センチメンタル・ジャーニー(同人誌再録)









錦史郎と由布院は宣言通り日付が変わる頃にはすとんと寝てしまい、起きているのは俺と鬼怒川だけになった。眠ったふたりのために部屋の照明を落として、僕と鬼怒川は広縁の椅子に座った。
「鬼怒川、お茶飲む?」
「うん、ありがとう」
 備え付けの急須で緑茶を煎れる。やっぱりこのホテルの茶葉はあんまりよくないなあ、と思いながら湯呑に注いで、茶托の上に置くと、テーブルの上、鬼怒川の前に差し出した。鬼怒川の眼鏡が、鈍く光を反射する。
「ちょっと涼しいね」
「うん」
 窓の外に満ち満ちた夜の空気が、薄い窓ガラス越しに伝わってくるみたいだ。僕はお茶をひとくち飲んで、息を吐きだした。あたたかいものが、からだのなかでじわっと広がる実感がある。
「さっきの映画の話なんだけど」
 俺が言うと、鬼怒川が笑う。そりゃあ、鬼怒川たちは一度見た映画かもしれないけど、僕は初めてだった。もともとそんなに映画を見る方ではないけど、前半と後半にあんなにギャップのある映画なんて初めてで、だから誰かと話したいって思うのは仕方がない欲求だろう。
「いいよ、話そう」
 あれこれと感想を言うと、鬼怒川が公開当時話題になったらしい伏線や裏設定のことを教えてくれた。おかげで思いの外話は弾み、気がつけばお互いお茶も無くなっている。
「ごめん、お茶いれ直すね」
 一旦休憩だ。テーブルの上の茶筒を取って茶葉を入れ替えて立ち上がり、小さな冷蔵庫のうえのポッドの中に残っていたお湯を注ぐ。茶葉が広がるのを待つ。その間、さっきまで盛り上がっていた会話は途切れて、俺はそっと息を吐く。
 俺たちはたぶん幼馴染といえる程度の付き合いはあるはずなのに、少し話題に欠けるところがあった。
「有馬って、建築学科、だっけ」
 沈黙を破ったのは、鬼怒川のほうからだった。だから俺も頷く。
「そうだよ」
「じゃあ、三年のときクラスが文系選択だったのは、本当に錦ちゃんのためだったんだね」
「まあ、そうかな」
 曖昧な返事をしたけれど、それは事実だった。
 眉難高校は、最終学年では進路によってクラスが変わるようになっていた。単純に、文系と理系で分かれるってだけだけど。由布院と鬼怒川は理系選択クラスだ。そして僕と錦史郎は文系選択クラスだった。俺は錦史郎と同じクラスになるために、去年の冬、進路希望のアンケートに、自分が進学したい学部を無視して「文系私大」の欄に大きく丸をつけた。それから進路希望調査票で建築学科を受験するつもりだと知った担任から、呼び出されたことすらある。それも最終的には、まあ頑張りなさい、って言われて終わったけど。
「文系のクラスで理系の勉強するの、大変じゃなかった?」
「うーん、まあ、それは、それなりに?」
 そろそろお茶も味が出ただろう。俺は急須を片手にテーブルのほうに戻って、鬼怒川と自分の湯呑に交互にお茶を注いだ。
「大学も、錦ちゃんと同じにしようとは思わなかったの?」
「思ったよ」
 注ぎ終わって、俺は急須を置く。
 錦史郎が行く大学に、頑張れば俺も入れた、とは思う。だけど僕は苦労してまで理系に転じた。錦史郎とは、別のところに行く。それはたぶん、東北の国立大を選んだ由布院と似たような気持ちで、似たような決意を経てのもので、だからこそ俺と由布院は一緒に勉強できていた。
「でも、錦史郎はもう、大丈夫だって思えたから」
「…………」
「鬼怒川のおかげだよ。ありがとう」
 これは本心だ。錦史郎は僕がそばにいなくても大丈夫。いや、多分本当は、そもそも最初から最後までそうだったんだと思う。俺なんかいなくたって、錦史郎はちゃんと前を向いて生きてきたし、生きていけるだろう。
「それって、俺はどう返事すればいいの?」
「返事したいようにしてくれれば」
「じゃあ言うけど、それは有馬のおかげでもあると思うよ」
「どうだろうね」
