「いやよ」





「おい!」
「………」

「おい!!」
「…………」

「おいって!!!」

ぐいっと後ろから肩を引かれて、マリコは驚いて振り返った。

「え?土門さん??」

「さっきから呼んでいたのに気づかなかったのか?」
「だって……」
「ん?」

「すごい声よ?…別人みたい」
「ああ…。風邪引いたようだ。今朝から喉が痛くてな……声も出しづらい」

「もしかして食欲もないの?」

今はちょうど昼休みだ。
この時間、いつもなら土門は蒲原たちと食堂にいるはずだ。

「ん。食べる気にならん……」
「そんなこと言ってると、倒れちゃうわよ!」

「バカいえ!俺はそんなにヤワじゃない。大体、お前…俺にそんなことい言える立場か?いつも飯抜き、睡眠不足で倒れるやつが……」

「悪かったわね!心配したのに……」

つん!とマリコは顔を背ける。

それでもちらりと土門を盗み見れば、眉間のシワはいつもより深く、呼吸も浅い。
本当は相当辛いに違いない。

「ねぇ。今日は帰ったほうがいいわ……」
「…………」

「言うこと聞かないと、藤倉部長に言いつけるわよ!」
「はあ?」

「多分、部長だったら『自分の体調管理も満足にできん奴は必要ない。足手まといだ』とか、言うんじゃないかしら?」

全く似ていないマリコの声真似に、土門は苦笑する。

「そう……だな。帰るか」
「そうして。もし必要なものがあれば連絡して。届けるから」
「ああ。すまんな」
「ううん。土門さん、お大事に」

土門は片手をあげると、車のキーを手に正面玄関へ向かった。




マリコと別れ自宅へ着くやいなや、土門はベッドに倒れこんだ。
そしてそのまま深い眠りに堕ちていったのだった。




自分の唸り声に目覚めた土門は、目の前の光景に目を疑った。

土門は煤けて古ぼけた廃屋の前にいたのだ。
しかも茹だるように暑い……。
さらにサイレンの音も鳴り響く。

ここは、もしかして……。

やがて捜査員たちが入り乱れる扉の向こうから現れたのは、マリコを抱いた自分だ。
意識のないマリコは青白い顔でぐったりとしている。

「あのときは心臓が止まりそうな思いをした。おまけに父親と間違えられたしな……。そういえば、この頃か?」

マリコが自分にとって『大切な女』に昇格したのは。


途端に、眩暈のように視界が暗転した。


今度は浴衣姿のマリコが現れた。
いや、よく見れば随分と若い。
そして隣には見慣れた男が歩いている。

「……俺、か?」

思い出した。
まだ美貴が科捜研にいた頃のことだ。
このあと、大変な事態に見舞われたのだが……。

「あの時…。本当は浴衣、似合っていたのになぁ……」

土門は素直に『似合っている』と答えられなかったことを思い出し、目を細めた。


再び、暗転する。


今度は鮮やかな赤が目に飛び込んできた。
食欲をそそるいい香りも立ち上っている。

「波多野さんの店か?」

ドレスアップしたマリコと、自分が食事をしている。
捜査の一環だというのに、土門の正面では、紅いルージュが楽しそうに笑っていた。

このときも、土門はマリコへ満足な言葉をかけることができずにいた。

「俺って奴は、どれだけ意気地がないんだろうな……」

土門は目を閉じ、首を振った。


次の瞬間、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
土門が驚いて目を開けば、倒れた自分の隣でマリコが慟哭していた。

人づてに話は聞いていたが……。
こんなマリコを見るのは初めてだった。

――――― 大丈夫だ。
――――― 自分は生きている。助かる。

そう伝えてやりたいのに、声が届かない。
抱きしめてやりたいのに、手が届かない。
この想いさえも……。

もどかしさに土門は手を伸ばし、叫んだ。


「榊!」

「えっ?……土門さん?」

手のひらに感じる柔らかさと温もりに、土門は目を開けた。
シャンプーの優しい香りが鼻孔をくすぐる。

「どうしたの、土門さん?」

耳をそよぐのは慣れ親しんだ、何よりも愛しい声。

『これは現実だ』

認識すると、土門はマリコを掴む手に力を籠めた。

「土門さん?」

氷枕を換えようと屈みこんだ瞬間、マリコは捕まったのだ。
目の前の男の腕に。

“逃がさない”というように力強いのに、壊れものを扱うように優しい手。

「寝ぼけているの?」
「いや。いつ来たんだ」

「少し前よ。あ、鍵は管理人さんに開けてもらったの。具合はどお?」
「最悪だ」
「え?」
「最悪だ……った。ほんの数秒前まではな」

「何言ってるの?」

「なぁ。ずっと言えなかったんだが……。若い頃の浴衣も、紅いドレスもよく似合っていた」

「なぁに?突然?」

マリコは大きな目をパチクリと動かしている。

「ははは。熱でおかしくなったのかもな?」
「もう!さあ、枕を換えましょう」

マリコの体が土門から離れていく。
ひとつになっていた心音が別たれる。

土門は遠ざかるマリコの腕を掴み、もう一度引き寄せた。

「……それでもいい。熱のせいで構わない」

「土門さん?」

「夢でもいいから…………」

互いの息が頬に触れそうなほどに近づく。

「……いやよ」

なのに、囁かれたのは拒否の言葉。

「榊…………」


「いやよ。忘れるなんて許さない。だって、これは…………夢じゃないわ」

あの日と同じ紅いルージュ。
それが土門の唇にぴたりと重なった。




「……うつるぞ?」

マリコを抱き締めたまま、土門はぼそりと呟く。

「うつったら看病してくれるんでしょう?」
「看病だけで済む自信がない……」

耳元で聞こえる情けない声色に、マリコはくすくすと笑った。

「今だって、看病されてるだけじゃないわよね?……これ」

マリコは自分の背中を滑り動く、土門のイケナイ手を捕まえる。

「風邪を治すのが先よ!今日は…我慢して……」

『明日なら…?』
そうたずねようとした土門の口は、マリコによって閉ざされたのだった。




fin.



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