センチメンタル・ジャーニー(同人誌再録)
2
集合時間ぎりぎりにやってきた由布院はそれでも眠そうで、しかしあっちゃんは「よく間に合ったねえ」などと笑っている。由布院に甘すぎやしないか、と思わないでもない。
とはいえ、集合時間を由布院の遅刻の可能性を鑑みてはやめに設定したせいで、電車が来るまでまだ時間がある。「お菓子持ってきたよ」とあっちゃんが言うと、「あ、飲み物買いたいかも」と有馬が応じた。すると由布院が「俺も」とゆるりと手を挙げる。そういうわけでふたりはすぐそこにある売店へ歩いていった。並んだ背中を見て、ふたりとも長身なのだな、とどうでもいいことを実感した。
――ほんの半年前まで、あっちゃんと、それに由布院と一緒に卒業旅行に行くなんて思ってもみなかった。そもそも、卒業旅行というものの存在自体、思いつきもしなかっただろう。それが、今となってはこれだ。隣のあっちゃんのほうを見ると、微笑まれる。ああ、やっぱり、和解してよかった、と思ってしまう。世界征服なんて馬鹿なことを考えてしまったとは思っているけれど、おかげであっちゃんに言いたいことをきちんと言えたことは、悪くなかったとも思っている。
しばらくすると、有馬と由布院がコンビニの袋を提げて戻ってきた。有馬のものに比べると由布院の持っている袋は少し大きくて、ペットボトル一本、という風情ではない。
「これ、買っちゃったからやるよ」
「これから温泉行くのに……?」
由布院はあっちゃんと僕に、透明のセロファンで包まれたまんじゅうを渡してきた。これから温泉地に行くとはいえ、このあたりもそもそも温泉地だ。売店ではおみやげとしてまんじゅうが売られている。そして由布院は、無類の温泉まんじゅう好きなのだ。だからといって、今この瞬間、わざわざ買ってくるものだろうか。
「いや、自分のぶんだけ買うのも悪いだろ、なんか」
「はいはい、ありがとね」
「まあ、今こっちのを食べておけば食べ比べできるしね」
有馬がフォローのようなことを言って、肩をすくめる。この一年半ほど、何度も僕らに茶菓子を提供してきた有馬も、たぶん甘いものに興味があるのだろう。
「……そうだな、……ありがとう、由布院」
礼を言うと、由布院が驚いたような顔をした。いや、常日頃の自分の態度からしてみれば由布院の反応も当然……ということは頭で理解できるものの、あっちゃんや有馬にまで驚かれてしまうとなんだか恥ずかしいものがある。
「……そろそろホームに行くぞ」
僕はごまかすために、旅行会社から預かっていたチケットを出して、あっちゃんと有馬と由布院に渡した。さっさと話題を変えてしまいたい。
「電車での旅行、あんなに嫌がってたのに」
有馬がからかうように言ってくるのでひとにらみし、僕はホームに向かうためにかばんを抱え直した。
由布院に押し切られてしまったものの。やはり電車で度になどでるものではない。春休みの車内は子どもたちの声で騒がしい。なぜ親は注意しないんだ。
そんなことを考えながら、由布院からもらったまんじゅうを食べる。口の中の水分が取られてなにか飲みたくなって、集合前に買っておいたペットボトルのお茶を開栓した。しかし、あまりおいしくない。どうせ隣にいるのだから、有馬が淹れたお茶が飲みたかった。
ボックス席で、僕の向かいに座っているあっちゃんとその横にいる由布院は、あっちゃんのスマートフォンの画面をふたりで覗き込みながら、あれこれと話をしている。ここに行きたいだとか、あれを食べたいだとか、ふだんからべったりでよく会話をしているのに、よくもまあそんなに話題があるものだ。
僕は読み途中だった文庫本を取り出した。どうせなら上京までに読み切りたいと思っていて、おそらくこの旅行中には読み終わるだろう。
