オパールと暗号
土門はマリコのマンションに到着すると、深夜であることを考慮してインターフォンは鳴らさず、合鍵を使って部屋に入った。
まだ起きてオパールと遊んでいたマリコは、解錠の音に反応して玄関に視線を向けた。
「榊、入るぞ」
「土門さん!?どうして……」
「今、張り込みを交代してな。ちょっと寄ってみた」
「寄ってみた…って。ここは張り込み場所から土門さんのマンションへの帰り道とは逆方向じゃないの……」
「べ、別にいいだろう?細かいことは気にするな。それより、こいつ…オパールか?」
土門は足元にまとわりつく猫を抱き上げ、体を撫でる。
『ニャア!』
「ええ。今夜はオパールに泊まりに来てもらったの!」
「何でだ?」
「え?」
「明日、非番だろう?何でうちへ来ない?」
「そ、それは…。家の掃除とかもあるし……」
「それはいつも俺と二人でやっているだろう?明日に限って一人でやる必要があるのか?」
「うっ…。ない、けど……」
「それに、通勤のこともだ。いつまで意地を張るつもりだ?わざわざ時間の読めない、混雑するバスを使う必要はないだろう?」
「私の勝手でしょう?」
「それはそうだが……。だったら理由を聞かせろ。俺が納得できる理由なら、もう何も言わん」
「それは……言いたくない」
「なら、認められんな」
「もう!」
「もう、じゃない。聞きたいのは理由だ」
癇癪を起こすマリコを、なおも土門は追い詰める。
「だから、それは……」
「それは、何だ?」
「……………」
「榊」
たしなめるように名前を呼ばれて、マリコはぎゅっと拳を握りしめた。
「だって、バスの通り道なんだもの!」
「何がだ?」
「土門さんの張り込み場所よ!」
売り言葉に買い言葉。
言ってしまった後で、マリコは赤面した顔を隠すように、横を向く。
本当はマリコだって、土門と少しでも一緒にいたい。
そしてその思いを分かっている土門は、きっとどんなに遅い時間になっても帰ってくるだろう。
マリコのために。
それは嬉しい。
でも、同時に苦しかった。
マリコが居なければ、その時間、土門は署内で仮眠をとることができる。
何日も続く張り込みは、疲労が溜まる。
マリコはそれをよく分かっていた。
だから、自分のことより土門の体を優先させたのだ。
土門が大切だから、迷惑をかけたり、足手まといになったりしたくない。
…………でも、一目だけでも姿は見たい。
このジレンマを解決できる方法がバス通勤だったというわけだ。
「お前…、そんな中学生みたいな……」
「わ、悪かったわね!」
「勘弁してくれ。どうしたらいいんだ……」
ようやくマリコの意図を理解した土門は、うなだれる。
「何が?」
顔を上げれば、目の前にはきょとんとした表情で首をかしげるマリコ。
「お前………可愛すぎるだろう!」
「なっ!!」
首もとからボボボッと、マリコの顔が染まっていく。
「……おい」
「……………」
マリコはそっぽを向いたまま答えない。
「マスターから伝言だ」
ようやく、目線だけを土門に向ける。
「マスターから?」
「オパールは外に出せば自分で帰れるから、そうしてくれと。あと、渡した荷物は後日返せばいいそうだ」
「でも……」
答えを躊躇うマリコに、土門は最後の一手をさらけ出した。
「明日、非番をもらった」
「え?」
「今夜は……。マスターの言う通りにしないか?」
その言葉に、土門は別の意味も含ませた。
「……………わかったわ」
土門からの表の提案も、裏の願いも、どちらもマリコの答えはイエスだ。
今夜は……。
――――― 今夜は二人になりたい。
それはまるで蜂蜜のように甘く、とろける暗号。
『ニャァ!』
オパールはすでに玄関に座って、ドアを開けろと鳴いている。
「オパール。……ごめんね」
『ニャ、ニャ!』
オパールはマリコの手のひらをペロリと舐め上げると、今度は土門をその七色に煌めく瞳でじっと見つめる。
まるで、『泣かせるなよ!』そう言われているようだ。
マリコがドアをあけると、オパールはひらりとその隙間を抜けていく。
しばらく見送っていると、軽やかにジャンプして暗闇へと紛れていった。
「榊」
呼ばれてマリコは振り返る。
扉がパタンと閉まる直前。
マリコの体は土門の腕の中にあった。
fin.