涙くんさよなら
一
ピンクのウォンバットと黄緑いろのハリネズミ、それから、水のなかじゃなくて空気中をふわふわ泳ぐ金魚。そいつらのせいで非科学的なあれやこれやに巻き込まれ、魔法少女的ななにかに変身させられて、地球を守ってから一ヶ月が経っていた。俺たちはあい変わらず部室でぐだぐだ時間を過ごしていた。硫黄はパソコンの画面に鋭い視線を向けているし、立はスマートフォンに向けていつになく真剣な表情を向けている。こいつら、趣味が違うだけでただの似た者同士だよな。そんなことを考えていると、どうやら女への連絡が一段落ついたらしい立が顔を上げた。
「そーいえば、鬼怒川先輩はきょう推薦の発表なんすよね?」
立の口調はいつも少し間延びした感じで、俺もそれに従って「あー」と返事をした。そう、今日は立が言うとおり、熱史の推薦入試の結果が出る日だ。とはいえ、学年万年二位の秀才様が学校推薦枠の受験で落ちるはずもないから、もう合格は規定事項だ。こちらがやきもきする必要は全くない。
「由布院先輩は進学志望ではないんですか?」
「まあ、そーだけど」
硫黄の質問に答えると、硫黄はぱちぱちと瞬きをして、それから立と顔を見合わせた。
「余裕だよなあ」
「余裕ですねえ」
んなこと硫黄や立に言われなくたって、俺だってそろそろ本格的に受験勉強をはじめなきゃいけないことはわかっている。でもまあ、進路は自分の学力でそこそこ行けちゃうところを選ぶつもりだし、受験だからって必死に勉強するつもりはない。
「まあ、俺、やればできる子だし?」
「自分でいいますか、それ」
「つか、反論できねーのがむかつく」
立がそう言って大げさなため息をついた、その瞬間だった。
「あー! ゴキさんっす!」
どでかい声で信じられないことを叫んだのは、有基だった。ゴ、キ、さ、ん。その単語を頭のなかで一文字一文字噛み締め、俺はおそるおそる机に突っ伏していたからだを持ち上げ、そしてその生物がこちらに接近してくるのを見た。
「――!」
こいつのどこに目があるかは知らないが、知らないのに、どういうわけか目があった気がして背中にぞわりと寒気が走る。俺は反射的に立ち上がって後ずさった。もうそれからは阿鼻叫喚だ、俺は逃げようとする、硫黄と立は首を横に振る、有基が捕まえようと追いかけ回すがそれは叶わず、どういうわけか奴は俺のほうにやってくる。無理無理、泣きたい、やだ、おいこれだれか助けろ、無理です、無理っす、ゴキさん逃げ足速いっすよー! 四人で大騒ぎしてると、唐突に部室のドアが開いた。
「ちょっと、うるさいんだけど」
そう言いながら入ってきたのは、隣の部屋を根城にしている生徒会の副会長、有馬だった。有馬は俺たちを一瞥し、すぐに状況を察したらしい。「ふうん」と呟くと、瞬間、そこにあった紙束を手にとって、俺に迫る奴にすっと近付く。そして。
ああ、今思い出しても、それはまさに神業だった。有馬は一瞬で俺たちを、いや、俺を救った。いっそ優雅なくらい鮮やかにスパンと奴を叩き、紙で包んでそのままゴミ箱にポイ。
「まったく、部屋が汚いからこういうのが出るんじゃない?」
それで、振り返った有馬に向かって、俺は思わずこう言った。
「……有馬になら抱かれてもいい……」
「いや、抱かないけど」
そしてそれはすんなりと却下される。いや別に、冗談ですけど。そんなこと毛ほども思ってませんけど。有馬のドン引いた顔に少々傷つきながら、あ、そう、と俺はへらりと笑う。
「え、煙ちゃんって、そうだったの?」
そんでもって、いつの間にか熱史が来ている。なに勘違いしてるんだ、そんなわけねーだろ。――俺は。