と、思っていたが、どうにも子どもの声が耳に届いてしまい、集中できない。僕はいったん本から顔を上げて、隣に座っている有馬を見た。有馬はぼんやりと窓の外を見ている。窓から入る日光のせいで有馬の頬がつるりとしているのがよくわかって、思わずじっと見つめてしまう。ほどなく視線に気づかれて、有馬がこちらを見た。
「どうかした、錦史郎」
「いや、なんでもない」
「その本面白い?」
「まあ、それなりだ」
「ふぅん」
有馬との会話はすぐに途切れてしまう。するとあっちゃんと由布院までこちらを見ていることに気づいてしまい、僕は狼狽えた。これだから電車での旅行は嫌だったんだ。何度目かもわからない後悔をしてしまう。リムジンならこんな至近距離で顔を突き合わせて移動しなくて済んだのに。
「それにしても」
有馬はあっちゃんと由布院を見ながら言った。
「ふたり、ほんとに距離が近いよね」
「そうか?」
由布院がきょとんとした顔をしている。おまけに隣のあっちゃんも同じような顔をしている。どうやら自覚がなかったらしい。
「普通そんなふうに、腕が触れ合うほどそばには座らないんじゃない?」
有馬の指摘どおり、あっちゃんと由布院はお互いが着ている服のそでが触れるほど身を寄せている。ひとつのスマートフォンを覗くにしても近いだろう。僕は有馬と自分の距離を見やる。向かいのふたりにに比べると、有馬の肩はずいぶん遠くにあるように感じた。
「いやでもまあ、こんなもんだろ」
「そうそう、俺べつに、煙ちゃん相手じゃなくてもこれくらい平気だし」
防衛部の後輩とか、錦ちゃんたちとかでも、別に。あっちゃんは軽々とそう言った。パーソナルスペースというものが狭いのだろう。いや、違う。狭くなったんだ。由布院や防衛部が、あっちゃんを変えてしまったんだ。僕と遊んでいた頃は、こんなふうではなかった気がする。
「もしかして、草津も有馬とくっつきたいの?」
由布院があくびをしながらそう言った。
「え?」
僕が、有馬と? 有馬のほうを見ると、苦笑した彼と目があった。
「錦史郎がそうしたいなら、僕はもちろん構わないよ」
有馬の言い方に、僕は、眉を寄せた。僕――錦史郎がしたいことなら何でも従うよ、という有馬のスタンスは、こういうときにはあまりよくないほうに作用する。普段はこちらをからかうようなことばかり言うくせに。
「……そういうわけではない」
だから僕はそう答えざるを得なかった。由布院のほうを見ると、もうこちらから興味を失ったのか、眠そうな顔をしている。いや、いつも眠そうな顔をしているのだが、今のは本気で眠いときの顔だ。そんなことがわかるようになってしまったのも、どうかと思うが。
「煙ちゃん、寝る?」
「うーん……」
あっちゃんが声をかける。由布院はそのままゆるゆると目を閉じてしまった。高校を卒業しておきながら、幼児のような態度だ。僕はそう思ったけれど、あっちゃんは違うらしい。なぜかほっとしたような顔で、由布院を見ている。
「由布院が東京の大学選ばなかったの、ちょっと意外だったんだよね」
由布院が寝入ったのを見た有馬が言うと、あっちゃんが少しだけ笑った。
「通うのに満員電車乗りたくないからやめたんだって。煙ちゃんらしいよね」
あっちゃんの寂しそうな顔を見て、僕はようやく、四月が来たらあっちゃんと由布院は離れ離れになってしまうという事実に気がつくことができたのだった。あっちゃんと由布院の進学先が別の地方であることと、ふたりがなかなか会えなくなることが、頭のなかで結びついていなかった。
「あっちゃんがいなくて大丈夫なのか、由布院は」
「大丈夫だと思うよ」
あっちゃんは即答した。……僕はどうしたってそうは思えないけど、当然あっちゃんのほうが由布院のことをよく知っている。ならばそれはきっと、本当なのだろう。
