はあんまり匂いが強いものは好きじゃないけど、これは嫌味がない匂いで、いかにも有馬らしい。
「ここの関係代名詞がどれを指してるかわかる?」
参考書の解説より、有馬の説明のほうがよっぽどわかりやすい。有馬が指差す単語、その訳。俺はそれをおとなしく訊いているだけでいい。
「あー……、なるほど」
「由布院は理解が早くて助かるよ」
そんなことを言って、有馬は椅子に座り直した。こいつはついでに、人を褒めるのもうまかった。さっきから有馬のことを上げてばっかりだが、こいつにはそういうところがある。そばいても、うまく非が見つけられないのだ。
「いつも悪いな、有馬」
「どういたしまして」
「はあ、お前となら付き合ってもいいわ」
これは礼のゴキブリの一件以来、どういうわけか俺が度々口にしてしまう冗談だった。そして有馬はいつも、「なに言ってるの」「はいはいありがとう」と適当に返してくれるはずだった。いつもだったら。
「――じゃあ、付き合う?」
だけど今日、有馬はこちらをまっすぐに見てそう言った。いつも通りの笑顔と声だけど、いつもと違う。なにを言われたのか、とっさにうまく認識できなかった。こいつは、有馬は、いま、なにを。
「ねえ、どっちが女役する?」
続けて有馬からでてきた言葉に、俺はぞわぞわと寒気を感じた。違う、有馬に女役にされることを予感したからじゃない。有馬の声から、えたいの知れない悲しい色を見出してしまったからだ。
「……有馬お前、なんかあった?」
いつも適当なことを言ってからかっていることに対する意趣返しにしては、なんだか様子がおかしい。有馬はじっと俺を見て、それからごめん、とつぶやいた。張り詰めていた空気がぶつんと切れたような感覚がする。
「おい、有馬」
「ごめん、なんでもない。……からかった、だけだよ」
「あのなあ」
そんな顔でそんなことを言われても、少しも信用できない。とうとう勉強どころではなくなってしまい、俺は有馬の顔をねめつけた。
「なあ、言ってみろよ、有馬」
「……由布院」
「俺は草津じゃないし。なに言っても聞き流しておいてやるから」
「俺は、」
有馬は口を開いてから、それからかぶりを振った。
「僕は」
わざわざ一人称を言い直す。それが随分と有馬が動揺している証のようで、俺はごくりと喉を鳴らした。有馬は静かな声で、今日の天気の話をするみたいに、こう言った。
「……ほんとうはずっと死にたかった」
八‐一
由布院との待ち合わせ場所は由布院の――そしてかつて自分も通っていた大学の最寄りから二駅離れた繁華街で、とにかく人が多い。誰かに会うのを嫌ってできるだけ無難な服を着てサングラスをかけてきたけれど、なんとなくそわそわする。落ち着かない気持ちでスマートフォンを操作しながら待っていると、約束より少し遅れて由布院がやってきた。高校のときより長く伸ばした髪をうなじの辺りでゆるめにくくって、服装は良く言えばシンプルで、まあ、そんな格好なんだけれど、身長があるからちゃんとして見える。隣に立っても違和感はない。
「悪い、遅れた」
「いや、想定してたよりは遅れてないよ」
「……ハードル下げられてんなあ」
とはいえ、これは本音だ。高校生の頃の由布院はもっともっと遅刻しがちだった。鬼怒川が、映画を観に行く約束をして彼の家まで迎えに行ったことがあるのだと笑って話していたことはまだ覚えている。
「これ食う?」
歩き出しながら、由布院は小さな箱を差し出してきた。
「なにこれ」
とりあえず受け取ると、それは懐かしいお菓子の箱だった。
「今日もパチで勝っちゃったから。コアラのマーチ? そういえばお前こういうの食うの?」
「……とりあえずもらっておこうかな」