さて、そんなこんなで、熱史の推薦合格祝い(と言っても、みんなでおめでとうだのありがとうだの言い合うだけの代物だ)はゴキブリのおかげで少々荒れたものの、つつがなく終わった。いつもの通り黒玉湯に寄り、後輩たちと別れて熱史と並んで歩く。熱史の進路決定によりもうこの高校生活が終わりに近づいていることを突きつけられて、俺は少し、らしくもなく神妙な気分だ。
「あとは煙ちゃんの一般受験だね」
だというのに熱史はそんな俺のことを知ってか知らずか、煽るようなことを言ってくる。正直、あんまり考えたくない。面倒くさい。俺のそれはもろ顔に出ていたのだろう。熱史が眉をひそめた。
「煙ちゃん、ちゃんと合格しろよ」
「おー……」
「もう、煙ちゃんってば……」
まったくもって気乗りしない様子の俺を見かねた熱史は、一度ため息をついた。それから、しばらく黙っていた。沈黙が苦になるような関係ではないから、俺も黙っていた。実際のところ、俺は熱史が合格した地元の大学を第一志望にしている。もっとも、熱史の行く学部よりは偏差値が低い学部を狙っているのだが。
「あのね煙ちゃん」
不意に熱史が口を開いた。俺は熱史のほうを見たけれど、熱史は自分のつま先を見つめるみたいに俯いている。
「錦ちゃんも推薦取れたんだって」
「へえ? そりゃおめでとさん」
熱史に言うべきことでもない気がするが、とりあえず俺はそう言った。まあ、あの学年一位の生徒会長様だ。行けない大学のほうが少ないだろう。だからなんだって話だ。ところが熱史はなぜかそこで深呼吸をした。
「それでね煙ちゃん」
「おう」
俺はほんの少し身構えた。きっと熱史はこれからなにか大事なことを言うに違いないと思ったからだ。けれど熱史はやっぱりこちらを見ようとしない。嫌な予感がする。
「……あのさ、俺、さっき錦ちゃんから告白されたんだけど」
爆弾発言っていうのは、本当に爆発するんだ、と俺は明後日のことを考えた。確かにそれは、俺の中で不躾に爆発して、粉塵で頭のなかを真っ白にした。
――草津が、熱史に、告白した。
「……なんて、答えたんだ」
俺はやっとのことでその声をひねり出した。本当なら、もっと、すべきリアクションがあったはずだ。男同士だろ、とか。ああ会長さんってそういう意味で熱史のこと好きだったのかよ、とか。なのにこんな質問が出たのはつまり、俺がそれをいちばん訊きたかったということだった。おまけに俺は、自分で訊いておきながら、熱史の返事が怖かった。
「……」
熱史は黙っている。俺は心臓が痛いくらいにドクドクと鼓動しているのを抑えたくて、思わず制服の胸元を掴んだ。
「おれさ、」
ああ、熱史の顔が赤いのは、西日のせいだけではないだろう。
「頷いちゃったんだ、よね……」
熱史がこちらを伺うように見上げてくる。俺はもう冬がすぐそこの気温の中、風呂に入ったばかりだというのに、だらだらと汗をかいていた。なんて答えたのか、よく覚えちゃいない。
とにかくそういうわけで、熱史と草津は、お付き合いを始めたのだった。
六
くあ、と大口を開けてあくびがでた。客が来ないときの店番はとてつもなく暇だ。あと一時間のシフトが終わったらパートの前野さんと交代して、また研究室に戻らなくちゃいけない。という脳内での予定の確認もぶっちゃけもう五回はやった。ああ暇だ暇だ、おまけにお目付け役の店長もいないので、俺は床に寝転がって寝ちまいたいという衝動を抑えるのに必死だった。もう一度あくびをしながら尻ポケットにつっこんであるスマホを見る。通知バーに新着メッセージがあることを告げるアイコンがひとつ、確認してみると熱史からだ。
「今度錦ちゃんがこっちに戻ってくるんだけど、一緒にご飯でも行かない?」
「いつ?」