その後二回電車を乗り換えて、正午も少し過ぎたころ、ようやく目的地にたどり着いた。温泉宿といくつかの小さな寺や神社があるだけの町だ。こんなところには、初めて来たかもしれない。
駅から宿への送迎バスに乗る。これもまあ、小さな車だった。リムジンより小さいのに、リムジンよりたくさんの人が乗れそうだ。ほんの五分ほどの距離だったが、あまりに揺れるので閉口してしまう。そうしてようやく到着したホテルのフロントは、思ったよりは古くなくてほっとする。
あっちゃんが率先してフロントに向かい、先に荷物を預けて温泉街に出ることにした。そう広い町ではない。もっとも、これは眉難にも言えることだが。
「お腹すいちゃったな」
「俺も。もう昼だいぶ過ぎてるもんな」
町に出てすぐ、有馬と由布院はそんなことを言い合っている。電車でまんじゅうだのスナック菓子だのをつまんでいたのに、なんとも食欲旺盛だ。僕はそこまで空腹ではない。
「なあ熱史、この辺で有名なのって」
「蕎麦だよ」
由布院の質問に、あっちゃんがすぐに答える。本当に由布院はあっちゃんによく頼る。じゃあ蕎麦食べに行こう、と話はすぐにまとまって、僕らはガイドブックの蕎麦店特集ページにいちばん大きな写真が乗っている店に向かった。ここから歩いてほんの数分だと言う。
「このお店は十割蕎麦がおいしいらしいよ」
「そういえば、なんでわざわざ二八蕎麦とか、普通は小麦を入れるんだろうな」
「白っぽい蕎麦のほうが都会っぽいしのどごしがよくなるから小麦を入れたとか、そもそも小麦をいれたほうが打ちやすくなるとか、色々あるみたいだよ」
「へえ」
店には僕たちの前に一組の老夫婦が並んでいるだけだった。有馬が帳面に名前と人数を書きこみ、待つことにする。老夫婦は仲睦まじそうにあれこれとメニューを考えていて、僕たちもメニュー表を覗き込むことにした。
「天ぷらつけたいな」
「……これは炊き込みご飯がセットかあ」
「ざるそばで十分じゃないか?」
「かけそばよりはざるのほうが味がわかりやすいかな」
そんなことを言い合っているうちに順番が回ってきて、僕たちはテーブルに案内された。各々好きなように蕎麦を頼み、ようやく昼食の時間だ。
つつがなく昼食を終えた僕たちは、近くの小さな商店街の土産物でも見て腹ごなしをすることにした。
「温泉まんじゅう探さねえと」
由布院がそう言って、妙に張り切っている。さっき昼食を食べたばかりなのに、よくそんなことが言えるものだ。彼が無類の温泉まんじゅう好きであることは知っていたが、ここまで執着しているとは思わなかった。
そうしているうちに、由布院はすぐに温泉まんじゅうを見つけてしまった。そちらのほうに早足で向かう由布院を、あっちゃんが追いかける。
「あんまり食べると、夕食入らなくなっちゃうよ」
「はいはい」
まるで小学生と母親のようなやりとりに、僕はさっきあっちゃんが言っていたこと――由布院があっちゃんと離れても大丈夫、という発言だ――は、やはり信じられないな、とこっこりと思ったのだった。
「錦史郎、疲れてない?」
さすがに早足になってまでふたりを追いかける気にならないでいると、有馬に声をかけられる。
「こんなに長く電車に乗るの、初めてだったでしょ」
「……そうかもしれない。君こそ」
「僕はそこまででもないよ」
有馬はふふ、と笑う。有馬は小学生の頃眉難に住んでいて、十年を経てから戻ってきた。その間もあちこちを転々としていたらしいので、電車くらいは乗ったことがあるのかもしれなかった。
「それで、疲れてはない?」
「いや、平気だ。」
これは強がりというわけではなく、事実だ。温泉まんじゅうに小走りになりたくはなかっただけで。
