センチメンタル・ジャーニー(同人誌再録)
1
図書室の空気って、なんだか独特だよなあ、と思う。古い紙のにおいのなかで、ほこりがキラキラと舞っていて、なぜかここでの会話は声を潜めてしまう。少し時間が進むのが遅いような気がしてくる。俺は一旦シャープペンシルを置いて、ため息をついた。どうにも苦手な英作文の問題を解いているあいだ、どうやら無意識に呼吸が浅くなっていたらしい。集中力が途切れてしまった俺は、ノートから視線を上げた。
図書室の自習スペースの広い机、俺の向かいの席でノートにペンを走らせているのは有馬燻だ。奴が解いているのは数学Ⅲの問題集だった。有馬の長い前髪のせいで、表情はよく見えない。
「その前髪、邪魔じゃねえの?」
有馬が集中して勉強しているのにも構わず訊いてみると、有馬はノートから顔を上げて、こちらを見た。案の定前髪がいくつもの房となって目にかかって邪魔そうだ。俺みたいに前髪をかき上げちまうか、ヘアピンかなにかで止めちまえばいいのに。もしくは立みたいにカチューシャ……は似合わなさそうだな。有馬は少しだけ目をすがめて前髪を整える。
「そりゃ邪魔だけど、美容室ってあんまり得意じゃないんだよね」
「いや、それは俺も苦手だけどさ」
まさか有馬にそんなこと言われるとはなあ、と思いながら、俺はなんとなく自分の髪も撫で付けてしまう。どうやら俺のせいで有馬まで集中力を失ってしまったらしい。シャープペンを置いて、頬杖をついた有馬は、ふう、と息を吐いた。
「そういえば、錦史郎が卒業旅行に行かないかって」
「なに、俺もそれ誘われてんの?」
草津と有馬ふたりならまだしも、なんで俺に声をかける……って、そんなのわかりきってるんだけどな。
「錦史郎と鬼怒川、いま一緒に教習所に通ってるだろ。そこで話が盛り上がったらしくて」
……なんだかんだで防衛部のメンバーで過ごしてしまった大晦日と正月が過ぎ、ついにセンター試験がすぐそこに迫っている。俺と有馬が受験勉強に励んでいるあいだ、熱史と草津はなんと普通運転免許の取得のために教習所に通っているのである。それというのも、学年ツートップの成績を誇るこのふたりは、学校の指定校推薦というとんでもなく有利な方法で、秋にはとっくに進路を決めていたからだ。文系クラスにいるのになぜか理系の大学を受けようとしている有馬と、テストの点数はともかく内申がボロボロの俺にはできない芸当だった。
「まあ、そうだろうと思ったけど」
「俺たちは勉強で忙しいだろうから、ふたりで幹事するって言ってたよ」
それはたぶん悪い話ではない。放っておけば面倒な手続きや旅程の考案はあのふたりが済ませておいてくれるということだろう。俺たちは受験が終わってから、ゆうゆうと旅行に参加すればいい。
「それで錦史郎が、どこに行きたいか一応希望を教えてほしいって」
「草津に言って、俺の意見なんか反映されんのか?」
「鬼怒川もいるんだから、反映されるんじゃない」
それもそうか。俺は納得して、行きたいところを考える。高一のときのオリエンテーションは地元の山、高二の修学旅行は沖縄だった。防衛部の合宿で行ったのは男乱ビーチと、あとはたぬきの里の横科高原……。どこもそれなりに楽しかった覚えはあるが。
「なんかこう……のんびりできるところがいいよな」
「じゃあ錦史郎にいっておくよ」
そうしておいてくれるとありがたい。しかし、なぜかなんだか嫌な予感がする。いや、後から思えばこのとき、考えてみればわかることに、俺が思い至れていなかっただけなんだけど。
「ニューカレドニアなんかどうだろうと思って」
「ニューカレドニア?」
思わず俺はその知ってはいるが聞きなれない地名を繰り返してしまう。もしかしたら、生まれて初めて発音したかもしれない。ニューカレドニア。
「二十万ほどでいける」
草津は少し得意げな顔をした。いやいや。