俺はとりあえずそう尋ねてみる。だけど、実際のところ次の返信で熱史がどんな日付を挙げてこようと、それに対する俺の返信は決まっていた。長い息を吐いてスマホをポケットに突っ込んで、少しは眠気を覚まそうと店内をうろうろすることにした。ショーケースのガラス戸のなかを覗き、花の様子をチェックする。すっかり花の名前に詳しくなってしまった自分になんとなく嫌気がして、ため息をついく。この時期いちばん需要がある供花のストックを確認しようとフラワースタンドを覗き込もうとしたそのとき――、がらりと引き戸が開いた音がした。
「いらっしゃいませ」
反射的に背筋を伸ばしてそう言って、店の出入り口のほうを見やると、真っ黒な服を着た背の高い男が店内に一歩踏み込んできたところだった。男の耳にはいくつかピアスがささっていて、まるで花屋に不似合いな存在だ。俺はしかしここで、三回瞬きをした。同時に、店内を見渡していた男が改めてこちらを見る。ばちりと目があう。重たいくらいに長い前髪、やさしそうな垂れ目、かたちのよい唇が、かすかに開いている。
確かに、その顔には見覚えがあった。
「由布院?」
「……有馬」
向こうも当然、俺には見覚えがあるだろう。俺の名前を呼んだのは、確かに有馬燻だ。俺の母校の高校で同じ学年だった、生徒副会長。卒業直前のわずかな時間、それなりの親交を持っていた相手。俺もそいつもしばらく目を見開いてお互いを見つめ合うはめになってしまったのは、こうして顔を合わせるのが三年ぶりになるからだ。
そう、有馬は三年前、唐突に姿を消していた。
「おいおまえ、」
「由布院が花屋さんでバイトしてるとは思わなかったよ」
俺が有馬に一歩近付きこの三年間のことを問い詰めようと口を開いた瞬間、有馬は俺のせりふを遮るように、すらりと言葉を吐き出した。まるで三日ぶりに会った友人のように、以前と同じ口ぶりでそう言って微笑んだ。有馬からは濃い香水のにおいがした。この、花に囲まれた場所でもわかるほどに、重たいにおいだ。
「おい、」
「祖父の墓参りに行きたくて。供花をふたつ、もらえないかな」
「……こちらへ」
どうやら有馬はあくまでこちらに質問をさせる気がないらしい。この野郎、どうしたものか。俺は結局、さっきまでその前に立っていた、供花がささったフラワースタンドの前まで有馬を案内した。有馬は長いからだを折り曲げるようにして花を見る。それからすぐにまた、しっかりと背筋を伸ばした。
「じゃあ、これを」
「かしこまりました」
有馬が指差した菊やカーネーションの入った典型的な供花用の花束をふたつ手に取り、俺は作業台に移動した。
「お前、生きてたんだな」
花をたばねていた輪ゴムを外しながら今度こそ有馬に問う。有馬はふっと息を吐き出した。
「ちょっと留学してただけなのに大げさだな」
「留学?」
墓の花立に挿しやすいように花たちの茎を短く切ってやっていた俺は、顔を上げて思わず聞き返す。馬鹿を言うな、留学だなんてそんな、よくある言葉で言えるようなことじゃねーだろ、あれは。
「留学なら、こっちに……俺じゃなくても草津とかに、行き先でも連絡先でも言ってくべきだったろ」
「そうかな」
「そーだよ」
俺は鋏を置いて、花束をまとめて包装紙に包む。有馬に花束の値段を告げると、クレジットカードが差し出された。それを見て、はあ、と息を吐く。大学院生という学生の立場の俺は、まだクレカなんて持っていない。まあ熱史も持ってるから単に、俺が使いすぎを危惧して持たないようにしてるだけなんだけど。
「なあ有馬」
レジ打ちをしながら声をかける。
「今度飲みに行こうぜ」
俺は基本的に人を飲みには誘わない(誘われれば、まあ行くけどな)。ひとえに面倒だからだ。だけど、こいつにばかりは、そう言わなくてはいけないような気がした。有馬は「すぐ向こうに戻るつもりなんだ」と言った。こいつニコニコしておきながら、ノリが悪い。
「ここ、サイン」
でてきた伝票を有馬に差し出しボールペンを渡す。有馬がきれいな字でサインするのを見下ろして、「いつ帰るんだ?」と問うと、返事がない。もしかしたら、実際のところ有馬は長くここにいるつもりなのかもしれない。