 言うと、鬼怒川は黙ってしまった。返しづらいことを言ってしまったという実感はある。でも、実際鬼怒川と和解してからの錦史郎は、穏やかになったし、楽しそうだ。僕たちと世界征服を目指そうとしていたころより、何倍も。
「鬼怒川のほうこそ、これから由布院と今までみたいに会えなくなるけど、寂しくない?」
 そして僕は、あからさまに話題を変えた。鬼怒川がずっと不利になる話題に。鬼怒川の顔にはずるい、の三文字が浮かんでいるようだ。
「寂しいよ」
 だけど鬼怒川はきちんとそう答えた。
「でも、そういうものだと思わないと」
 僕はうなずく。僕が進学する大学にだって何千人も学生がいて、もしかしたらその中で、これまででいちばん気が合うやつができるかもしれない。僕にも、彼にも、みんなにも、それぞれ。
 そうしたら、僕たちは今回のように集まらなくなってしまうかもしれない。まだ見ぬ親友を優先するようになってしまうかもしれない。それは仕方がないことだ。わかっている。
「ところで」
 鬼怒川がお茶を飲みきって。それからふうっと息を吐く。
「明日最後に行く神社、縁結びの神様らしいよ」
「女の子が好きそうな神社だね」
 鬼怒川は僕の冗談に、少しも笑わなかった。
「俺は煙ちゃんとのことを、お願いするよ」
「神頼みなんて鬼怒川らしくもない」
「そうかな」
「……うん」
「有馬は、誰とのことをお願いするの」
「それは……」
 僕は布団で寝ている錦史郎、それに由布院のほうを見た。ふたりともよく眠っているように見える。この会話、どっちに聞かれていても恥ずかしいな、と思った。多分大丈夫だよな。ふたりとも、よく寝ているように見える。
「やっぱり俺も、錦史郎、かな」
「うん」
 鬼怒川が笑う。僕は息を吐いた。神頼みなんて、意味がないことはとっくに理解できてるはずなのに。



僕が湯呑を片付けているあいだに、鬼怒川も布団の中に入ってしまっていた。こうなると起きていても仕方がないから、横になるしかない。眠れるだろうか、と思う。ひとまず布団に入ると、隣の布団で眠っている錦史郎の顔に向き合うことになった。手を伸ばして少しだけずれていた掛け布団を直す。
 ほんの半年前なら、錦史郎は電車で旅行なんかしなかったし、こんな薄い布団じゃ寝付けないと文句を言っていただろう。それが今じゃすっかり、こういうところにも馴染めるようになった。
 ときどき錦史郎が僕に対して気遣うような顔をするのは、十年前に出会っていたことを覚えていたのに忘れたふりをしたことと、世界征服に付き合わせたことを、申し訳なく思っているからだ。本人にそう言われたことはないけれど、まず間違いないだろう。錦史郎が考えていることなんて、おおよそわかっている。
 だけど僕は、そんな必要ないのに、と思っている。僕はあれはあれで楽しんでいたのだ。僕は十年錦史郎のことをずっと忘れなかったとはいえ、錦史郎に忘れられたなら仕方がないと思って、あくまで単なる生徒会役員同士として、付き合い短い友人として、斜め後ろに立っていた。世界征服だって、必死な顔をしている錦史郎は可愛かったし、確かに頼りにされているという実感があったから、なんにも嫌なことなんてなかった。
 僕は錦史郎の頑なで、融通がきかなくて、目の前のことに一直線で、生真面目で、だからこそ色んなことに噛み付いてしまうようなところを確かに愛していた。僕には絶対にできないことだからだ。いっそ、僕に噛み付いてほしいとすら思っていた。
 本当は、錦史郎が僕と阿古哉だけを仲間にしていた半年前のほうが、僕は……。いや、そんなことを考えるのは間違っている。錦史郎は鬼怒川と和解できた今のほうが幸せだし、楽しいだろう。
 ああ、俺はまだ、眠れそうにない。



「……ありま、起きろ、有馬」
 錦史郎の声がする、と思った瞬間、ほぼほぼ反射で起き上がってしまう。目を開けると、錦史郎がこちらを見下ろしていた。耳に髪をかけながら、「朝食の前に風呂に行こうと言っただろう」と言われてしまう。いつの間に寝ていたのだろう。まだぼんやりした頭の中で考えてみるけれど、答えは出ない。錦史郎は端の布団で寝ている由布院を起こすためにきびすを返した。鬼怒川ももう起きているみたいだ。