センター試験まで残り十日というところで息抜きも兼ねてファミレスに集合をかけられた俺は、ドリンクバーの薄い烏龍茶を飲みながら、目の前に大量に置かれたカラフルな冊子を見ながらため息をつかざるを得なかった。
熱史と草津に旅行先を任せた結果、奴らが旅行代理店から持ってきたのはすべて海外旅行のパンフレットだったのだ。俺の「のんびりできるところがいい」という発言を存分に汲み取ってくれたらしく、リゾート地ばかりだ。青い海と空、白い砂浜、ヤシの木とトロピカルジュース! いや、そういうことだけどそういうことじゃない。全然、そういうことじゃない。
ふだん熱史がこちらにあわせてくれているのですっかり忘れていたが(いや、忘れてはいない、しばしば遊びに行く熱史の家の庭には、なんとプールがあるのだ)、俺を除いた三人は、いわゆるボンボンである。しかも、そこらのボンボンではない。たぶん、こいつらの家は、県下でも最も金を持っているんだろう。調べてないから違うかもしれねえけど。でも、実際段違いの金持ちであることは確かだ。
「あくせく観光地に行くんじゃなくて、煙ちゃんの言うとおり、のんびりするのもいいかと思ってね」
熱史がいつものようににこやかに微笑みながら言った。自分の選択が正しいと信じて疑っていない顔だった。
「それならアジアのリゾートなんかもいいんじゃない? ベトナムなんか、最近流行ってるでしょ。安く済むし、近いし。さすがにニューカレドニアだと、現地にいる時間が短くなっちゃいそうだし」
有馬が気遣いなのかそうでないのか、「ダナン、ニャチャン」となんだか気の抜ける発音のカタカナが並ぶパンフレットを上に出した。どうやらこれがベトナムのリゾート地の名前らしい。はじめて聞いた。俺は試しにそのページをめくってみる。
「これなら一週間くらいのんびりできそうじゃない?」
「…………」
有馬の提案は気遣いでもなんでもなかったことを、俺はすぐに悟らざるを得なかった。どのプランも、十万以上の数字が並んでいる。それにこいつらのことだ、飛行機やホテルのランクも上げかねない。
バイトもしてねえ高校生が、こんな金額ぽんと出せるものか。バイトをしていたとしてもきついだろう。いや、何年かぶんのお年玉をかき集めれば十万くらいは出せるかもしれないけど、それにしたって。
「……お前ら、この旅行の予算いくらなんだよ」
ここまで黙っていたけれど、俺はついにこの質問をせざるを得なかった。三人は顔を見合わせた。それから草津が口を開く。
「二十万ほどのつもりだったが」
俺が頭を抱えてしまったのは言うまでもない。
結局俺は駄々をこね、旅費は五万以内でなければ行けない、旅行の期間だって一週間もいらない(だって大学に受かったら、春休みの間にひとり暮らしの準備だってしなきゃいけないだろうし)、だから国内の、できれば温泉地にしろ、と要求した。
もっとも、熱史はすぐに「煙ちゃんはそうだよね」などとさらっと納得してくれたし、有馬も「ホテルのランクがだいぶ落ちそうだね」と肩をすくめるだけだった。問題は草津だ。
草津は「これだから庶民は」だの「貸し切りでない電車で旅行などしたことがない」だの「そんな金額で旅行ができるか」だの、結構文句を言った。
「じゃあ置いてってくれりゃいいよ」
俺がそう言うと、草津は口をつぐんだ。罪悪感や、熱史の視線などを鑑みて、ため息をつく。「仕方がない」と尊大に言おうとして失敗したような声を出して有馬に笑われた草津は、少しだけ頬を赤くした。
そういうわけで、新たな旅行先の制定についてはふたたび熱史と草津に任せ、俺と有馬は受験勉強に励むことにした。なんせセンター試験まで、あと十日しかない。
いくつかの私立大学の試験を終え、結果も出始めた頃、勉強の息抜き中に、ちょうどいいタイミングで熱史から連絡があった。学校は三学期から自由登校になっていて、自分の家で勉強するのが苦手な俺は頻繁に学校に自習に行っていたけど、熱史はその必要がない。たまに熱史が学校に来たら、一緒に防衛部の部室に行って、黒玉湯に行ったりもしたけどな。