「なあ、草津も熱史も呼ばねえよ、ふたりで行こうつってんの。……前からサシ飲みしようって言ってただろ」
ダメ押しでそう言うと、有馬はペンを置いて伝票をこちらに差し出しながら顔をあげた。
「……わかった」
有馬はこちらに目を向けずに頷いた。俺はほっと息を吐く。ここでこいつを逃してはいけない、それだけははっきりとわかっている。
そうして俺は、有馬とメールアドレスの交換をした。なんでも、有馬はラインのアカウントを持っていないらしい。まったく今時信じらんねえ。いや、もしかしたら、俺に教えるつもりがないだけなのかもしれないけど。有馬は俺が差し出した花束を抱えて店を出ていった。そのスタイルのいい後ろ姿を眺めながら、俺はそういえば有馬は土いじりを趣味にしていたことを思い出していた。
二
防衛部の部室でゴキブリを退治してから戻ると、先生に推薦入試の結果を教えてもらいに行っていた錦史郎が戻ってきていた。生徒会長用の机に座ったまま、いつになく雰囲気がふわふわしている。ほとんど決まっていた合格が、そんなに嬉しいのだろうか。
「あ、お帰りなさい有馬さん。どうでした」
僕が内心首を傾げていると、先に阿古哉が声をかけてきた。それで僕は苦笑しながらソファの阿古哉の正面に座り直す。隣の防衛部の連中がどうにもうるさいから見てきて欲しいと言い出したのは阿古哉だった。
「隣でゴキブリが出たらしくてね。倒してきたよ」
「えー、ゴ……名前も出すのも嫌なんですけど。それで、それから手、洗いましたか」
「洗いました」
阿古哉があからさまに顔をしかめているので、僕は少し理不尽な気分になりながらそう答えた。向こうの部屋ではとても感謝されたのに。……まあ、由布院のことは抱かないし、そもそも由布院だってあれは本気で言っちゃいないだろうけど。僕は阿古哉の訝しげな顔を無視して、錦史郎のほうを見る。
「錦史郎、どうだった?」
「あ、ああ、受かっていた」
「だろうね、おめでとう」
「よかったですね」
「ありがとう」
地球征服という目標は結局叶わなかったけれど、結果としてあのずんだ色のハリネズミのおかげで錦史郎は長年の願いだった鬼怒川との和解を叶えることができた。それで錦史郎は、最近少し浮かれている。眉間の皺はすっかり無くなって、口許には自然な微笑みが浮かぶようになった。それはとてもいいことだと思う。そういう意味では、あのハリネズミに感謝しないといけないかもしれない。
「会長なら余裕で受かる試験だったんですよね。それでもやっぱり嬉しいんですか?」
「そ、れはもちろんだ」
錦史郎の顔を見ていて、僕は思うところがあった。その幸せそうな表情はたぶん、自分の学業に対する努力が報われたことだけじゃない、もっとなにか、もしかしたらそれ以上に嬉しいことがあったように見える。
僕にはその心当たりがあった。だけど、阿古哉の前でそれを指摘しない程度の分別もあった。だからとりあえず、それについては口をつぐんでおくことにした。
「じゃあ、お祝いに錦史郎が好きな中川屋のきんつばを出そうかな。そのつもりで取り寄せておいたんだ」
「あ、ああ」
「僕もそれ、好きです」
阿古哉も嬉しそうな声を出す。僕は立ち上がると、茶葉のストックが置いてある戸棚の前に立つ。
なるほど、どうやら錦史郎の長い長い恋は叶ったらしい。僕はそれを素直に喜びながら、胸の奥がぎしぎしと軋むのを感じていた。その理由はわかっていて、だけど無視をする。京都から取り寄せた玉露の茶葉が入った缶を取り出した。ふたに少し茶葉をとりわけ、次に急須にいれる。いつも通りのことをしていれば、自然とこの痛みも収まるはずだ。