 もう少し寝ていたかったなあ。錦史郎が見ていないのをいいことに大あくびをする。まあ、温泉に入れば目も覚めるだろう。ゆっくりからだを起こして、はだけてしまった浴衣を着直していると、「あと五分」「今すぐ起きろ」という由布院と錦史郎の押し問答が展開されているのが聞こえてきた。そのうち由布院が折れたのか、のそのそと起き上がった。まあ、錦史郎と由布院なら、由布院が折れるのが必定というやつだろう。もっとも、由布院は浴衣を整える暇すら与えてもらえず、ほとんど胸元が全開の状態で廊下に引っ張り出される羽目になっていたけれど。
「錦史郎、よく起きれたねえ、アラームの音なんて聞こえなかったけど」
「僕はいつもこの時間に起きているからな」
 錦史郎が得意げに胸を張る。規則正しい生活をしている錦史郎には当然のことなんだろう。さすがだなあ、と思う。
「結局昨日はあっちゃんとは遅くまで起きていたのか」
「そうでもないよ、一時前には布団に入ったし」
「……そうか」
 そのあと布団の中でなかなか眠れなかったことはだまっておくことにしよう。
 階段を降りて、大浴場のある二階に辿り着く。脱衣所の籠を見るに、貸し切り状態で入れそうだ。
「東京にも銭湯ってあるのかな」
「俺は銭湯の近くに部屋借りたけど、黒玉湯の三倍くらいするんだよな、入湯料。あんま行けないかも」
「黒玉湯、破格だったもんね」
「そうなんだよなあ」
 鬼怒川と由布院がのんびり話をしながら服を脱ぐ。僕もさっさと浴衣を脱いだ。
「錦史郎、行こう」
「ああ」
 錦史郎も服を脱いでいる。さっさとからだを洗って、お湯に浸かりたい。髪は洗わなくてもいいだろう。――というわけでからだだけを洗って湯船に向かうと、同じことを考えたのだろう、髪が濡れていない由布院がもうお湯に浸かっている。俺も由布院の隣に腰を下ろす。錦史郎と鬼怒川は髪も洗っているのか、なかなかやってこない。
「たぶん上京までにもう四人で黒玉湯ってこともないだろうし、揃って温泉に入るのはこれが最後かもねえ」
「お前、さらっとそういうこと言うのやめろよ」
 お湯に浸かりながら考えたことをそのまま言うと、由布院に睨まれた。由布院はクールそうに見えて、存外情緒が豊かだ。高校卒業についても、寂しくなっちゃう、とてらいなく口に出していた。
「由布院も上京すれば、四人でまた銭湯にでも行けたかもしれないけど」
「ったく、お前までそういうこと言うなよな」
 たぶん鬼怒川にも似たようなことを散々言われたんだろうな、と思う。そのうち錦史郎と鬼怒川もこちらにやってきて、お湯に浸かる。入るなりふたりしてふう~、と長い息を吐き出すのが少し面白かった。
「やっぱり気持ちいいね」
「早く起きた甲斐があったね」
 鬼怒川と錦史郎が笑う。こうしていると、子どもの頃を思い出す。あの頃のふたりは、確かに唯一無二の親友だった。あの頃の俺には、将来何年も喧嘩することになるなんて、想像もつかなかった。
 俺は子どものころ、眉難に来る前にだって一応「友だち」はいたし、眉難でも「友だち」を作ったし、そのあとふたりと別れたあとも、「友だち」がいた。そして、彼らともまた眉難に戻るときに離れている。友だちとの別れなんて、大したことじゃない。だから高校卒業と進学だって、同じはずだった。はずだったのに。
「今日、これからすること全部、四人でするのは最後になるんだよね」
「だからそういうこと言うのやめろって」
 由布院が嫌な顔をする。だって実際そうじゃないか。俺は間違ったことは言っていない。鬼怒川がなにか言おうとして口をつぐむ。しかし、錦史郎だけは首を傾げた。まっすぐに俺のほうを見る。
「なぜ最後になるんだ? またいつでも会えるだろう」
「だって、由布院は離れた大学に行っちゃうし、俺たちだってみんな別の大学に行くわけだし」