「錦史郎はやっぱり、満員電車に乗らなくて済むところに住むの?」
「そのつもりだ」
既に物件は決めてある。大学まで徒歩圏内で、オートロック完備のマンション、高層階に住むつもりだ。
「金持ちは違うねえ」
話を聞いていたらしい由布院が振り返った。なんと、既に片手に温泉まんじゅうを持っている。うるさい、とだけ答えておく。
「炭酸せんべいないかな」
有馬がほんの少しだけ声を弾ませた。それが有馬の大好物であることは、知っている。
「あれは有馬温泉の名物だろう」
「いや、最近はけっこう他の町でも見かけるよ」
有馬は少しわくわくしているように見える。温泉地とはいえ眉難では手に入らないものだからだろう。それにしても、炭酸せんべいか。一度有馬からもらったことがあるが、そう美味しいものだとは思えなかった。よく言っても、素朴な味、といったところか。どうして有馬がこのような菓子を好むのか、僕はまだ知らない。
有馬は土産物店の菓子コーナーへ入っていく。店頭では、あっちゃんと由布院が、それぞれ買ったらしいコロッケと温泉まんじゅうを一口ずつ交換している。食べ合わせ的にどうなんだ、という気がしないでもない。さっきの電車内でもそうだったが、あのふたりはやはり距離が近すぎる。それともあれが、普通の、こいびと、同士の距離感なんだろうか。
ざっと菓子コーナーを見て回ったらしい有馬は結局炭酸せんべいを見つけられなかったらしい。結局工芸品のペン立てを眺めているのを横目で見て、僕はため息をつく。
ひとくち、くれないか。例えば有馬が温泉まんじゅうを食べているとき、僕が有馬にそう言えば、有馬はなにも言わずにいつものように微笑んで、手に持っているものをこちらに差し出してくれるだろう。だけど僕はそれを言うことが恥ずかしいと思っているし、有馬は自分から「ひとくちあげようか」なんて言わない。
「ちょっとこれ、かわいいよね」
そんなことを想像していると、有馬はマスコットのキーホルダーを取り上げて、こちらに向けて軽く振った。「そうだな」と答える。縞模様の猫が、額の上に手ぬぐいを載せている。あれは温泉をイメージした、この辺りのご当地キャラクターというやつだ。
「買うのか?」
「いや、そこまでではないけど」
苦笑して、有馬はそれを戻してしまう。なぜか残念な気持ちになった。すると有馬はもう一度それを手にした。
「じゃあ、錦史郎、買う?」
「…………いや」
使いどころがわからない、だからいらない。頭の中で理由を作ってみる。そうだ、いらない、こんなキーホルダーなんか。有馬はおとなしくキーホルダーを戻した。
「あ、鬼怒川コロッケ食べてる」
そして有馬はあっちゃんのほうに歩いていった。どうやら自分もコロッケを食べたくなってしまったらしい。本当に僕以外のメンバーはよく食べる。これでは僕がおかしいみたいだ。
僕は腹のあたりをそっと撫でた。これからの夕食のことを考えると、やはり間食はすべきでないだろう。だから僕は有馬と買い食いの交換ひとつ、できやしない。
射的で遊んだり、温泉水を飲んでみたり、足湯に入ってみたりして、一通り時間を潰した後、ホテルに戻る。案内された部屋はよくある和室だったが、畳がずいぶんと日に焼けていて、少し古そうな印象を抱いた。
荷物を置いて、有馬がごく自然に部屋に備え付けの急須で茶を淹れる。あまりいい茶葉ではなかったが、仕方がなかった。そうして人心地ついたところで、さっそく大浴場に行きたい、と由布院が言い始めた。温泉街育ちゆえに全員が全員風呂が好きなので、それは反対されることもなかった(僕だってもちろん反対していない)。それにしても、由布院は風呂とまんじゅうについては情熱的だ。
さっそく浴衣に着替えて羽織に袖を通し、各々タオルを抱えて部屋を出た。