そうだよ。錦史郎の想いがきちんと受け入れられて、本当によかった。僕が錦史郎のそばにいるのは、それを願ってのことだったはずで、だというのに、僕はなかなか顔が上げられない。切りたてのきんつばはもう皿の上に乗っている。楊枝だって用意した。お茶だってもう注ぎ終わって、このままでは冷めてしまう。
「有馬さん、まだですか?」
脳天気な阿古哉に声をかけられて、僕はそれでようやく立ち直り、なんとか背中をまっすぐに伸ばすことができた。湯のみを右手、きんつばの乗った小皿を左手に持って振り返る。
「おまたせ。ささやかだけど、錦史郎の合格祝いだよ」
「ああ、ありがとう」
なんのてらいもなく笑った錦史郎はとても綺麗で、僕はなんとかそれで、笑い返すことができた。
阿古哉が先に帰ってしまい、僕達は生徒会室にふたり取り残された。とはいえ、俺も錦史郎も、そろそろ帰る時間だ。テーブルの上の書類を整理し、かばんに荷物をまとめて、ドアを開ける。錦史郎が出てから、僕もその後に続いた。廊下をゆっくりと渡り、階段を下りながら、錦史郎に声をかける。
「鬼怒川と付き合うことになったの?」
「……聞いていたのか?」
振り返った錦史郎は、今日はじめて眉間にしわを寄せている。
「……そんなわけないでしょ、やけに錦史郎の機嫌がいいから、そうじゃないかなって」
錦史郎はこちらを見て驚いたような顔をした。
「機嫌だけでわかるものか」
「そりゃ、わかるよ」
そう言うと、錦史郎はまた前を向いた。髪がさらりと揺れる。たぶん照れちゃったんだろう。錦史郎はどんどん足早になっていく。僕はその背中を見下ろしながら、ゆっくりと後に続く。僕との距離はどんどん離れていった。それでも錦史郎はこちらを振り向こうとしない。
そうだ、錦史郎はそれでいいんだ。僕ははあ、と息をつく。それからようやく足を速めて錦史郎の背中を追いかけた。
五
それは熱史と俺、それから有馬が高校を卒業してから地元の同じ大学に進学して、二年の後期に突入した頃のことだった。
熱史が薬学部で、俺と有馬は工学部。この頃にはもう、高校生のころはなにかと一緒にいた熱史とも、たまにふたりで昼飯を食いに行く以外は別行動になっていた。かといって、有馬とは(学科は違うとはいえ)同じ学部なのにやっぱり疎遠で、いつかサシで飲もうと言い合ってはいるものの、結局それは叶っていない。
一方で草津は都内の有名な大学の、法学部に進学していた。規律正しい生徒会長らしいよなあ、と思う。あのおぼっちゃまがどうやって一人暮らしをしているのかは知らないが、 おかげで熱史とはちょっとした遠距離恋愛状態だ。それでもまあ、ふたりはうまくやってるのだと思う。東京とここは片道二時間くらいだけど、それなりの頻度で会っているようだし。
退屈な二時限目が終わった。夏休みにぐだぐだ過ごしすぎたせいで、九十分の授業がどうにもしんどい。俺はなんとか課題の図面を丸めてケースに収め、それを肩にひっかける。三時限目が休講なので、四時限目まで暇だ。同じ学科の友だちでも誘ってゆっくり飯でも食おうかとスマホの画面を見ると、ふだんは絶対に連絡の来ない相手からメッセージが着ていることに気がついた。珍しいこともあったもんだ、草津からなんて。熱史となにかあったのだろうか、熱史からそんな話は聞いてねーけど。そんなことを思いながらいざラインを起動すると、たった一文、こう書かれていた。
「有馬の行き先を知らないか」
いやいやいやいやいや。なんの話だ。元生徒会長さんの問いはあまりにも唐突で、意味がわからない。有馬の行き先? そういや最近あいつと会ってないけど、どうしているんだろう。俺は最後に有馬とやりとりをしたときのことを思い出そうとしながら、とにかく指を動かす。
「なんの話?」
俺は草津にそう返信して、次に熱史とのトーク画面を開いた。
「なあ、お前の錦ちゃんから有馬の居場所訊かれたんだけど、なに?」