「調子はどう、煙ちゃん」
電話の向こうの熱史は、いつもどおりの声で言った。
「ぼちぼち。まあ滑り止めには受かったよ」
「そっか、おめでと。それで煙ちゃん、明日は学校行く?」
「明日? まあ行こうかな。なに、お前も学校くんの」
「バレンタインだし」
バレンタイン。言われてみれば明日は二月十四日だった。受験に手一杯で、そんなことすっかり忘れていた。
「俺、チョコ作ったから、渡したいし」
言われて、俺はなかなかに熱史を放置していたことを自覚する。……こいびととして、だ。まあ、熱史だってさすがに、受験じゃ仕方ないって許してくれてる、と、思うけど。
「じゃー行くか。部室も行くだろ?」
「うん、そしたら放課後だよね」
「俺はもうちょっと前から図書室で勉強してるわ」
「了解。ついたら連絡する」
「おう」
俺は自分の性格を考えて、絶対に浪人はしないと決めていた。一年も受験勉強を余計にやるなんて、俺には無理だ。だから勝負は今年だけ。いまだけ、だと思えば、少しはまあ、頑張れる。
「煙ちゃん、本命はもう少し先だもんね」
「……おう」
ほんの少しだけ、熱史の声が硬い気がする。だけどそれは次には解消されていた。
「煙ちゃんでも勉強頑張れるんだから、受験ってすごいよね」
熱史はそんなことを言って笑う。俺はそうね、とだけ返した。馬鹿にしてんのか。馬鹿にしてんだろう。まあいいんだけど。
「受かりそう?」
「さあね」
「がんばってね」
「……わかってるよ」
別に偏差値がまったく足りてないってわけじゃないにせよ、最後の模試の判定はBだった。予断を許さない状態であるのは確かだ。
「そうそう、あれから決めたんだよ。卒業旅行の行き先」
気がつくと、話題を変えられていた。バレンタインに続き、すっかり頭のなかから抜け落ちていたそれに、俺は思わず瞬きをした。
「どこにしたの」
俺が尋ねると、熱史はひとつの温泉地の名前を出した。もちろん国内。日本海に面していて、確か米どころのそば。近くに有名な神社があったはずだ。ニューカレドニアに比べれば、ごくごく妥当な旅行先だった。
「いいんじゃない。わざわざありがとな」
俺だって、俺ひとりのために大きく行き先を変えさせてしまったことに、罪悪感がないではない。いくらあいつらが常識外の旅行を企画していたとはいえ。熱史はほっとしたような声を出して、「よかった」と言った。
「あとでツアーの詳細のURL送っておくね。予算は少しだけオーバーしちゃったけど」
「や、うん、まあ、平気」
俺はごくごく普通の家庭育ちだ(とはいえ息子を私立高校に入れられる程度には金には困ってない、けど)。なのにどうして、こうして卒業旅行するくらいに仲良くなった相手は皆ドがつくくらいの金持ちなのか。不思議なもんだ。
「じゃあ、また明日ね」
「おー」
そうして俺は、終話ボタンを押した。
怪し気なチョコを食べた有基に防衛部一同モフモフされ、おまけにVEPPerと闘うはめになってしまったバレンタインも終わり、熱史からもらった手作りチョコも全部食べ終わったころ、メッセンジャーアプリに有馬から本命校合格の連絡が来た。勉強を教えあった身としては、よかったな、と思う。これで、熱史も草津も有馬も、四月からは東京暮らしだ。
「由布院もそろそろ本番近いよね。由布院なら受かるよ、がんばって」
本気で思っているのかいないのか、そんなメッセージが送られてくる。そういえば熱史は、俺が第一志望の大学を伝えたときからずっと、「煙ちゃんなら絶対受かるよ」とは言ってくれなかった。……俺もその理由くらいはわかっている。
これでまだ進路が確定していないのは俺だけか。いちばん面倒くさがりの俺が最後までダラダラ勉強しなきゃいけないはめになってるんだから、人生いろいろだな。
「草津には言ったの?」
「うん」
「それで草津にはお祝いしてもらった?」
「まあ」
まあ、ねえ。
たったの二文字を見て、俺は頭のなかで呟く。
