その眼差しが…
翼が帰るのと入れ違うように、マリコは屋上に現れた。
「土門さん!いま翼くんが……」
「ああ。話していた」
「あの……。何を聞いたの?」
マリコは不安そうだ。
「ん?見合いしたそうだな?」
「翼くんたら喋っちゃったのね!あのね、土門さん。違うの、誤解なのよ!」
マリコは必死に説明しようとする。
「分かった、分かった。心配するな。そこら辺の事情はあいつが帰りしなに叫んでいた。気にしちゃいないさ」
「ほんとう……?」
「ああ」
「そう!」
マリコはほっと息を吐く。
土門はそんなマリコの顔を見つめる。
「なあ、榊。お前に聞きたいことがある」
「なあに?」
そして、たずねた。
「子ども……欲しいのか?」
「………………」
マリコは答えない。
「どうなんだ?」
「翼くんに聞いたの?」
「ああ」
「翼くんが何て言ったかわからないけど、それだって彼の早とちりよ。たまたま小さな子を見かけて……深い意味はないわ」
マリコは目を閉じて首を振る。
しかし、土門は食い下がった。
「だったら、今、考えてみてくれ」
「え?」
「お前は子どもがほしいか?」
「……土門さん」
「正直に答えてくれ」
「……それは!」
一瞬の逡巡の後に。
「できるなら……」
そう、マリコは答えた。
「……そうか」
「でも、どうしてもって訳じゃないの。私も土門さんも仕事が優先の生活だし。お互いに危険と隣り合わせだもの。子どもの幸せを考えたら……」
「そうだな。子どもができたら最低一年は仕事を休むことになるだろう。お前の苦手な料理も勉強しなくちゃならん」
「そ、そうなのよ!」
マリコは「うん、うん」と形ばかり頷く。
「それでも、いいのか?」
「……土門さん?」
「それでも、産んでくれるのか?」
マリコは瞬きすることも忘れ、その場に立ち尽くした。
「榊?」
「し、仕事なんて、最新の雑誌を読めば自分で勉強できるわ。お料理も…何もしなくても、きっと母さんが押し掛けてきてみっちり教えてくれるわね」
マリコの意思に関係なく、口が勝手に動いていた。
「違う……」マリコはそう思った。
そんなことを言いたいわけじゃない。
伝えたいわけじゃない。
ほんとうに聞きたいのは……。
「土門さんは、子ども……………………………ほしい?」
マリコの瞳に映る土門の姿が揺れる。
それはマリコの視線が揺れ動いているということだ。
『ああ、こんなにも不安にさせていたのか……』
土門は目を細めた。
何よりも大切で、誰よりも守りたいはずだったのに。
あんな若造に指摘されるまで気づかないとは……。
土門は自分で自分を殴り付けてやりたい気分だった。
「……いつでも」
「え?」
「お前との子どもなら、いつでも。何なら今すぐにでもほしいぞ。……いや、今すぐは無理か?」
ふざける土門だったが、マリコはそんな土門の胸元に飛び込んだ。
泣き顔を隠そうと、より土門の胸にしがみつく。
だが「そんな必要はない」、と土門はいつも思う。
確かにマリコにはいつでも笑っていて欲しいと思う。
けれど、泣き顔だって愛おしいのだ。
土門はマリコの顎に手をかけると、くいっと上を向かせた。
そして零れる雫を一つ一つ丁寧に吸いとる。
だがしばらく経っても、それは止まらない。
「目が溶けるぞ?」
「だって……」
マリコは白衣からハンカチを手に取り、涙を拭こうとした。
その手を土門が止める。
「ハンカチなんて使う必要はない。人魚姫の真珠は全部受け止めないとな?」
「なっ!キザっ……!!」
マリコは呆れる。
「おっ!止まったな、涙」
土門は「ははは!」と楽しそうに笑う。
「もう!からかわないで!」
ぷっと膨れるマリコだったが、すぐに真顔に戻った。
土門が…。
土門の自分を見つめる瞳が……。
『なんて……………』
「榊」
名前を呼ばれ、土門の顔が近づいてくる。
『なんて優しい瞳……………』
土門からの口づけを受けとめるために、すぐに目は閉じてしまったけれど……。
マリコはきっと忘れない。
慈しみ、愛おしむ、そのあたたかい眼差しを。
そして、それはいつか、自分と……もう一人に注がれることになるだろう。
そう思うだけで、マリコは嬉しくて、また涙が止まらない。
「泣き虫め」
土門はふっと笑うと、再びその目もとに唇を寄せるのだった。
fin.
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