「夕食までだから、あまり長くつかれないね」
「もっかいメシのあと行けばいいじゃん」
「まあね」
有馬と由布院が前を歩く。ふたりは一緒に受験勉強をして、僕たちが知らないところで戦友のようになっていたらしい。有馬の表情は、僕といるときより年相応に見えた。
脱衣所で浴衣を脱ぎ、タオルを片手にいつものように浴場に向かう。早い時間帯のせいだろう、浴場はいつものように貸切状態だった。――いつものように、か。黒玉湯とは確かに造りが違うのに、まるで何度も来たことがある場所のように思えてしまう。旅行中のはずなのに、日常の延長のような錯覚を覚えてしまう。明日も明後日も、来週も来月も来年も、こうして温泉に浸かっているのではないか。いや、そうではないことはわかっているのに。
髪とからだを洗って、湯船に浸かる。旅行はいつも、部屋に露天風呂がついている宿ばかり選んでいた。
「はあ、やっぱ落ち着くな」
「でも、黒玉湯とは少し泉質が違う気がするね」
「ここのは塩化物泉、って書いてあったかな。海の近くだからね」
「じゃあ舐めたらしょっぱいのか」
「舐めるなよ、煙ちゃん」
「いやさすがに舐めねえよ」
あっちゃんと由布院のやりとりを聞きながら、有馬が長く息を吐き出すのを見る。すると目があって、微笑まれた。
「塩化物泉は、湯冷めしにくいらしいよ」
「塩分が入っているからか」
「そうじゃない?」
化学は専門分野ではないが、そういうことだろう。
「ご飯も楽しみだねえ」
「君も買い食いしていたが、入るのか?」
「ええ、あんなのおやつだろ」
僕たちの食欲の大きさが違うことは薄々感じていたが、こうして一日一緒にいるとまた実感として強くなっていくのがわかる。有馬や由布院くらいたくさん食べれば、僕もあれくらい背が伸びたのだろうか。いや、僕は今の身長に満足しているが。
露天風呂まで入っていたら、夕食の時間すれすれになってしまっていた。慌てて風呂から上がり、からだを拭く。浴衣を着て脱衣所から廊下に出たところに、小さな業務用冷蔵庫が置いてあった。
「アイスだって」
「夕食前じゃなければ嬉しいサービスだったな」
あっちゃんと由布院がそんなことを言っているそばから、有馬が手を伸ばしアイスを一本手にとった。白い小さな棒アイスだ。袋をあけて、そのまま咥える。
「おいしい」
「……これから夕飯だぞ」
有馬は口に入れてから、どうやら僕たち三人はアイスを食べる気がないことに気がついたらしい。
「ええ、食べてるの俺だけ?」
「さすがに夕飯直前に食べる気はでないわ」
由布院に言われて、有馬は「こんなに小さいんだから大丈夫だよ」と少し拗ねたような口ぶりで言った。
「何味だ?」
「ミルクだよ」
聞くと、ほとんど予想通りの答えが帰ってくる。
「おいしいよ」
有馬は言い訳をするようにそう言った。僕はそのときふと、唐突に、昼間のことを思い出す。温泉まんじゅうとコロッケ交換していたあっちゃんと由布院。そのとき僕が考えてしまったこと。ひとくち、くれないか。どうしたら気楽にそんなことばが言えるようになるのだろう。
「……きんしろう」
有馬が口からアイスを出す。唇が少し濡れているのが、こちらからでもわかる。
「ひ、とくち、食べる?」
まるで僕の心を読んだかのように、有馬は言った。長さ半分ほどになった有馬のアイスが、こちらを向いている。おいしそうだからとか、空腹だからとかではなく、有馬とのコミュニケーションのために、僕はそれがひとくち食べてみたかった。そんなことを有馬に言えるはずもなく、だから返事すらしそこねて、僕はアイスの棒を持っている有馬の手を掴んだ。有馬が驚いたような顔をしていることは視界の端で捉えていたものの、もう止められなかった。そのまま有馬の手ごと引き寄せて、アイスをひとくち食べる。さっぱりしたミルク味で、なるほど風呂上がりに食べるのに悪くない。