改めて見てみれば、由布院はなんだか袋にいっぱいお菓子を持っている。あと、煙草も何カートンか入ってそうだ。それにしても、由布院はいつの間にパチンコになんてはまったのだろう。俺はパチンコを打ちに行ったことはないけど、この量は相当やらなきゃもらえないんじゃないだろうか。鬼怒川が近くにいれば、パチンコになんてはまらなかったような気もするんだけど。まあ、それはどうでもいい。
「その辺の店でいいよな。フォアグラとかキャビアが食べられなきゃ嫌、とか言うなよ」
「まさか」
俺は高級店じゃなきゃいやだなんて思わないし、そもそもあの家を捨ててから、標準以下の暮らしをしたことだってある。どんな店にでも連れて行ってくれればいい。由布院はたぶんこの辺でよく飲んでいるんだろうから。
「ところで、そのサングラスは外したほうがいいんじゃね?」
不意に、こちらの顔を覗き込むようにして、由布院はそう言った。
「人目を避けるつもりなら、どう考えても悪目立ちしてますよ、有馬さん」
「……まじで?」
「まじで」
そんなことを言いながら、由布院は雑居ビルの合間を気楽に歩いていく。たどりついたのは古びた雑居ビルの五階にある小さな居酒屋だった。どうやらチェーン店ではないらしい。なんだか辛気臭い店構えで、あまり混んでいない。でもまあ、あまり人に出くわさないような配慮なのかもしれない。由布院なりの。
案内された席について、それぞれ酒を頼む。由布院はハイボールで、俺はモヒートを頼んだ。お通しのキャベツをつまみながら、由布院はぽつぽつと質問をしてきた。どこの国に行ってたんだ、なにしてたんだ、結局あのあとじいさんの墓参りには行ったのか、向こうは飯がうまいのか、ピアス増やしただろ、家帰ったの、彼女できた?
俺はそれに答えられるだけ答えた。由布院になにかを取り繕う必要を感じないのは高校生のころ――あのとき、ずっと昔からの目標を教えてからずっとだ。俺たちは三年ぶりとは思えないほど気楽に、適当に、色んな話をした。
由布院は色の薄いハイボールを煽ると、酒臭そうな息を吐き出す。
「たばこ吸っていい?」
「どうぞ」
由布院のほうに灰皿を押し出すと、由布院は本日の戦利品からたばこの白い箱と安そうなピンクのライターを引っ張り出す。薄い唇で細い紙巻きを挟んで、先端を手で覆うようにしてライターに火をつける。由布院が目を伏せると、思ったより睫毛が長くて、そんなどうでもいい発見に、ひとりで苦笑してしまう。
「お前は吸わないの?」
「吸ってた時期もあったんだけど、向こうは日本以上に喫煙者に厳しくて」
「あー。最近はこっちでも十分肩身狭いけどな」
笑い方はすっかり大人っぽい。やさぐれてしまった、とでも言おうか。由布院はけむりを吐き出すと、少し遠い目をした。
「言えばよかったんだよな」
「なにが?」
「お互い。あの時。あいつらに」
由布院の言葉は指示語ばっかりで、だけど俺は、それがなにを示しているのか全部わかった。わかったのになんて答えればいいのかがさっぱりわからず、目の前のモヒートが入ったグラスに視線を向ける。俺たちが錦史郎や鬼怒川に自分のきもちを伝えておいたとして、俺たちの未来は変わっていただろうか。例えば、パチンコを打たない由布院に、なっていただろうか。
そんなの、ばかみたいな話だ。
「……もしお前が草津とできてたらさ、」
中々答えない俺に焦れたのか、由布院は質問を変えてきた。
「お前は留学しなかった?」
「うーん」
少しの思案のあと、首を傾げる。家のこと。あの人のこと。親のこと。錦史郎のこと。その他これまで出会ったひとのこと。
「した……んじゃないかな。たぶん。わからないけど」
「そうだよなあ、お前が『留学』したのは別に、失恋のせいじゃないもんな」
失恋、という初々しいフレーズに、思わず笑ってしまう。それはそうだけど、そうじゃない。