ここまで打って送信してから、続けて「有馬どうかしたの」と文字を打ち込みながら、熱史に訊くくらいなら直接有馬に訊けばいい、と思い当たる。それで連絡先一覧に戻り、有馬の名前を探した。あいつはラインで、どんなアイコンを使っていたっけ。ティーカップ……にしてたのは、高校の頃だったか。あいつが自撮りなんてアイコンにするわけなんかなくて、ああ、そういえばなんか、犬の写真だった気がする。でっかいやつ。俺はやっとのことでそこまで思い出し、記憶のなかのゴールデンレトリバーだかラブラドールレトリバーだかを探した。このアプリの連絡先一覧は最後にやりとりした相手が上に来るようになっているから、しばらく話もしていない有馬は、だいぶ下のほうにいっちまってるみたいだ。スクロールしていくが、なかなか有馬の名前に行き当たらない。ついにはいちばん下まで行き着く。俺はもう一度、今度は上にスクロールしていくことにした。しかし、それでも見つからない。
そして、何度探しても、有馬とのトーク画面は見当たらなかった。
俺が睡眠とバイトの生活をしている間に、有馬は正しい意味で、その存在を消していた。繋がっていたはずのSNSのアカウントも、軒並み消えている。久しぶりにスマホのメールという機能を使ってみたが、それもエラーで戻ってくる。当然電話は繋がらない。
結局この昼休み、校内のカフェテリア(という名前の椅子とテーブルが置いてあるだけの休憩スペースだ)に熱史を呼びつけた俺は、熱史に有馬が消えてしまったことを告げた。熱史は自分でもそれを確認すると、はあ、とため息をつく。
「俺も夏休み中いぶちゃんとはやりとりしてなかったんだけど、こんな……」
熱史は草津を錦ちゃん、俺を煙ちゃんと呼ぶように、有馬のことを「いぶちゃん」と呼ぶ。なんでもこの金持ち三人衆は子どもの頃一緒に遊んだ仲らしい。それを聞かされたのは、熱史と草津が仲直りしてすぐのことだった。有馬は子どもの頃のようにいぶちゃんと呼ばれるのを嫌がっていたようだが、しばらくすると諦めていた。まあ、それも二年近くも前の話だ。
「俺、最後にいぶちゃんと会ったの、いつだったかな……」
熱史は俺と同じことを考えたらしいが、俺と同じようにやっぱり思い出せなかった。そもそも、有馬はうまいこと俺たちと疎遠になるよう距離を取っていたのかもしれない。あいつはそういうことに、とんでもなく頭が回るやつだ。
「この分じゃ、退学なり休学なりしてるかもしれないな」
「学生課で確認とか、できるのかな」
「いまは学生課も昼休みだろ」
「煙ちゃん、建築科に友だちいる? 訊いてみたら?」
有馬のあの、本心を差し出さない笑い方をぼんやりと思い出す。見目もお育ちも人当たりもいいやつだから、校内で見かけるときはいつも隣に男なり女なり誰かがいたような気がするけれど、そういう取り巻き連中が有馬の居場所を知っているとは、どうも思えなかった。
「……いるようないないような、だな。熱史は建築に知り合いとかいないの」
「部活の先輩なら。でも先輩も最近就活で忙しくて全然会ってないなあ」
ちなみに、熱史は大学に入ってテニス部に入部した。いわゆるテニサーとかじゃなくて、ガチで競技をやる部活だ。熱史は特に強い選手でもなんでもないけれど、正直テニスウェアはめちゃくちゃ似合う。まあ、それは今はどうでもいい。
「あー、じゃあ、有馬って、バイトしてたっけ」
「いや、バイトはしてないんじゃない?」
俺はひとまず焼きそばパンをぜんぶ口の中に押し込んで咀嚼する。熱史がじろりとこちらを見た。また野菜が足りていないと言いたいのかもしれないが、高校の頃のように弁当箱の中の筑前煮を差し出してきたりはしなかった。
「……俺三限休みだし、とりあえず学生課行ってみるわ」
「うん。なにかわかったら教えて」
