彼に針を飲ませよ
生徒会室で草津とふたりきりになることは決して珍しいことではない。有馬は書類の端を机に打ち付けて揃えているところだった。
「つかぬことを聞くが」
そんなときに草津にそう前置きされて、有馬は顔を上げた。すると彼はこちらから目を逸らし、ふっと息を吐く。それから意を決したのか、またこちらを見る。勢いがよすぎて、ぎんいろの髪がさらりと揺れた。
「有馬は……、私の前にほかの誰かと付き合ったことがあるのか?」
この顔をされて、もしこの問いの正しい答えを口に出せないような人間がいたら、ぜひお目にかかりたい。有馬はそう思った。それで、その「正しい答え」を口に出した。
「あるわけないじゃない」
「本当か?」
「うん、錦史郎が、ぜんぶ初めてだよ」
「……そう、か」
ほっと安堵したような顔をする草津に、有馬は自分の返答がやはり間違っていなかったことを確信した。机の上に手にしていた書類を置くと、草津のそばに近づく。
まったくもって、それは嘘、だったのだけれど。
草津と有馬が出会ったのは十年前のことだ。良家の嫡子同士、遊び友だちだった。しかし有馬はそのあとすぐに親の仕事の関係からこの地を離れた。再会したのはごく最近で、つまりお互い、この十年間のことをほとんど知らない。ほとんど、話さないからだ。
十七年しか生きていないけれど、十年もあればそれなりに色んなことがある。有馬は数年前に、とうに童貞は捨てていた。もっと言えば、処女も捨てていた。その経過はともかくとして、人並み程度には、いや、たぶん人並み以上の相手と「お付き合い」してきた。背が高くて、穏やかな顔立ちの、良家の子息。引く手は数多だったし、有馬はそれを断らなかった。誰を抱こうと誰に抱かれようと、有馬の中にはなにも残らなかった。はじめてのときでさえ、こんなものか、と冷静な目で自分の上に乗り上げた女を見ていたほどだ。……草津とそれをしてはじめて、世間で言われるセックスの意味が理解できたと言ってもいい。
引く手数多だったのは、きっと草津も同じだったろう。けれど彼はその持ち前の頑なさでその手を取らなかったに違いない。彼は自分のようにその貞操をなげうつような真似はしまい。自分とこうならなければ、まだ見ぬ許嫁と結婚するまで童貞だったかもしれないとすら思う。
だからこそ、有馬はここで「うん」とは言えなかった。草津と同じように、自分もあのときまで純潔であったことにしなければならなかった。
だが、この嘘は露呈しえないだろう。有馬がこれまで付き合いを持っていた相手は、誰も彼も遠くの人間だ。この田舎町に訪れる人間などいないだろうし、今更過去のことが掘り返されるわけもない。
有馬は草津の髪を指先で掬って口付けた。嘘をついたことに罪悪感はなかった。本当のことを言って草津を動揺させるより、よっぽどマシだ。
「有馬、……有馬」
「どうしたの、錦史郎」
「……よかった」
安心したように微笑まれて、有馬も同じように笑い返す。有馬は絶対にこの嘘は露呈させまいと、強く誓った。
このからだがとうに人に侵されていることなど、草津は知らなくていい。知るべきではない。死ぬまで、この胸にしまっておかなくては。
草津の手がおずおずとこちらの腰に伸びてくるのがわかり、有馬はほんの少し身を屈めた。草津はわずかにかかとを上げて、有馬に口付ける。
*
それは草津とそんなやりとりをしてから数週間たった、ある日のことだった。有馬は生徒会の業務を終え、いつものように草津、下呂と帰路につこうとしていたところに、ふいに有馬は慣れない呼び方で呼び止められた。
「いぶしくん!」
けれどその声は、確かに記憶に残っていた。まさか、なぜ、こんなところで、こんなときに。やけにうるさい心臓の音が煩わしい。落ち着くために息を深く吐き出して、やっとのことで振り返る。
「――さん、」
そしてそこには、やはり見覚えのある男が立っていた。彼はにこやかに微笑んで、こちらに近づいてくる。
「久しぶりだね」
「お久しぶり、です……」
「有馬、この方は」
草津が問うてくるので、有馬は慌てて応じた。
