雫
忘れられないの
突然の雨。
土門は車のトランクに積んでいた一本の傘を取り出した。
そして、それをマリコへ渡す。
「土門さんは?」
「俺はひとっ走り、あそこで傘を買ってくる」
土門が顎をしゃくる先にはコンビニがあった。
それでも、そこへたどり着くまでにはかなり濡れてしまうに違いない。
「だったら一緒に行きましょう?」
「いや。それじゃぁ、お前も濡れるだろう。先に行ってるから、お前は後から来い」
そういうと、止める間もなく土門は走り出してしまった。
これが勤務中のことなら、マリコも納得したかもしれない。
でも今は一日の勤務を終え、帰宅途中の寄り道なのだ。
「以前なら……」
マリコの口を出た言葉。
その先は飲み込んだけれど、マリコはうつ向いた。
そう。以前なら、自分がこんな感情を持つなんてあり得ないだろう。
マリコは自身でも戸惑いを感じていた。
でも、決して嫌ではない。
そして、以前の土門なら……。
こんなとき、マリコ一人を残して行くことはなかった。
マリコは小さくなる背中を見送りながら、ぼんやりと一年前のことを思い出していた。
今日と同じように突然の雨に遭遇したとき、マリコの持っていた小さな折りたたみ傘で二人は雨を凌いだ。
濡れないように……そう言い訳して、身を寄せた。
そしてその日は雨が止んでもなお、傘という隠れ蓑のもと、二人は互いの温もり感じていた。
この日を境に、二人の関係は少しずつ変化していった。
マリコにとっては忘れられない日だ。
でも月日が経つにつれ、そんな宝物のような日々は記憶の奥底に沈んでいくのだろうか?
土門は……………忘れてしまったのだろうか?
マリコは渡された傘を広げ、ひとり土門のもとへ歩いていく。
傘を買った土門は、店先でマリコを待っていた。
「傘、あったのね……?」
「ああ。ちょうど最後の1本だった!」
「そう……」
マリコは恨めしそうに、土門のビニール傘を見つめる。
「売り切れていたら良かったのに……」
マリコはポツリと呟いた。
「……行くぞ」
聞こえない振りをして、土門は先に歩きだした。
そして、後ろに続くマリコの気配に苦笑した。
帰る道すがら、「寄り道をしないか?」そう土門に誘われ、連れて来られたのは小さな公園だった。
けれど奥まで進むと、薔薇のアーチに覆われた小道が続いていた。
土門はそこへマリコを促す。
小降りになった雨は、アーチの中には降り込んでいないようだ。
土門は傘を閉じ、マリコへ手を差し出した。
「少し歩かないか?」
マリコも傘を閉じると、その手をとった。
しっかりと指を絡ませた土門は、マリコと並んでアーチをくぐる。
赤やピンク、白、黄色……。
色とりどりの薔薇は水滴をまとって鮮やかに咲き、芳しい香りが鼻孔を刺激する。
マリコはすっかり見入っているのか、上ばかり眺めている。
「綺麗ねぇ…。それにとってもいい香り」
「そうだな」
「土門さん。よくこんな場所を知っていたわね?」
「ん?まぁ…な……」
まさか聞き込みの途中で見つけて、マリコを連れてこようと思っていたとは言えず、土門は口を濁した。
土門はしばらく薔薇に見入るマリコを見つめ、続けてその手が握る傘に視線を向けた。
「なあ、榊」
「なに?」
「俺はもう傘がなくても、こうしてお前と二人で歩くことに抵抗はない。だからといって、あの日のことを忘れたわけじゃない……」
「土門さん?」
「雨じゃなくても、傘がなくても、いつだってお前が望むなら手を繋いでやる。あの日を忘れられないのは、俺も同じだ」
マリコは土門を見つめ、傘をぎゅっと握った。
「………ほん、とう?」
「…ん?」
「本当に、土門さんも忘れないでいてくれたの?」
「ああ、本当だ。あのときだけじゃない。今も。きっと明日も……」
――――― お前と生きていくこの日々は、永遠に忘れられない。
「そう、思っているさ……」
「え?」
小さな呟きを聞き取れず、マリコは聞き返す。
「いや、何でもない。行くぞ」
アーチの出口まで残り僅かな小道を並んで歩く。
通り抜けると、相変わらず雨はしとしと降り続いていた。
傘を開こうと柄に手をかけるマリコを、土門は止めた。
そして自分の傘を開く。
「榊」
名前を呼んで。
「行くぞ」
濡れないように、土門はマリコの肩を抱き寄せた。
こうして、また一つ。
『忘れられない』宝物の日が増えていく。
fin.