有馬と草津は付き合っている。俺が熱史と付き合っているのと同じように。とはいえ、俺と熱史が受験のせいでいろいろと疎かになっていたように、あのふたりだっていろいろ疎かになっていたはずだ。たぶん。いや、あんまり性欲強くなさそうなやつらだから、そこまで切羽つまってないかもしれないけど。
「なにしてもらったの」
それで俺は、からかうためにそう打ち込んだ。しばらく有馬からの返事がないので、机のうえに置きっぱなしにしていた物理の参考書をめくる。こんなことをしたところで頭のなかに新しいものが入ってくるわけもないけど、なにか活字を見ていたほうが落ち着く。こういうのを職業病っていうんだろうか。いや、受験生って別に職業でもなんでもないけど。
そうして俺が無為な時間を数分過ごしていたところで、不意に返事が来た。
「別に」
「草津も薄情だな」
「一緒にお茶しに行ったよ」
「それだけ?」
「それだけ!」
からかいがいがあるといえば草津なんだけど、有馬とのこういうやりとりも正直なかなかに楽しい。
「男子高校生どうし付き合っといて、そんな感じでいいの?」
「そうだよ」
ええ、俺だったら……っていうか、俺と熱史だったら、お互い受験が終わったら、そりゃあやることやりまくるけどなあ、と考えてしまう。これは性欲が強い熱史に毒されちまってるんだろうか。そうだとしたら、少し恥ずかしいかもしれない。
「由布院こそ、やらしいことばっかり考えてないで、勉強したら?」
有馬の反撃に、俺は「うるせえ」と声に出して反論する。なんて書き込んでやろうか考えていると、有馬のほうが続けてまたメッセージを寄越してきた。
「由布院は本命いつだっけ、二十七、とかだっけ」
「そう」
「発表は?」
「六日」
「旅行、無事に行けるといいね」
「ああ」
旅行。卒業旅行。ちゃんと行けるんだろうか。いや、落ちたとしても、俺も一応高校は卒業できるわけだし、行ける大学もあるし、卒業旅行に行けなくなるわけではない。だけど、やっぱり、気持ちよく行くためには合格、しておくのがいいだろう。
「あとひと踏ん張りだよ」
「そうね」
俺はため息をついた。それからスマートフォンの電源を落とす。有馬からしてみれば突然俺からの返事がなくなってしまったようなもんだけど、まあ、許してくれるだろう。
大学に張り出される合格発表を見に行かないと言ったら親には情緒がないと言われたけれど、いまどきホームページで合格発表されるんだからしょうがない。交通費も時間も労力ももったいない、と肩をすくめると、親はもうなにも言わなかった。
そういうわけで俺はいま、パソコンの前に座っている。親は仕事に出ていってしまって、家には俺しかいない。いつも以上に静かに感じて、自分が思いの外緊張していることを自覚してしまう。あと三秒。二秒。一秒。パソコンの右下の時計が正午になった瞬間、俺はF5ボタンを押してブラウザの更新をかけた。ところがまあ、ちょっとは予想していたけど、繋がらないったらない。俺と同じような受験生がホームページに殺到することは容易に想像がつく。くるくる回るアイコンを見ながら、何度もページに更新をかける。俺らしくもなく、少し焦っていた。
そうして、ようやくきちんとページが見られたのは、正午から十分を過ぎたころだった。白い画面に無機質にずらりとならぶ数字。受験番号の千の位が同じ番号を見つけて、そこから順番に画面を指でなぞる。心臓が、どきどきいっている気がする。ああ、…………、ああ。
「受かった」
番号を見つけた瞬間、思わず声に出してしまっていた。
「……受かった」
思わずくるりと横を見てしまったけれど、別に隣に誰かがいるわけじゃない。俺はやはり家でひとりだった。でも、受かった。思った以上に、浮ついているのがわかる。受かった。誰かに言い触らしたい、という気持ちが湧き上がってくる。
親、先生、それを伝えるべき相手よりも伝えたい相手がいる。
「うかった」