「あ、ええと、父の取引相手で、中学生のころ家族ぐるみで付き合いがあった、――さん」
事実だった。彼とは、十四の頃父を通して知り合った。そして、肌を合わせた。必要以上にどきどきしてきたけれど、顔にも声にもでていないはずだ。有馬は男に向き合った。
「ええと、――さん、こちらが同級生の草津錦史郎と、後輩の下呂阿古哉です」
男と草津や下呂が会釈しあうのを見ながら、有馬はとにかく男に疑問をぶつけた。
「でも、――さん、どうしてこんなところに」
「いや、温泉に入りたくなったから、気分でね。箱根はもう行き飽きたし」
「……そうですか」
それなら、こちらを目当てにこの町までやってきたわけではないということか。有馬はほっと息を吐き出した。まさか彼だって、自分のような学生を相手にしていたことを公言したりはしないだろう。
「それにしても燻くんは、すっかり大人っぽくなったね。前に会ったのは三年前か」
「そんなこと、ないです」
男は愛想よく微笑んだ。
「一週間くらいはここにいるから、またご飯でもしよう。この辺りの美味しいお店、燻くんなら知ってるだろ?」
「ええ、ぜひ」
断るのもおかしいだろう。有馬は彼に向かってにこりと笑ってみせた。男はひらりと手を振って去っていく。
あと一週間もここにいるのか。嫌な予感にごしりと制服越しに腕をこする。
「下の名前で呼ばれるなんて、随分と仲よかったんですね」
下呂がそんなことを言うので、有馬は肩をすくめて「家族ぐるみで付き合いがあったって言ったろ、ほかの家族だってみんな『有馬』だからね」と返した。なんのほころびもない、完璧な言い訳のはずだ。
まさかこれだけで、彼との過去を悟られるわけがない。……草津や下呂が、人の機微に敏いとは思わない。
結局、男はその日の夜にメールを寄越した。有馬はひとつため息をつく。付き合っていた、とはいえそれは三年も前、しかもごく短い期間の話だ。向こうだって今更どうこうしようというつもりもないだろう。無下にして父親に話が通ってしまうのも面倒で、有馬は愛想のよいメールを返した。
トントン拍子に話は進み、翌々日には会う約束になっていた。夜、ほんの少しの時間、食事をするだけだ。わざわざ草津に話を通すまでもないはずで、有馬は「楽しみにしています」と返したのだった。
*
「あ、」
ふと有馬が声を上げたので、つられて草津と下呂が顔を上げる。
「どうかしたのか」
「ごめん、ちょっと家の用事があったんだった」
有馬はするりとスマートフォンをポケットに入れながら立ち上がる。
「今日、先に帰るね」
「……ああ」
草津は有馬を見上げた。なんだか言い方に引っかかりを覚えたのは、いつものように彼が許可を取るような口ぶりではなかったからかもしれない。
「じゃあ、また明日。阿古哉、カップの片付けよろしくね」
「……はあ……」
下呂はあからさまに不服そうな顔をした。しかし駄々をこねるほどではないらしい。有馬はバッグを持つと足早に部屋を出て行った。
ドアがしまるまでじっとそちらを見ていた下呂は、有馬の足音が聞こえなくなると、すぐに振り向いた。
「そういえばこの間、有馬さんのこと見たんです」
有馬が出ていくのを待っていたかのように、下呂が口を開いた。こちらを伺うような目をしている。どうやら、有馬の前では口に出すのを憚るような話題らしい。草津が訝しげに下呂を見ると、下呂はもったいぶるようにゆっくりと口を開いた。
「両親と食事に行って」
下呂はここいらでいちばん有名な懐石料理の店の名前を出した。そこなら、草津も馴染みの店だ。
「お店を出たら、この間下校途中に声をかけてきた男の人と有馬さんがいたんです」
「ああ、そういえば食事に行くと言っていたな」
男のことなら記憶にある。それがどうかしたのだろうか。
「……会長」
「なんだ?」
「信じられます?有馬さん、彼とキスをしていたんですよ」
食事をしただけなのに、どうやら相手は盛り上がってしまったらしい。 どうせ彼は一週間もすればこの町を出ていく。有馬はそう割り切って、男の誘いに応じたのだが、彼は店を出たところで有馬の腰に手を回し、口づけを強要した。たかだか高校生に、と思ったが、そもそも付き合っていたのは中学生の頃だ。そういう趣味の男なのかもしれない。