突然の雨。
土門は車のトランクに積んでいた一本の傘を取り出した。
そして、それをマリコへ渡す。
「土門さんは?」
「俺はひとっ走り、あそこで傘を買ってくる」
土門が顎をしゃくる先にはコンビニがあった。
それでも、そこへたどり着くまでにはかなり濡れてしまうに違いない。
「だったら一緒に行きましょう?」
「いや。それじゃぁ、お前も濡れるだろう。先に行ってるから、お前は後から来い」
そういうと、止める間もなく土門は走り出してしまった。
これが勤務中のことなら、マリコも納得したかもしれない。
でも今は一日の勤務を終え、帰宅途中の寄り道なのだ。
「以前なら……」
マリコの口を出た言葉。
その先は飲み込んだけれど、マリコはうつ向いた。
そう。以前なら、自分がこんな感情を持つなんてあり得ないだろう。
マリコは自身でも戸惑いを感じていた。
でも、決して嫌ではない。
そして、以前の土門なら……。
こんなとき、マリコ一人を残して行くことはなかった。
マリコは小さくなる背中を見送りながら、ぼんやりと一年前のことを思い出していた。
今日と同じように突然の雨に遭遇したとき、マリコの持っていた小さな折りたたみ傘で二人は雨を凌いだ。
濡れないように……そう言い訳して、身を寄せた。
そしてその日は雨が止んでもなお、傘という隠れ蓑のもと、二人は互いの温もり感じていた。
この日を境に、二人の関係は少しずつ変化していった。
マリコにとっては忘れられない日だ。
でも月日が経つにつれ、そんな宝物のような日々は記憶の奥底に沈んでいくのだろうか?
土門は……………忘れてしまったのだろうか?
マリコは渡された傘を広げ、ひとり土門のもとへ歩いていく。
傘を買った土門は、店先でマリコを待っていた。
「傘、あったのね……?」
「ああ。ちょうど最後の1本だった!」
「そう……」
マリコは恨めしそうに、土門のビニール傘を見つめる。
「売り切れていたら良かったのに……」
マリコはポツリと呟いた。
「……行くぞ」
聞こえない振りをして、土門は先に歩きだした。
そして、後ろに続くマリコの気配に苦笑した。
帰る道すがら、「寄り道をしないか?」そう土門に誘われ、連れて来られたのは小さな公園だった。
けれど奥まで進むと、薔薇のアーチに覆われた小道が続いていた。
土門はそこへマリコを促す。
小降りになった雨は、アーチの中には降り込んでいないようだ。
土門は傘を閉じ、マリコへ手を差し出した。
「少し歩かないか?」
マリコも傘を閉じると、その手をとった。
しっかりと指を絡ませた土門は、マリコと並んでアーチをくぐる。
赤やピンク、白、黄色……。
色とりどりの薔薇は水滴をまとって鮮やかに咲き、芳しい香りが鼻孔を刺激する。
マリコはすっかり見入っているのか、上ばかり眺めている。
「綺麗ねぇ…。それにとってもいい香り」
「そうだな」
「土門さん。よくこんな場所を知っていたわね?」
「ん?まぁ…な……」
まさか聞き込みの途中で見つけて、マリコを連れてこようと思っていたとは言えず、土門は口を濁した。
土門はしばらく薔薇に見入るマリコを見つめ、続けてその手が握る傘に視線を向けた。
「なあ、榊」
「なに?」
「俺はもう傘がなくても、こうしてお前と二人で歩くことに抵抗はない。だからといって、あの日のことを忘れたわけじゃない……」
「土門さん?」
「雨じゃなくても、傘がなくても、いつだってお前が望むなら手を繋いでやる。あの日を忘れられないのは、俺も同じだ」
マリコは土門を見つめ、傘をぎゅっと握った。
「………ほん、とう?」
「…ん?」
「本当に、土門さんも忘れないでいてくれたの?」
「ああ、本当だ。あのときだけじゃない。今も。きっと明日も……」
――――― お前と生きていくこの日々は、永遠に忘れられない。
「そう、思っているさ……」
「え?」
小さな呟きを聞き取れず、マリコは聞き返す。
「いや、何でもない。行くぞ」
アーチの出口まで残り僅かな小道を並んで歩く。
通り抜けると、相変わらず雨はしとしと降り続いていた。
傘を開こうと柄に手をかけるマリコを、土門は止めた。
そして自分の傘を開く。
「榊」
名前を呼んで。
「行くぞ」
濡れないように、土門はマリコの肩を抱き寄せた。
こうして、また一つ。
『忘れられない』宝物の日が増えていく。
fin.