貴方だけ。お前しか…。
「榊なら、もう科捜研へ戻ったぞ」
「知っています。土門刑事…あなたはなぜ戻ってきたんですか……」
やっぱり来たか…、と土門は能代と対峙した。
「あなたが戻ってくるや否や、榊さんはあなたのことしか見ていない。今のことだって!これまでなら俺が呼ばれていたことだ……」
「能代、お前は誤解している。榊は今もこれまでも、お前を特別扱いしているつもりは全くないだろう。お前も蒲原も、もちろん俺も。あいつにとっては同じ刑事だろうさ」
「嘘だ!さっきは……」
「見てたのか?悪趣味だな……。まあ、いい。それならはっきり言っておく。あいつとは、俺が異動になる前…いや、違うな。もっと以前からだ。能代……。余計なことはするなよ?あいつに何かしたら……」
土門の睨みに、さすがの能代もたじろぐ。
くそっ、と吐き捨てるように言うと、足早に立ち去った。
土門は少し悩んだ末、宇佐見にメールを送ってみた。
すると、すぐに返信が届いた。
土門は再び、屋上へと踵を返した。
「土門さん!お久しぶりです!お元気そうで何よりです」
相変わらず爽やかな笑顔で宇佐見は現れた。
「お久しぶりです。先日はご連絡ありがとうございました」
土門は軽く頭を下げる。
「少しはお役に立ちましたか?」
「はい。ずいぶんと。宇佐見さんの見立て通りでした……少しの間、騒がしいかもしれません。自分は科捜研の中までは手が出せない。もし……」
「分かっています。その時は力になりますよ」
「宇佐見さん。……ありがとうございます」
「いいえ。その代わり。私はもう二度と、あんな悲しそうなマリコさんの顔は見たくありません」
「…………」
「マリコさん、泣かないんですよ。涙が出ないと言っていました。でも、あの時のマリコさんは確かに全身で泣いていました。傷ついていました。けれど、私たちにはどうすることもできませんでした……」
宇佐見はなおも続ける。
「そこに手を差し出したのが能代刑事でした。能代刑事は土門さんのことを知らない。だから、マリコさんは一緒にいても負担ではなかったのでしょう。私たちや蒲原さんでは、どうしてもあなたの思い出に直結してしまうでしょうから……」
「身から出た錆ってことですね」
「そうはいいません。異動は不可抗力だったわけですから。でも、これから先は……土門さん、あなた自身の決断に全てがかかっています。私たち科捜研のメンバーはマリコさんの味方です。マリコさんを傷つけるなら、土門さん、相手があなたでも許しませんよ?」
「……肝に。肝に命じます。宇佐見さん、あなたは……強い男ですね」
「そうでしょうか?ありがとうございます。では、戻りますね」
宇佐見はくすりと笑って、会釈した。
その夜、マリコは宣言通り土門の家へ向かっていた。
途中、コンビニに寄る。
そこで、マリコは土門へ電話をかけた。
「もしもし、今コンビニにいるの。土門さん、何か買って帰って欲しいものある?ビールとかつまみとか……え?」
『だから、自分の着替えはあるのか?』
「な、なんで?」
『なんで、って……。今からうちに来て、帰るつもりなのか?』
「………」
『榊。俺は……、帰すつもりはない。お前も来るならそのつもりで来い』
「……………」
しばらく無言の時間が流れた。
『おい、聞いてるのか?』
「……うん」
『どうする?来るのか?』
「……………い、く」
『………そうか。待ってるから気を付けて来いよ』
「………うん」
電話が切れてから、マリコは『うー』と考え込んだ。
これまでにも土門と…そういう行為に及んだことはある。
でも、土門が東京へ行ってからは……一度もない。
もちろん、そういう雰囲気になったことはあったけれど、その度にどちらかのスマホが鳴り出すのだ。
――――― どうしよう……。
お泊まりセット一泊用の化粧品を手に、マリコは動けなくなってしまった。
覚悟を決めても、手にとっては戻す、を繰り返すこと早5分。
マリコの眉間にはふかーいシワが刻まれつつあった。
「榊さん!」
「?」
そんなときに名前を呼ばれ、マリコは振り返る。
「能代さん!どうしたんですか?」
「榊さんこそ!ご自宅、この辺りなんですか?」
「え?あ、あの…。そういう訳では……」
歯切れの悪いマリコに、能代はにっこりと微笑んだ。
「僕は車で来てるんです。どこへでも送りますよ」
「いえ、大丈夫です」
「そう言わず。雨も降りそうですよ。……傘、お持ちですか?」
「いえ……」
「だったら、濡れるよりいいでしょう?」
「でも、ここでも傘は売っていますし……」
レジを振り返ったマリコだったが、生憎ビニール傘は売り切れていた。
「ほらね?」
能代はくすりと笑って、マリコを見る。
マリコはその笑顔に何か違和感を感じた。
悪意とまでは言えないが、それでもほの暗い笑みにしか見えなかった。
本能的にマリコは後ずさる。
しかし………。
「さあ、榊さん!」
「あの!能代さん!?」
今までの能代からは想像できない強引さでマリコのバッグを奪う。
そしてマリコの腕を掴むと、能代は強引に引っ張って行く。
――――― 逃がしませんよ……。