「困ります」
男の手を振り払い、一歩後ろに下がる。
「燻くんはまだ高校生だからわからないと思うけれどね」
彼はこちらを見上げながらそう言った。三年前は有馬のほうが背が低かった。三年前にはなかった目尻のしわにぞっとする。
「君にとっては『三年も前』のことかもしれないけれど、大人にとっては『たったの三年前』、なんだよ」
「僕は」
いま交際している相手がいる、なんてこの男に教えてやる義理もない。有馬は警戒を隠さず男を見た。
「そんなつもりで来たつもりはありません」
「本当に?」
「本当、です」
「ふつう、俺みたいなのが取引相手の息子とふたりで食事になんて行くと思う?」
「……、それは」
「燻くんは賢いけれど、やはりこどもだね」
同級生たちに比べれば、自分は冷静なタイプだと思っていた。しかし、実際、十以上も年上の相手の前では、そんなもの思い上がりだとわかる。気を抜けば彼に絡め取られてしまいそうで、背筋にぞくぞくとしたものが走った。
「すごい顔だ」
「っ、」
男はふっと息を吐いた。
「まあ、今日はここまでにしておくよ。僕の滞在もあと五日だ。もう一度くらい、会ってくれるだろう?」
「会うわけ、ないでしょう」
「それでは君の父上に、中学生の頃の君の話を聞かせようか」
舌打ちだけは、なんとか思いとどまる。有馬は男から目を逸らした。
「じゃあね、燻くん」
不意に頭を撫でられる。三年前、そういうことをしていた頃、有馬が好んでしてもらっていた行為だった。はっと顔を上げると、彼はひらりと手を振り車の方に戻っていった。
「……なにかの見間違いではないのか?」
「えー、そんなことないと思いますけど」
下呂には、自分たちが交際していることを伝えてはいない。だから下呂は、たまたま見掛けた先輩の意外な一面、を純粋な好奇心だけで草津に伝えただけのつもりだろう。
「有馬さんって、こいびとがいたんですね、そういう話、聞いたことありませんでしたけど」
「彼と有馬は三年ぶりに顔を合わせたと言っていただろう、しかも一週間しかこちらにいないと」
「ああ、そういえばそんなこと言ってましたね」
どうやら下呂はあのときの会話は忘れてしまっていたらしい。草津は内心に湧き出る疑念に、眉を寄せる。下呂はそれに気づいているのかいないのか、小首をかしげた。
「ふたりがこいびとではないなら、どうしてキスなんてしたんでしょう」
「……私の知ったことではない」
大嘘だ。知ったことではない、なんて、そんなはずがない。
「会長、随分動揺していますね。有馬さんにこいびとがいたこと、そんなにショックでした?」
「……そんなわけないだろう」
下呂はまったく信用していない顔で肩をすくめた。
「有馬さん、今もあの人に呼ばれたのかもしれませんよ。妙に焦っていましたし」
本当に下呂は、自分たちが交際していることを知らないのだろうか。もしかしたら気がついているのだろうか。そんな考えが草津の頭を過ぎる。下呂はふう、と息を吐く。
「それにしても、有馬さんももっと美しい人と付き合えばいいのに」
どうやらあの男は下呂のお眼鏡にはかなわなかったらしい。草津はなにも言わなかった。ボロが出そうで恐ろしかったからだ。
本当に有馬があの男とキスをしていたのなら、それは由々しき自体だ。ありていの、俗っぽいことばで言うのなら、「浮気」ということになりはしないか。あの有馬に限ってそれはないはずだと思いたかったが、下呂があのようなくだらない嘘をつく理由もない。
帰宅した草津は、らしくもなくベッドに寝転がって途方に暮れていた。こんなにも動揺したのは久しぶりで、どのようにして帰ってきたのかも朦朧としていた。
とにかく、冷静にならなくては。彼らは三年前に会って以来だと言っていた。それが嘘だったということだろうか。
二股をかけられるなど、せいぜい安い小説の登場人物の話だけだと思っていた。まさか自分の身にそんなことが降りかかるとは思わなかった。冷静になどなれるはずがない。