「……だが、会えなくなる、というのはおかしいだろう。僕は、一度離れた有馬にだって会えた」
「ええと……」
 錦史郎に、こんなことを言われるなんて思わなかった。だけど、そうだ、錦史郎はこういうことを言える人だった。いつか、初めて会ったあの日、ひねくれたことばかりを考えていた俺に、笑ってこちらに手を差し出してくれた錦史郎のことを思い出す。あのときは錦史郎のことを、まぶしいひかりのようだと、思ったんだった。久しぶりに、そのときの気持ちを思い出す。光。……錦史郎は、カエルラ・アダマスのときも、光属性だった。
「……まあ、それもそうだよね、いまどき、ネットだってあるわけだし」
 鬼怒川が頷く。
「そうだよ煙ちゃん、別に、……毎日電話だってできるわけだし」
「え、それはめんどくさいだろ……」
「いつでもまた、旅行でもなんでも、できるだろう」
 錦史郎が言っていることはたぶんただしいけれど、あくまで希望的観測だ。信じるべきなのだろう。わかっている。信じないといけない。
「有馬」
「なに?」
「私は毎日電話をしても構わないぞ」
 言われて、ただでさえ暖まっている顔がますます熱くなったような気がした。錦史郎もたぶん照れているんだろう。毎日電話なんて、ちょっと束縛しているみたいで気が引ける。でも錦史郎がいいと言っている、なら、いいのだろうか。
「煙ちゃん、錦ちゃんと有馬は毎日電話するって」
 鬼怒川がはしゃいだような声を出す。由布院はそれものらくらとかわそうとしている。さっきまでしょんぼりしていたのに、もういつもどおりの空気になっている。
 この関係がこんなに愛おしくなってしまうのなら、誰か早めに言ってほしかった。そうしたら俺だって、もっと心の準備ができたのに。



風呂から上がったあと、私服に着替えて朝食会場に向かった。安いホテルにありがちなバイキング形式はなんだか落ち着かないのであまり好きではないけれど、料理のよそい方に性格が出るところは、けっこう面白い。
 昨日さんざん食べ過ぎだとからかわれた僕は、少し量を加減してみたけれど、それでもあまり錦史郎とは量が変わらなかった。いや、普通だろう。食べ過ぎなんて言われる筋合いはない。
 いちばん几帳面なよそい方をするのは鬼怒川だった。次が錦史郎だけど、そもそも錦史郎はバイキングがほぼほぼ初めてらしいので慣れていないんだと思う。由布院は好きなものはたっぷり、そうでもないのはひとくち、という極端な盛り付けをしてくる。あまり栄養バランスは考えていなさそうだ。
「煙ちゃん、サラダくらい取ればいいのに。炭水化物ばっかりだったよね」
「別にいいだろ」
「俺のレタスわけようか」
「いらないって」
 結局最終日まで由布院と鬼怒川はこの調子だった。まあ、仲がいいのはよろしいことだ、と思っておけばいいのだろうか。
「俺、もう一回取ってこようかな」
 ちょっと、甘い物も食べたい。立ち上がろうとすると、由布院が「俺も」と立ち上がった。鬼怒川から逃げるのにこっちを利用するのはやめてほしい。
「煙ちゃん、サラダも取りなよ」
「あっちゃん、放っておいてもいいんじゃないか」
 そんな錦史郎と鬼怒川のやりとりを背に、僕はフルーツの盛られた大皿のほうに向かった。由布院もあとについてくる。
「果物食っときゃ野菜の替わりになるよな?」
「さあ……」
 栄養についてはあまり詳しくないので首をかしげる。でもまあ、食べないよりは食べたほうが良さそうだな、と思う。
「由布院、野菜嫌いなの?」
「嫌いじゃねえけど、こういうところで進んでそればっかり取る気にはならねえだろ」
 そうだよな、昨日行ったレストランでだって、由布院は嫌がるそぶりもなくサラダを食べていた。俺はオレンジやいちごや、グレープフルーツのゼリーを持って席に戻る。その皿を覗き込んだ錦史郎がすぐに立ち上がって、どうやら彼もフルーツを取りに行くらしい。
 やっぱりバイキング形式は落ち着かないから、あんまり好きじゃない。でも、ちょっとだけ錦史郎がわくわくしているのは、かわいいと思った。



