福音





「えらい本降りになってもうた……」
雨宿りの軒先で、白く煙るほどの大雨にアリスは顔をしかめた。

「なんや……、嫌な雨やなぁ………」

腕時計を見れば、ちょうど18時。

―――――『逢魔が時』

どこかで眠っていた何かが目覚め、ひょっこりと顔を出そうとしているようだった。




雨を避けるようにしたつもりでも、すでに全身ぐっしょりと濡れそぼった姿で、アリスは立ち尽くしていた。
前髪から滴がポタポタとこぼれる。

「このまま入ったら、不味いやろか……」

目の前の扉には『火村准教授』と書かれたプラスチックプレートがスライドケースに差し込まれている。

「水もしたた……りすぎる、作家先生だな?」
アリスの背後から、嫌みなほどバリトンのいい声がかかる。

「ほっとけ!」
「放っておけないだろ。風邪引いたらどうする?」
――――― まあ、それはそれで世話してやるのも楽しいが……。

ボソボソと物騒な独り言を呟く火村に、身の危険を感じたアリスは一歩下がる。
だが、そこで火村に腕を掴まれ、否応なしに部屋へと連れ込まれた。


すぐにバスタオルがふぁさっと頭上から降ってきた。
かと思えば、次の瞬間、わしゃわしゃと無造作に水滴を拭き取られる。

「ちょぉ!やめぇ……」

身を捩ってタオルから抜け出したアリスの髪は…。
ぴょん!とあちこちが跳ね、まとまりもなく、ぐしゃりとしていた。

「可愛いぞ、アリス」
くくっと笑う火村を憎らしげに睨むと、アリスは手櫛で髪を整えた。

「何てことするんや!助手のお嬢さんらに、笑われてまうやろ!!」
「……助手は、今日はもう来ない」
「へっ?」
アリスは思わず間抜けな声を漏らした。

扉に背を向けて立つ火村の背後から、カチャリと乾いた音が響いた。

火村は目を細め、アリスに近づく。

「アリス、本当に風邪をひくぞ……」

火村の手がアリスの細くて長い首に触れた。
白くて華奢なアリス。
このまま少し力を込めれば、簡単に折れてしまいそうだ…。

その思考はアリスの誘惑なのか、火村の渇望なのか……。
長い年月に混じり合い、今では見分けがつかなくなってしまった。


「火村?」
黙ったまま、動きを止めた火村をアリスが気遣う。

「いや……」
火村は返事を濁し、アリスの首を一撫でする。
ピクリと反応を返す体と、上下に動く喉仏に導かれるように、火村はアリスの首に吸い付いた。

すぐに消えるよう、軽く吸い上げ、舌でなぞる。
二つ三つと薄紅色が増えていく。

「ひ、むら。…そんなとこ、つけんな……んっ」

火村にぐいっと体を押されたアリスはバランスを崩し、背後のソファにドスンと尻餅をついた。
すると、すぐさま火村がのしかかる。

「アリス………」
「いやや、火村!」

アリスは足をバタつかせ、逃げ出そうともがく。
しかし火村はびくともしない。

「諦めるんだな…。お前だって満更でもないだろう?」

火村は、アリスの股間に舐めるような視線を向けた。
そしてアリスの両手をひとくくりに掴み、頭上で押さえつける。

アリスは火村を睨みつけた。

「いいな、アリス。その顔、ゾクゾクする……」
「お前、マゾやったん?」
「どっちかといえば、サドだろうな」
火村はニヤリと嗤う。

「お前!?もしかして……!」

その昏い嗤い顔は、アリスがこの世で大嫌いなもののひとつだ。

しかしそんなことには気づかない火村は、アリスの顎を捕らえると噛みつくようにキスを仕掛けた。

「つっ!?」

ピリッとした痛みに火村が驚いて顔を離すと、唇に血が滲んでいた。

「なんや、その顔……………」

俯いたアリスの表情は見えない。
けれど、その声は明らかに怒りを含んでいた。

「アリス?」
「なんなんや、その顔!お前のその顔、大っ嫌いや!!今、何考えとる?俺の目ぇ見て言えるか?あぁ?火村!!」



――――― 火村は、心に『怪物』を飼っている。
『そいつ』は、人の“死”に抗えないほどの魅力を感じている。

時おり、火村の中から顔を出す忌まわしい『そいつ』を、アリスはこれまで必死に押さえ付けてきた。
時には自分の身が傷つくことさえ恐れずに……。
そんなとき、決まって火村はしばらくアリスから離れる。
傷ついたアリスよりも、もっと苦しそうな目をして。

だからアリスは火村と『怪物』の均衡をいつも気にしていた。
そしてそれが崩れかけていることを、本人よりも先に察知し、火村を救い上げる。
絶対に火村は渡さない。堕とさない。『アイツ』には……。




「アリス……?」
はっ、とした火村は不安そうな、すがるような瞳をアリスに向ける。

アリスは火村の頬をパンと叩いた。

「目、覚めたんか?」
「……………すまない」

「もう、ええ。戻ってきたんやったら、それで……」

アリスの腕を解放し、火村はアリスから離れる。

「火村……」

アリスは火村のネクタイをぐいっと引く。

「そんな顔しとるお前を放っておくわけいかんやろ!雨のせいで、寒なってきたしな。人間カイロが必要や。せやから、火村……」

するりと火村の首に巻き付いたアリスの腕は、しなやかだ。
『どうせ殺されるなら、この腕がいい……』
そんなほの昏い思考に気づいたアリスは、ぐっと力を込め、自分の左胸に火村の顔を引き寄せる。

「生きとるやろ?」
火村の左耳が、規則正しくリズムを刻むアリス心臓の音を捉える。

トクン……聴こえるのは、せいの音。

「お前も同じもん持っとるやろ。俺はジジイになってもお前のその音を聞きたいんや!……あかんか、火村?」

それは……得も言われぬ程、魅力的は未来への約束。

火村の目の前の男は、何と勇ましく、男前で……。
優しい恋人なのだろう。

火村は愛しさに、ただその人の名を呼ぶ。

――――― アリス……。

触れ合う唇さえ、奇跡。




fin.




1/1ページ
    スキ