「錦史郎が、ぜんぶ初めてだよ」
あのときそう言ったのは有馬だった。草津はきつく唇を噛み締めた。心臓が痛むほどに、苛立っている。なぜか目の前がゆがんで、自分が泣いていることに気づく。
有馬は、有馬だけは、自分を裏切るはずがないと思っていた。有馬、有馬、有馬。なぜ。どうして、あんなことを、平気で。あの笑顔の下に、どれだけのことを隠している。呼吸も覚束なくなりそうだった。彼のことを、誰よりも信頼していたのだ。執事として、友人として、こいびと、として。
問い詰めて、然るべき制裁を、くわえ、なくては、いけない。
草津はぎりりと歯を食いしばる。ベッドから起き上がると、スマートフォンを取り出した。
有馬が草津邸を訪れたのは、その日の二十一時を回ってからだった。草津の部屋に通され、青ざめた彼の表情に、彼の中でなにが起こったのかを悟る。
――、ああ。
有馬は心の中で嘆息した。
だが、絶対に、認めはしまい。そう決めて彼の部屋に入る。頬がひりつくほどの張り詰めた空気のなか、草津は有馬にベッドに座るように言った。有馬は二つ返事でそれに従う。目の前に立ち、草津はこちらを見下ろしていた。いつもと逆の視線を受けて、有馬はじっと動かない。
「……遅かったな」
「家の用事があるって言ったじゃない」
「……この前会ったひとと食事にでも行ったのか?」
随分とストレートだ。もともと草津は自分の感情を隠すような人間ではない。有馬は「ちがう」と答えた。これは本当だ。今日は久しぶりにこちらにやってくる親類がいたので、挨拶をしに帰っただけだ。
「阿古哉が、……」
「阿古哉が?」
「君があの男と……口づけているのを見たと」
有馬は表情を変えなかった。なるほど、誰かに――たとえば眉難高校の生徒に見られないよう慎重に店は選んだつもりだったが、下呂ならあの店を利用する可能性は十分にあった。
「あの男は何者だ」
「……あの人は父の取引相手だよ。その過程で僕とも顔見知りになった」
「その話は以前も聞いた」
嘘はついていない。ただ、からだの関係を持ったことを告げていないだけだ。だから有馬は平然と草津を見返した。
「有馬」
「なに?」
完璧に笑っているはずだ。いつも通り。ほんの少しも動揺なんかしてはいない。
「それでは君は、」
草津は言葉を区切った。
「君は、『父親の取引相手』と、……キスを、したりするのか」
「あの人は海外育ちだから、あれが挨拶みたいなものなんだよ。逃げ切れなくて」
「ッ、ありま、君は」
キスをしたことを認める発言に、草津の頬がみるみるうちに紅潮する。
だけど誤魔化しきらなければいけない。草津は完全に気付いているだろうけれど、それでも、認めてはいけないのだ。いくら彼の命であろうとも、本当のことを口にしたりしたら、きっと彼はひどく傷つく。失望させたくない。不誠実な自分を晒したくはない。
だから有馬はなおのこと笑った。
「僕が浮気したと思った?」
「……、」
「それ以上なにもしてないよ、本当に。僕には君だけだ」
これも嘘じゃない。草津だけだ。草津がいなければ自分の中はいつまでも虚ろだった。有馬という家で、その存続のために作られた人形のままだっただろう。だから、これは有馬にとっては嘘ではなかった。
「……過去にも、か」
しかし、草津の表情は険しい。彼の心情を思えば当然だ。そしてついに草津は事実にたどり着いている。有馬はしかし、表情を変えなかった。
「前にも言ったでしょ、僕にとってのはじめては全部、錦史郎だよ」
「!」
草津の眉がさっと釣り上がった。振り上げられた手のひらを、有馬は甘んじて受け止めた。ぱちん、といささか勢いのない音が部屋に響く。人を殴り慣れていないことがよくわかる音だった。
「なぜ、くだらない嘘をつく、君は三年前あの男と、」
「錦史郎」
草津に張られたはずの頬はほとんど痛まない。有馬はつと目線を上げ、彼の顔を見る。
「君は……、君は、私が、はじめてなどではない!どうしてそれを認めないんだ!」
草津の目には涙の膜が張っていた。有馬ははっと目を見開いた。