チェックアウトのあと、そのままフロントに荷物を預け、僕たちは宿から出た。一旦駅前に戻り、バスに乗る。二十分ほどで、目的地にたどり着いた。境内までの参道にはポツポツと土産物屋さんがあるけれど、あまり繁盛はしていなさそうだ。
 鬼怒川曰く縁結びのご利益があるという神社には、思ったとおり、何組かの女性グルーブがいた。彼女たちはおみくじを引いたり絵馬を書いたり、あるいは花の写真を撮ったりしている。
「まずは参拝だぞ」
「わかってるって」
 錦史郎に言われて、肩をすくめる。試しに「ここ、縁結びの神様なんだって」と言ってみると、錦史郎は少しの間黙って、「知っている」と答えた。意外、でもないか。錦史郎は今回鬼怒川と一緒に幹事をしたわけで、立ち寄る場所はぜんぶ彼らが決めた。錦史郎ならご利益くらいは調べただろう。
 錦史郎はなんて願いことをするんだろうなあ、と思う。訊いてみたいけど、マナー違反だし、訊いたところで答えてはくれないだろう。
 鬼怒川と由布院が先に賽銭箱の前に立つ。小銭を投げ入れて、二礼、二拍手。僕は鬼怒川の方を見た。「俺は煙ちゃんとのことを、お願いするよ」。彼は昨晩そう言っていた。俺はそれになんと答えたのか、もちろん忘れてはいない。
 横目でちらりと錦史郎を見る。さっき風呂で言われたことばを思い出す。
 ……錦史郎が僕たちのことを信じて、疎遠になることなどないと言ってくれたのは、本当に嬉しかった。やはり僕は錦史郎のことが好きだし、できるならこのままずっと、斜め後ろに立ちたいと思った。――そしてなにより錦史郎に、絶対に幸せになってほしいと思った。
 由布院と鬼怒川が最後に一礼をして、僕らに順番を譲ってくれる。ふたりで鈴紐を持ち、鈴を鳴らす。思いの外低い音だった。それから賽銭を投げて、手順通りに頭を下げる。
 ああ、なにを祈るべきか、ようやく思い当たった。ここが縁結びの神様なら、そうだな、幸せになれるような縁を、錦史郎に結んでほしい。新しい場所で、錦史郎が心穏やかに過ごせるように。その縁が相手だったら僥倖だけど、そうでなくても、構わない。
 目を開けると、隣で錦史郎がなにやら念入りに祈っている。錦史郎の願いも、叶うといい。僕はそう思いながら石段を降りた。



 皆でおみくじを引いて、軽くお茶を飲んで、もう一度ホテルに戻ったのは昼頃だった。フロントに預けていた荷物を受け取り、いよいよ帰路につくために駅に向かう。
 行きと同じだけの時間をかけて、僕たちは別々のところに行くために、自分たちの町に帰る。駅弁を買って席に座ると、不思議と会話ははずんだ。行きの電車では文庫本を広げていた錦史郎も、あれこれと旅の思い出を語っている。
「お前らどれくらい写真撮った?」
 由布院が言って、自分のスマートフォンを差し出す。釣られるようにして鬼怒川も。
「アルバム作るから、そこにそれぞれ送ろうよ」
 鬼怒川が言って、そうだな、と由布院が同意する。鬼怒川が言う「アルバム」がメッセンジャーアプリのアルバム機能のことだと気がつくのに、ほんの少しだけかかってしまった。俺も自分のスマホを見て、画像一覧を開く。そんなにたくさん撮ったつもりはなかったけれど、青い海と空の写真がいくらか並んでいた。
「これは、ここに送信すればいいのか?」
 錦史郎はメッセンジャーアプリの使い方に戸惑っていて、そういえばアルバム機能なんていままでろくにつかったことがなかったな、ということに気がつく。鬼怒川があれこれ錦史郎に教えると、すぐにトーク画面に「草津錦史郎さんによってアルバムに写真が追加されました」というメッセージが表示された。どうせなら俺も今のうちに送っちゃおうと思い、この旅行の間に撮った写真を全部選択する。
「ええ、俺ワイファイ入るところじゃなきゃ無理だわ」