変換もまだるっこしくて、俺は、スマートフォンにそう打ち込んで、ひらがなのまま熱史にそれを送信する。寝る間も惜しんで、というにはよく寝た気もするけれど、俺なりにたくさん勉強はしたつもりだった。だから、やっぱり、嬉しい。
受かった。よかった。これで来年からの俺の居場所は確定した。
そしてこれはつまり、熱史と離れることを意味していた。
だから熱史は俺に「煙ちゃんなら絶対受かるよ」なんて言わなかった。第一志望に受からなかったら、俺は熱史と同じできっと、都内の私大に行っていただろう。俺が第一志望がこの国立大学だと告げた直後、少し複雑そうな顔をしていたこと、俺は見逃さなかった。
だからきっと、あの旅行がまともに熱史と過ごす最後になるんだろう。それを俺はわかっていた。わかっているけど、落ちるわけにはいかなかった。
熱史からの返事がすぐに来なかったので、親にも「受かった」と送っておく。合格者には書類が届くはずなので、届いたら学校にも報告しないといけない。
熱史からの返事が来ないので、俺は防衛部のトークルームに「受かった」と書いた。すると誰より真っ先に返事を寄越してきたのは立だった。
「マジですか! 今日黒玉湯行きましょう!」
元気がいい。ていうか今授業中じゃないのか……と思って時計を見たら、正午から十五分過ぎたところだった。昼休み中か。
「おめでとうございます。まさか由布院先輩が第一志望に受かるとは。さすがですね」
ちょっと馬鹿にしているようなメッセージを送ってきたのは硫黄だ。まあ、尊敬されるような先輩をやっていないので、こんなもんだろう。
「すげーっす! 煙ちゃん先輩の合格証書家宝にするっす」
そういえばこいつ、俺のテストも家宝にするって言ってたな。さすがに合格証書を渡す気はないけれど。
「煙ちゃん先輩、黒玉湯行くっすか? 部室でパーティっすね!」
「いやパーティはいいけど」
黒玉湯には行きたい。じゃあ、放課後に黒玉湯で落ち合おう。そんなやりとりをしながら、俺は自分の部屋がある二階に上がる。
黒玉湯に行くなら一応着替えないといけないな、と思いながらスマホを部屋の布団の上に放ろうとしたところで、ぶるっと震えた。慌てて画面を見ると熱史からだ。
「煙ちゃん、おめでとう。頑張ったね」
書いてあった文字にふっと息を吐き出してしまう。
そうだよ、俺にしては頑張ったと思うよ。行きたい大学のためにそれなりに真剣に勉強したよ。俺が勉強を頑張ろうとするたび、ちょっとだけせつなそうな顔をしていたことだってわかってたよ。
「俺も黒玉湯、行こうかな」
防衛部のトークルームでは、後輩たちが熱史も歓迎するような言葉を書き込んでいる。そしてそれとは別に、熱史との個人トークルームにメッセージが送られてくる。
「黒玉湯行く前に、俺の家来ない?」
いくよ、と答える。熱史の家に行くのはいつぶりだろう。随分と久しぶりのような気がした。
鬼怒川家に行くと、すぐに熱史が出てきてくれた。もしかしたら、熱史の家に来るのもこれが最後になるのかもしれない。ならないのかもしれない。ただ、一生のうちの鬼怒川家訪問回数はもう、この高校三年間がピークで、あとは落ちていくだけになることは確実だった。
「合格おめでとう」
「おう」
相変わらず両親はいないらしい。まあ、俺の家にも今日は両親ともにいなかったから、俺の家に呼んでもよかったのかもしれないけど。
熱史の家の外観は金持ちの家そのものといった感じで、来るたびに少しだけ気後れしてしまう。熱史の母親がいるとなおさらだった。たぶん熱史は気がついてないと思うけど。
熱史の部屋に上がって、いつものようにベッドの上に腰掛ける。熱史は勉強机の前の椅子に座った。
「本当にあの大学に行くの?」
「行くよ」
「煙ちゃんが東京の大学に行かないの、意外だった」
ああ見えて眉難高校はこの辺りでは偏差値が高い高校だ。多くが東京の有名な大学に進学する。熱史もだが、草津も有馬もこのパターンだ。なのにわざわざどうして、と言われたら単純だった。