「……錦史郎」
なんてばかで美しい男なのだろうと思う。有馬が言っていることが嘘だとわかっていても、必ずしもそれを追求する必要などないだろう。それを飲み込んで、なあなあで済ますことは不可能ではない。自分ならとっくにそうしていただろうと思う。
だけど、草津錦史郎にはそれができない。頬を紅潮させ、涙をにじませ、こちらを真っ直ぐに見つめている。背筋にちりちりと弱い電流が走るような感覚。
好きだと思う。これまで肌を重ねた誰より、なにより、この男が愛しいと思う。有馬は息を詰めた。
「……君が嘘をついた理由が、まるきりわからない、わけではない」
「……」
もしかしたら、あの嘘をついたときから、自分はこのときを待っていたのかもしれなかった。緊張でぎりぎりと胸が痛む。
「確かに私は、君が私を最初としなかったことが今、とてつもなく不快だ」
高らかにそう告げた草津は、自らの心臓を抑えるように、胸元で拳を握る。
「だが君に嘘をつかれることも、それ以上に不快だ」
「……」
「……なんとか言ったらどうだ」
「きみに、そんな顔をさせるつもりはなかったんだ」
あの嘘をついたときは、それが正解だったはずだ。あの男がこの町にやってこなければきっと、その答えは永遠に正しかったはずだ。けれど、結局、それは覆ってしまった。
「では君はあの男と、ッ、セックスを、したことを認めるんだな」
「……」
有馬は目を伏せた。確かに彼とは何度か性交渉をした。けれど、
「いや、君がはじめてだよ」
「有馬」
「ほんとうに好きだと思う相手としたのは、はじめてだったよ、あのとき」
草津がはっと息をのんだ。それからじわじわと赤くなり、かぶりを振る。
「私はそんな言葉で懐柔などされない」
「それでいいよ」
「よくない!」
子どもっぽい口ぶりで、草津が声を上げた。
草津は有馬が微笑んでいるのが許せなかった。この男は、自分自身のこころもからだも過去も未来もまるでどうでもいいような態度を取ることがあって、それは今も同じだった。彼がその笑顔のしたでなにを考えているのかなど、草津にはいつもわからない。
「ごめん」
「……謝ってすむ問題だと思っているのか」
「思ってないよ、僕は取り返しのつかないことをした。君が別れようと言うのなら別れるし、二度と顔を見せるなと言うのなら二度と君の前には現れない」
そんなことを言っておきながら有馬はなお微笑んでいて、草津はいよいよ泣きたくなる。こんなにも胸が痛むのは、自分がたしかに有馬燻を愛しているからで、だからこそ彼の言うことが許せない。頭がいっぱいで、なにを言うべきかもわからなかった。息が苦しい。唇を噛んで涙が落ちるのをこらえる。
「錦史郎」
「……、」
「信じてもらえないかもしれないけれど、ああいうことをして、嬉しいとか幸せとか、思ったのは初めてだった」
「……」
「ほんとうだよ」
「君は馬鹿だ」
「……そうかな」
「ばかだ、おおばかものだ」
こんなことを言って、いまさら手放せと言うのか。そんなこと、できるはずがない。ついに草津の目から、ぼろぼろと涙が落ちた。喉が焼けるほどに熱く、どうやっても涙が止まらない。
「絶対に許さない」
「うん」
「二度とあのような真似をするな」
「……はい」
「きみのからだを、ぼく以外の誰にも触らせるな」
「……仰せの、ままに」
有馬は膝の上で拳を握る。草津は自分の指先で涙をぬぐい、有馬の頭に手を置いた。瞬間有馬の表情がみるみるうちに歪んでいく。
「きんしろう」
彼の声はらしくもなく震えていた。
「好きだよ」
まさに溢れるように吐き出されたことばは、草津の胸を確かに満たす。
「ああ」
「きんしろうを、はじめてにしたかった」
「ああ……」
この男を抱きしめてもいいのだろうか。抱きしめるべきなのだろう。草津は彼の背中に手をのばす。有馬のからだは確かに熱く、生きていて、草津は息を吐いた。どこにもやるものか。誰にも渡すものか。二度と離すものか。
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