 由布院が顔をしかめる。じゃあ煙ちゃんはあとでね、と言いながら、鬼怒川も写真をアップロードした。俺はアルバムに載せられた写真をさっとスクロールしてみる。錦史郎と俺と鬼怒川三人が撮った写真が並んでいる。僕はそっとスマートフォンを伏せる。
「今は簡単に写真が共有できていいな」
 錦史郎が感心したような声を出す。そうだね、と俺は言う。きっと大学生になったら、もっともっと、色んな人と写真を共有する機会も増えるだろう。
「由布院、忘れずに写真を送るんだぞ」
「はいはい」
 旅行の前に比べると、このふたりなんか、明らかに仲が良くなっている。とてもいいことだと思う。俺は残りの駅弁を食べることにした。
 俺たちの町まで、あとたったの一時間だ。もう、この旅行は終わりに近づいている。



共有しあった写真を見るに、俺たちはこの旅行のあいだ、一枚も四人揃った写真は撮らなかったらしい。なんでだろう。みんなあんまり写真を撮るのも撮られるのも得意じゃなくて、誰も言い出さなかったからかもしれない。ここに俺たちの後輩(主に阿古哉と蔵王くんだけど、)がいればまた、違ったのかもしれないけど。
 ついに電車が地元の駅にたどり着く。俺は来週、錦史郎と鬼怒川は十日後、由布院もその数日後には、それぞれひとりで暮らし始めることになっている。
 卒業してもなにも変わらないだろうと錦史郎は言っていた。それはたぶん俺たちの気持ちとか、関係性のことのはずだ。少なくとも、環境や物理的な距離感は変わってしまうのだから。そしてそれでも、俺たちは一緒にいられると、錦史郎は言い切った。
 本当にそうなのだろうか、と思わないでもない。だけど錦史郎がそう信じたいんだろうってことも、重々、わかりすぎるほどわかっている。俺が、信じさえすれば、この程度の距離なんて、なんでもないはずなんだ。
 電車を降りて、駅の改札を出る。錦史郎と由布院と鬼怒川は市内でも同じ地区に住んでいるけれど、俺は少し離れたところに住んでいて、だから三人とはここでお別れということになる。
「じゃあ」
 俺は三人に向き合って、口を開いた。
「俺は車を待たせてるから」
 するとなぜか三人共驚いたような顔をする。
「あ、ああ、そうだったな」
 てっきり家の近くまで一緒にいるつもりだった、みたいな言い方で、錦史郎は言った。由布院と、由布院にあわせた鬼怒川と、鬼怒川にあわせた錦史郎は、ここからまた公共交通機関を使って帰るはずだ。本来鬼怒川と錦史郎は、俺のように車を呼ぶこともできるはずだから。
「じゃあな、有馬」
「元気でね」
 由布院と鬼怒川がこちらを見る。
「うん」
 じゃあ。口に出すと、胸の奥のほうが、らしくもなくちりりと痛む。さようなら、なんて、これまで何度も言ってきたことばなのに、どうしてこんなに言いたくないなんて、思ってしまうんだろう。
「また、今度」
 すると錦史郎がこちらを真っ直ぐに見て言う。また今度。その言葉がじわりと胸に広がる。今度。そうだな、また、東京でだって会えるだろう、僕たちは。
「そうだね、またね、有馬」
「次は何ヶ月後かね、またな」
 鬼怒川と由布院も、口々にそう言って笑う。また。そうだな、もう一回くらいは、地元のよしみで四人で集まることもあるだろう。次はどうだろう。その次は?
「……うん、また。そろそろ行くね」
 だから僕は、ほとんど祈るような気持ちで頷いた。神様も仏様も信じていないから、これは自分自身と、彼ら三人への祈りだ。僕は荷物の入ったカバンを抱え直して踵を返す。
 また、会いたい。何度だって会いたい。皆がそう思っていればいい。今この瞬間だけでも、同じ気持ちでいられればそれでいい。
 こんなつもりじゃなかったのになあ、と思う。本当はもっと、淡々と高校時代を過ごすつもりだった。なのにこんなに感傷的になってしまうなんて、想像もつかなかった。
 ちょっとだけ、鼻の辺りが熱くなる。でも、家の運転手にそんな顔を見せるのは嫌で、俺は奥歯を噛み締めた。





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