「そう? わざわざ満員電車乗って通学するのも面倒くさいし、人混み大変そうだし、こっちの大学のほうが性にあってるなって思ったんだよ」
「うーん……、そう言われると煙ちゃんらしい」
「だろ」
どういうわけか俺たちは、あまり進路の話をまともにしてこなかった。中学のころから何年も、こんなにずっと一緒にいたのに、だ。いや、だからこそ、ずっと一緒にいるもんだって、思ってたのかもしれないけど。
「向こうで大学から五分のとこにアパート借りようと思ってさ。家賃も東京ほど高くないだろうし」
「…………」
熱史がうつむいて、ため息をつく、そして、「本当に行くんだね」と言った。
「遠距離ってやつだな」
「遠距離ってやつだね……」
熱史はあからさまに淋しそうだし、残念がっている。社会人の遠距離ならいざ知らず、大学生の遠距離なんて、会うのにも一苦労だろう。時間はあるだろうから、主に金銭的な意味で。
「……いや」
俺はゆっくりと首を横に振った。
「東京まで夜行バスだといくらかかるんだろうな」
つぶやくと、熱史はすぐに手元にあったスマートフォンを手にとった。なにかを打ち込んで、それからすぐにはしゃいだような声を出す。
「往復五千円くらいでも、行けるって」
熱史の声が明るくなるのもわかる。想像よりずっと安い。バイトすれば、ときどき、これくらいならギリギリだせるだろう。
「煙ちゃん、俺もそっち、行くようにするから」
「うん」
熱史がスマートフォンを机の上に置いて、椅子から立ち上がる。今まで、毎日、朝から晩まで一緒にいたこいつと離れるのは、本当は俺だって嫌だ。第一志望の大学を決めたときから、いちばんのネックは熱史と離れてしまうことだった。だけど、だからこそ、なりふり構わず勉強した。熱史と別れたかったわけじゃないけど、離れたかったのかもしれない。
熱史がこちらに近づいてくる。ベッドに座っている俺の正面に立って、こちらを見下ろす。熱史がなにをしようとしているのか、手に取るようにわかる。
「合格おめでとう」
「ん」
俺は熱史を真っ直ぐに見上げた。けっこう長い間、我慢させちまった、という小さな罪悪感がないわけではない。だから熱史が言わせたいと思ってること、ちゃんと言おうと思った。
「お祝い、くれるんだろ」
熱史が頷く。眼鏡の向こうの目がギラギラ光っていて、そして俺はやっぱり、この目が好きだと思った。
どうやら随分と強羅さんに執着していたらしいVEPPerがついに強羅さんを攫って、だけどなんやかんやで和解してからすぐに卒業式があって、ウォンバットが旅立っていった。第一志望に合格して以降、なかなかのハイペースでページが進められていくような感じがする。向こうで住む部屋も決めた。面倒で仕方がないけど、一応引っ越しの準備も始めている。
だけど、明日からはそれも一旦休憩だ。熱史と草津がメインで企画してくれた卒業旅行が明日からだからだ。旅行の支度といっても着替えをバッグに入れて終了だし、観光プランもあいつらに任せっきりにしてしまっているから、俺はあと、待ち合わせ場所に時間を守って向かえばいい。電車の時間のわりに早い時刻を待ち合わせ時刻にされてるのは、俺の遅刻癖を鑑みてのことだと思うと、間に合ってやらないといけない気分になる。
熱史も草津も有馬も、今頃旅行の準備をしているんだろうか。思えば、熱史はともかく草津と有馬と旅行するのははじめてだ。いや、なんなら一緒にどこかに遊びに行ったこともない。だけど、ちゃんとやれるだろうか、という心配はあまりなかった。
温泉にはいって、のんびりうまいものを食って、来月からの新生活に備えられればいい。きっと楽しい旅行になるだろう。
俺はバッグのファスナーを締めた。スマホにセットした目覚ましの時間を、もう三十分早くしておく。
熱史と離れても俺は大丈夫だって、最後にちゃんと伝えておかないと、いけない。
1/4ページ