「でも、錦史郎がいたから、死ぬのをやめられたんだと思う。あの時由布院が言った通り」
四‐二
「死ぬ?」
想像もしていなかった重たい単語が有馬の唇から飛び出してきて、俺はらしくもなくうろたえてしまった。有馬は「聞き流してくれるんじゃなかったの」と笑う。俺はそれに返事もできなかった。だって有馬はあまりにもいつも通りの、優しげな笑い方をしている。それで、その表情のまま、俺にこう言った。
「由布院は、生きてるの面倒だって思ったこと、ない?」
「え……」
そりゃあ、生きていくのはとてつもなく面倒だ。死んでしまえば受験勉強も、就職活動も、未来のことも、過去のことも、なんにも考えなくてすむ。防衛部にいて「生きていくのも悪くない」なんて言ったこともあるけれど、それももうまもなく卒業、するわけだし。
「僕は自分ちが嫌いなんだ」
「……家が?」
「そう、家が。有馬って家が大嫌いでさ、だから俺はさっさと死んじゃいたい」
ヒーローになりたい、宇宙飛行士になりたい、パイロットになりたい。そんな叶いもしない将来の展望を語るような口調で、有馬はそう言った。家が嫌い。だから死にたい。見目がよくて、頭がよくて、人当たりがよくて、金持ち。そういう男が死にたがっている。にわかには信じられないけれど、有馬の言うことを嘘だと言い切ることもできなかった。
もしかしたら、俺もそのとき、ぼんやりと死にたくなっていたからかもしれない。
「……お前って、長男?」
「そう。やっぱり由布院は察しがいいね」
あくまで庶民の俺は金持ちの家のことはよく知らないけど、長男、つまり跡継ぎがいなくなれば、「家」を困らせることができる。そういうことが言いたいのかもしれない。なるほど。いや、なるほどじゃなくて。
そんなことを話している間に、図書室はすっかり暗くなり始めていた。他に人がいないみたいに静かで、ぞっとする。
「……有馬」
「うん」
こいつは、こうやってにこにこ笑いながら、ずっとそんなことを考えていたのだろうか。だから草津が地球征服だなんてとんでもないことを言い出したのにも、のこのこ従えたのだろうか。俺だったら絶対、嫌だって言うからな、あれ。
「この話、草津にしたことあんの」
「ないよ、誰にも。由布院がはじめてだ」
随分と俺も信頼されたものだな、と思った。いや違うか、有馬にとって俺はたぶんどうでもいい人間で、だからこそなにを言っても構わない相手なんだろう。
だから、だからこそ、か。俺は短く息を吐き出した。それからゆるりと唇を釣り上げて、有馬のほうを見る。
「……じゃあ、一緒に死ぬ?」
「は、なんで由布院が一緒に死ぬのさ」
「そりゃ、『生きてるのが面倒』だからだよ」
どうせ今後熱史からの世話は望めない。いや、あれに期待するほうがどうかしているのだ。なんちゃって。俺が笑うと、有馬は俺の顔をじっと見て、それからため息をついた。
「目標は、二十歳までに死ぬことだったんだ」
「二十歳……あと二年後か」
「そう、なんだけど」
有馬はここですっと目を伏せた。柔らかな印象を残す垂れ目がかげる。まったく何をしても綺麗な男だ、と思った。
「最近、それが、……揺らいできてたんだよね。なんでだか、わかんないんだけど」
「死にたくなくなってきた?」
それはたぶん、悪いことじゃないはずだ。俺が問いかけると、子どもっぽい動きで有馬がこくんと頷いた。
「死にたくなくなってきてたんだけど、今日、久しぶりにああ、やっぱり死にたいな、って思っちゃって」
それはきっとなにかのきっかけで起きた変調なのだろう。だけど有馬はきっとそれを俺には言わないだろうし、俺も訊こうとは思えなかった。
「なあ有馬、明日になったら、また死にたくなくなってるかもしれないぜ」