「ら、しくないね……」
有馬に言われて我に返り、思わず有馬の手を離す。随分と行儀の悪いやり方をしてしまった。風呂上がりでただでさえ熱かった顔がますます熱くなった気がする。
「別に……」
うまい言い訳のひとつすら思いつけずにいると、前方であっちゃんと由布院が振り返ってこちらを見ていた。ふたりしてやけに微笑ましげな顔をしているのがますます恥ずかしい。
「夕食に遅れる! 行くぞ!」
言って先頭に立って歩き始めると、後ろで三人がくすくすと笑う。いつか僕だって有馬や由布院をからかう立場になってやりたいと思っている。まったく無為な目標だろう。
夕食は広い食堂で食べることになっている。旅館ならば部屋で食べることが常だったが、従業員の手間を考えればこちらのほうがコストが低いことは理解できる。幸い今日は平日ゆえか、客も少なかった。昼にそば屋で会った老夫婦も同じ食堂にいたのには驚いてしまったが、果たして料理はどうなのだろう。
最初に出てきた先付けのごま豆腐に始まり、刺身にせよ吸物にせよ、確かにどれもこの宿の宿泊代金からしてみれば十分な味付けだった。間食をしていた有馬たちも、すいすいと食べていく。最後に出てきたフルーツの入った寒天は、目にも美しかった。
「は~、明日もこれ食えるのか。最高だな」
由布院などはすっかり顔を緩ませている。
「一旦部屋戻って、落ち着いたらもう一回温泉行こっか」
あっちゃんが立ち上がって、皆が同意する。
部屋に戻ると、既に四人分の布団が並べて敷いてあった。部屋食では食べ終わったあとに敷きに来るけれど、そうでない場合はこのタイミングになるのか。僕は新鮮な気持ちになった。
「どこで寝るか決めないとな」
「そうだね、ジャンケンでもする?」
有馬の提案に頷いてジャンケンをする。あいこには一回しかならず、決着はすぐに着いた。勝ったのは有馬、あっちゃん、僕、由布院の順番だった。
「別に俺はどこでも眠れるからいいけど」
由布院が負け惜しみのようなことを言う。有馬はしばらく悩んだ後、いちばん奥の端の布団を選んだ。あっちゃんはそこからひとつ離れたところ、手前から二番目の布団を選ぶ。
そうすると、僕が選べるのは有馬とあっちゃんの間か、あっちゃんと壁の間だ。いちばん端のほうが眠りやすそうな気もするけれど、本当にそれでいいのだろうか。
僕が逡巡していると、由布院が「早くしろよ」とあくびをしながら急かしてくる。食べてすぐ眠くなるのか。
「……僕はここにする」
結局、選んだのは有馬とあっちゃんの間だった。必然的に、由布院はいちばん手前の端の布団になる。
「錦史郎、端のほうがいいんじゃないの?」
「いや……」
「草津は有馬の隣で寝たいんだろ、察しろよ」
「うるさい」
由布院が余計なことを言ってくる。いや、余計なことではないのかもしれない。僕が言えないことを由布院がわざと、からかうように言うものだから、なんとなく意思疎通のようなものが取れてしまうことが、ときどきある。
「別に錦史郎はそんなつもりじゃないでしょ」
「……そういうつもりだ」
「ところで、錦ちゃんってするときも有馬のことは有馬って呼ぶの?」
最初、あっちゃんがなにを言っているのか理解し損ねて、僕は瞬きを数回してしまった。それからやっと、あっちゃんが唐突に夜の話を振ってきたことを理解する。
「べ、別に、そうだが、」
あっちゃんがこういう話を振ってくるのは特別始めてではない。最近ではふたりきりになる教習所なんかで、他にひとがいないタイミングで「最近煙ちゃんとしてなくてちょっと辛いんだよね」みたいなちょっとした愚痴を言ってくることはあった。けど。
