有雨子




「奥さん、有雨子さんていうのね……」

マリコは助手席の窓から外を眺める。
重く垂れ込めた黒い雲からは、しとしとと雨が降り続いている。

「ん?ああ…、美貴に聞いたのか」

ステアリングを握ったまま、土門が返事をする。
ちらりと横を見た土門は、マリコがじっと雨に見入っていることに気づいた。

「そういえば、俺もあいつも晴れ男、晴れ女だったなあ」
「そう……」

昔を思い出し苦笑する土門とは逆に、マリコの顔には何の感情も浮かんではいなかった。

土門はマリコに気づかれぬよう、小さく息を吐き出すと、人通りの少ない道の際に車を停車した。

「何か……聞きたいことがあるのか?有雨子のことで」

土門はたずねる。
今日のマリコは、いつものマリコとは違っている気がする……。
喉の奥に刺さった小骨のように、土門はマリコに対して違和感を拭えずにいた。

マリコは黙って首をふる。

「いいえ。土門さんと有雨子さんの思い出は二人だけのものだわ……」

伏し目がちにそう答えたマリコだったが、一言だけ、接続詞を言い添えた。

――――― だから。

そう続けると、マリコは助手席から身を乗り出し、強引に土門の唇を奪う。
驚き、固まったままの土門の口内に侵入し、乱れる吐息のままにマリコは口づけを続ける。

「んっ……」
「榊……」

溜め息とともに解けた熱い唇と同じくらい、マリコの頬は紅潮していた。

「だから……、土門さん。私との思い出も………有雨子さんには言わないで」

マリコはすがるような視線を土門に向けた。

土門は笑う。

「言おうと思っても、言い尽くせないだろう?」
「え?」

「お前との思い出のほうがずっと多いじゃないか。だが、約束する。有雨子だけじゃない。他の誰にも伝えない」

だから、と土門もマリコを真似た。

「だから…………榊」
「なに?」

「お前も、誰にも言うなよ。俺たちが紡いできた思い出は全て。俺とお前、二人だけの秘密だ」

「土門さん……」

車内は次第に濃密な空気をまとう。

ただハザードランプの点滅する光と音だけが、規則的に時の流れを刻んでいく。


『二人だけの秘密』

それはなんて甘美な約束。




fin.


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