仕方がないので、俺はそう言った。有馬が顔を上げる。なんだか、道に迷った子どものような顔をしていた。
「まあ、お前が死にたいのを、俺が止められるわけないと思うけど。でも、絶対、止めてくれるやつがいるよ、お前なら」
「……そうかな」
「そうだよ」
どうしてだかほっとしたように息を吐き出す有馬の頭を撫でてやると、有馬はおとなしくうつむいた。まるでもっと撫でて欲しいみたいに。
でもたぶん、本当にこうして欲しい相手は、俺じゃないんだろうな。
八‐二
「それならよかったよ」
由布院はたばこを灰皿に押し付けながら、そう言って笑った。
「お前が生き長らえたなら、上々だ」
「……うん」
あの頃、確かに自分は二十歳までには死のうと考えていて、自分のことなんかどうでもよかった。良家の息子の立場を捨てて執事のまねごとをしても、プライドはほんの少しも傷つかなかった。
なのに、錦史郎のそばにいて、錦史郎のことを後ろから見ていて、自分の目標がぐらぐらと揺らぎだして、どうしたらいいかわからなくなっていて、そこで錦史郎が鬼怒川と付き合うことにしたのだと言われて、自分の居所を見失いかけていたのだった。由布院に言われたことばは確かに俺のなかでにぶく光って、たとえ錦史郎に選ばれないのだとしても、生きていくしるべにすればいいのだと、なんとか落ち着くことができたのだった。
「……ところでさ、」
「うん?」
由布院は少し重たい口調で話題を切り替えた。
「来週その『錦史郎』と熱史と飲むんだけど、お前も来る?」
「え?」
「や、お前と会ったとはまだあいつらには言ってないんだけどさ。もしお前がもう大丈夫だって、言うなら」
「きんしろうと、きぬがわ」
そこに並べられた二つの名前を繰り返す。心臓にぞくりと冷たさを感じて、さっきまでの酔いがさめていくような気がした。由布院が顔を覗き込むようにしてこちらを見つめている。妙に心配されているのがおかしくて、そうすると浅くなっていた呼吸が戻ってくる。
「無理ならいいぜ、また死にたがられちゃこっちも寝覚めが悪いし」
「由布院の寝覚めが悪いのはいつもだろ……」
「なんだ、思ったより大丈夫そうだな」
由布院はからだをもとの位置に戻すと、肩をすくめて笑った。
「ぜんぶ、もうずっと昔の話だよ」
「そうだな」
「……昔の話だ」
俺が死にたがっていたのも、俺が錦史郎のことを好きになったのも、由布院が鬼怒川のことを好きだったのも、全部昔の話になってしまった。だから。
「……ねえ、付き合う? 俺たち」
つるりと口から出た言葉は、自分でも意外なものだった。
「は、」
由布院の唇が、中途半端な笑みの形になっている。
「それも昔の話だろ」
「そうだけど」
俺は、二杯目の酒であるウィスキーが入ったグラスを横にどける。
「いま、の話にだってできるよ」
酒は強いほうだと自負していたけれど、酔っ払ってるのかもしれない。由布院がこちらをじっと見たままちっとも文句を言わないので、俺は由布院がテーブルの上に置いている手の甲に自分の手を重ねた。由布院はしばらくじっとその手を見つめていた。
「お前、手きれいだな」
「由布院はちょっと荒れてる?」
「花屋だからな」
そういえば、どうして由布院は花屋でアルバイトなんかしてたんだろう。おかげで俺は見つかってしまったわけだけど。でもそれも、これからいくらでも訊くことができるような気がした。
「……じゃあ、どっちが女役する?」
由布院のからかうような口ぶりも、表情も、なぜか昔とおんなじだった。昔の話を今に引っ張りだしたから、戻ってしまったのだろうか。ああ、どんなに高校生ぶったって、たばこと酒のにおいのせいで台無しだ。
俺も由布院も、昔とすっかり同じまま、すっかり変わってしまったのだ。