質量変化の法則
屋上に残されたのは二人。
その一方が、自分の虚偽を申告した。
あの言葉は事件のためのカモフラージュだったのだ、と…。
「それじゃあ…、全部……お芝居?全部…………うそ、なの?」
「ああ。すまない。犯人がどんな手段に出るか分からなかったんだ。だが、お前の様子が常に監視されていることは確かだった。そんな状態ではお前自身にも内密に調べたほうがいいと考えた」
マリコはただじっと土門の表情をうかがっている。
「榊?聞いてるのか?」
「聞いてるわ。土門さんの話は分かった。もし逆の立場だったら、私もきっと同じことをしたと思うわ」
「そうか」
土門は何故かほっと安堵の息を吐いた。
「でも……」
マリコは右手を伸ばす。
――――― パンッ!
乾いた小さな音が響いた。
弱々しい平手では、土門の頬は痛みなど感じない。
けれど。
マリコの顔を見た土門は、その胸の痛みを堪えるために思わず目を閉じた。
マリコは、泣いていた。
声も上げず、ただ大粒の涙がとめどなくその頬を流れていく。
土門は心臓をえぐられるような痛みと、喘ぐような息苦しさに、その場に立っていることがやっとだった。
「…………………………榊」
ようやく絞り出した声はひどく掠れていた。
「頭では、分かる…わ。でも、心では……分から、ない。分かりたく……ないわ」
マリコは涙混じりの声で、途切れ途切れに語る。
そして、叩いた土門の頬に今度はそっと触れた。
「だって……本当は嫌だったの。土門さんと別れるなんて……嫌だったの、嫌だったの………」
嫌だったの、と何度も呟くマリコを土門は抱きしめる。
その体は小刻みに震えていた。
「榊、榊、……榊、…………榊」
溶け合ってしまいたい…と、土門は何度も何度もマリコの名を呼び、体をかき抱く。
「土門さん。もっと強く……」
マリコも土門の温もりを求めていた。
他には何もいらない。
ただこの腕と、温もりさえあれば……。
マリコは頬に土門の大きな手が触れたことに気づいた。
土門のシャツをしっかりと掴み、少しだけ踵を上げる。
一瞬、土門の顔を視界に捉え、マリコは濡れた睫毛をふせた。
触れる熱は熱いのに優しい。
そして、少しだけ…苦い。
そうマリコは感じた。
それは自分の涙と、そして土門の後悔というスパイスのせいだろう。
「土門さん」
「何だ?」
「土門さんの家の鍵、返してほしいの」
土門は無言でジャケットの胸ポケットに手を入れると、その手のひらには見慣れた鍵が乗っていた。
「いつでも返せるように、持ち歩いていた」
「……奇遇ね」
マリコもパンツのポケットから取り出したものを土門に見せる。
互いに、互いの手のひらに乗せる。
「不思議……」
「ん?」
「土門さんに鍵を返してもらってからはすごく重く感じていたのに、今はそうでもないわ」
「確かに。お前のも、俺のも、たいして大きさの変わらない鍵なのにな……」
土門は苦笑する。
だが、それが何よりマリコらしいと。
自分はそんなマリコごと守ることができたのだと、改めて安堵した。
『うしなう』……その言葉の持つ意味の重さを、土門は誰よりも知っている。
『失う』だけではない。
『喪う』ことさえあったかもしれないのだ。
長い迷路に迷いこんでいたこの数日間を思うと、今この瞬間は何ものにも代え難い。
「もしかすると、俺たちの心のせいかもしれないな……」
「え?」
「俺も今はこの鍵を重くは感じない。それはきっと心が軽くなったからだろう」
マリコは一瞬目を見張る。
そして、鍵を握り締めた。
その鍵の存在はマリコを優しく包み込む。
「そう。……きっと、そうね」
頷くと、マリコは土門の袖口をぎゅっと掴んだ。
「もう、この鍵を重くしないで……」
願いと共に、マリコは土門へ触れるだけの口づけを贈った。
今の土門の手は、何の重みも感じない。
手の中の鍵はそれほど軽やかで、そして銀色に光っていた。
fin.
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