「お前なに言ってんだよ」
「いや、昔は錦ちゃんも有馬のこといぶちゃんって呼んでたのになって思ってさ」
「マジで? かわいいじゃん」
確かにそうだ。確かにそうだが、恥ずかしいにもほどがある。
「あのねふたりとも、錦史郎がそんなことするわけないだろ」
有馬が苦笑しながらかばうように言ってくれる。そうだ有馬、もっと言ってやれ、と思っていると、あっちゃんが首を傾げた。
「でもさ、有馬は錦ちゃんのこと錦史郎って呼んでるんだよね。なのに錦ちゃんから名字で呼ばれるの、寂しくないの?」
寂しく、ないの。僕はその言葉に思わず唇を引き結んだ。
僕と有馬が最初にそういうことをしたとき、僕と有馬はただしく「恋人」という関係ではなかった。生徒会長と副会長、クラスメイト――というよりそれは、主人と従者、が正しい関係だったように思う。その間僕は地球征服という子どもじみた目標のために落ち込んでいる生徒を怪人にするというとんでもない活動に精を出していたのである。この怪人というのが、大した攻撃力もなく、怪人を出現させた端からあっちゃんたち防衛部――バトル・ラヴァーズに倒されるという有様で、今思えば到底地球征服が叶うような状態ではなかった。
有馬だってそんなことはわかっていたからだろう。だけど有馬はせいぜい肩をすくめるだけで、文句もなく僕の後ろに従ってくれた。性欲処理、も含めて。それが有馬の気持ちや尊厳を、いたずらに傷つけていたであろうということに気がついたのは、つい最近だ。
「別に、呼び方なんて大したことじゃないだろ」
有馬が言う。本当にそうなのだろうか。有馬が自分の気持ちを口にしないのはいつものことで、これももしかしたら、本心ではないかもしれない。
「……今度は、燻と呼ぼう」
だから僕はそう決意した。自分で自分に向けて頷く。
「え、錦史郎、なに言って……」
「じゃあ今度俺、煙ちゃんのこと由布院って呼んでみよっかな」
「じゃあ俺は鬼怒川って呼ぶか」
「中学生のころみたいでいいね」
盛り上がっているあっちゃんと由布院はさておき、有馬は唖然としている。いいよそんなこと、と首を横に振られる。
「いぶし」
くすぶる、という字を書く有馬の名前。どういう由来があってそんな名前を付けられたのか、僕は知らない。有馬のことをまだ、なにも知らない。
「いいよ、そんなの……」
有馬がこちらから目を反らす。たっぷりとした髪の下、耳が赤くなっているのを、僕は見た。
はじめて貸し切りでもない電車に乗ってこんなに遠出したので、二回目の温泉に行って帰ってきたときにはもうすっかり眠くなってしまっていた。あくびをしていると、由布院まで隣であくびをしている。
「今日は早めに寝ようか」
あっちゃんが言う。あっちゃんはまだ起きていられるのだろうか。見れば有馬も平気そうな顔をしている。
「今日は朝早かったからな」
「あの時間で朝早いっていうのはこの中じゃたぶん煙ちゃんだけだよ」
「ええ……そんなことないだろ」
こうして四人でいると、人間はそれぞれ別々のリズムと、欲と、スタンスと、こころとからだを持っているのだと実感する。僕は以前それをきちんと理解できていなかった。この地球の全員が、僕と同じように考えるべきだとすら、思っていた。僕の考えが正しいとばかり思っていた。
だけどそれは、根っこからすべて覆されてしまった。とはいえ、実はそんなに傷ついていない。むしろすっきりしたくらいだ。
だから僕は、きっと大学でもうまくやっていけると思う。大学生になったら、有馬ともあっちゃんとも、もちろん由布院とも別になる。それでもきっと、大丈夫だ。そして僕は、ちゃんと有馬とも付き合っていこうと決めている。有馬がどうあろうと、僕は。