煙ちゃんに連絡するなんて、錦ちゃんも相当心配してるみたいだし、なんにせよはやく見つけたいよね。熱史がそう言ってるのを聞きながら立ち上がる。あの「錦ちゃん」がどんなに心配していようと、たぶんあいつは見つからないだろう。そういう予感がする。
昼休みが終わり、熱史と別れて大学の事務室まで足を運んで訊いてみると、やはりというかなんというか、有馬は大学を退学していた。職員に理由を訊いてみたものの、「家の都合」以上のことを教えてもらえず、俺は軽い喪失感を覚えながら事務室が入っている建物を出る。空を見るとすっかり曇っていた。まだ九月だというのに、なんだか寒い。俺は服の上から腕を擦った。大学のキャンパスはどこもかしこもうるさくて、二年にもなったというのに、俺はまだ、高校の部室のような居心地のいい場所を、居心地のいい相手を、見つけられていない。
ひとつため息をつく。喪失感、ね。あいつが少しずつ周りからの繋がりを切っていたことに気が付きもしなかったようなやつが喪失感持つなんて、ちゃんちゃらおかしい話だ。他に探す場所はあるだろうか。有馬んちに訊いてみるべきだろうか。
いや、それは絶対に無駄だ。俺はとっくにそれを知っている。
俺は無駄だとわかっていたけれど、熱史と草津は有馬の実家のほうにも当たってみたらしい。けれど、思った通り、有馬の家もなにも把握していないらしい。嫡男である有馬の失踪は、家に大きな衝撃を与えた、とかなんとか。
「おおごとにするわけにはいかないから、警察沙汰にするつもりはないそうだ」
消えた有馬を探すために週末を使ってこちらに帰ってきた草津と、それから熱史と一緒に飯を食いに行くことになって、俺たちは(俺からしてみれば)いつも行くより少し高い居酒屋に入った。これでもたぶん草津的にはだいぶ妥協してるんだろうけど、こっちは今月の財布が心配だ。
草津は息を吐きながら、湯呑みを手に取る。熱史がふうっとため息をついた。
「しょうがないよね……」
俺は並んで座っているカップルの発言に眉を寄せる。息子が消えたけれど、世間体を保つために警察に捜索を頼まない。そんなの金持ちならではの発想だし、それを「しょうがない」で受け入れる草津も熱史もやっぱり金持ちだ。
俺はウーロンハイをひとくち飲む。この中で成人しているのは今のところ俺だけで、生真面目なふたりはソフトドリンクしか頼まない。じゃあ俺もソフトドリンクにするべきかって、飲まずにこのカップルを目の前にしていられるかっていうんだ。男同士の。
「なあ草津」
「なんだ?」
中学以来ずっと、相変わらず俺に向けられる草津の声は剣呑で、俺は思わず笑ってしまう。
「……ふは」
「……なんなんだ由布院、」
「お前は有馬のこと見つけたいの、ほんとに」
「なにを言う……当然だろう」
「ふうん」
「煙ちゃん、どうしたの」
「別に?」
なんとなく、本当に理由なんかなく、苛立っていた。俺はもちろん有馬を心配している。それは熱史も同じだろうし、より有馬と一緒にいた草津なら尚のことだろう。そんなこと、ほんの少し考えるまでもなくわかることだ。だけど、俺は、草津に突っかかりたい気分になっている。
「……有馬、生きてるといいけど」
「きさま、なにを」
「ちょっと、不謹慎だよ、煙ちゃん」
草津と、熱史までもがこちらを睨めつけてくる。俺は両手を挙げた。降参のポーズだ。
「は、酔ってんだよ」
ああ、有馬のやつはどこに行ってしまったんだろう。そんなことわからない。わかるはずがない。俺も、こいつらも、有馬の家族も。だけどそれならそれでいいじゃないか。有馬燻の、強固な意思による逃走ならば、俺はそれに反対なんかできない。面倒くさいからだけじゃない。あいつがそうしたいなら、そうさせるべきなんだ。
なあ、そうだろ、有馬。
1/5ページ