貴方だけ。お前しか…。
マリコと離れ、東京での生活もすでに1年半が過ぎようとしていた。
その間も、もちろん土門はマリコと連絡を取り合っていた。
短いLINEだけのときもあれば、ゆっくりと電話で話すこともあった。
しかし、実際に会うことができたのは……片手ほどの回数しかなかった。
そんな折、土門のある噂を聞き付け、珍しい人物が訪ねてきた。
「やぁ!土門さん」
「榊監察官!ご無沙汰しています」
元気かい?と柔和に微笑みながら土門の側まで来ると。
「ちょっといいかい?」
そう言って、マリコの父親は土門を近くの喫茶店へ誘い出した。
「仕事中にすまない…。でも、どうしても聞きたいことがあってね」
「何でしょう?」
「土門さん…。京都府警へ異動願いを出しているそうだね。それは……あの子のためかい?」
伊知郎は期待を隠せない、けれども不安も拭えない、そんな表情で土門を見ている。
土門は答えに悩んだ。
半分は当たっているが、もう半分は違うからだ。
だから、土門は伊知郎にぬか喜びをさせないよう、真実を答えた。
「違います」
「えっ?………そ、そうか。そう、だよね」
『いや、変なこと聞いてすまないね……』と伊知郎は眼鏡の位置を直す。
「異動願いは……自分のためです」
「土門さんの?」
「はい。この1年半、自分は様々なタイプの犯人と向き合い、取り調べを経験してきました。その度に思うんです。あいつならどう犯人と向き合うか。なんて声をかけるのか。どんな証拠を突きつけるのか……。それを確かめたい。もう一度あいつの傍で……、そう思ったからです」
「土門さん……」
―――――『ありがとう』
ぽつりとこぼれた言葉は、伊知郎の心からのものだった。
『たまには飲みに行こう!』と、くしゃりとした笑顔を見せて、伊知郎は帰って行った。
土門には伊知郎に言えなかったことがある。
つい先日、土門はある女性の容疑者を取り調べた。
彼女は一年前に息子を亡くしていた。
原因はいじめだ。
彼女の息子はいじめを苦に、マンションの屋上から飛び降りた。
しかし学校側はいじめの事実を認めず、いじめていたと見られる生徒たちは、いつもと同じように登校していた。
だが、ある日。
彼女は学校の裏サイトを見つけた。
そこには自殺してなお、自らの息子を貶めるような動画や書き込みが溢れていた。
彼女は怒りに我を忘れた。
後に振り返り、鬼子母神が乗り移ったのだと己を揶揄していた。
彼女はいじめの中心人物と思われた少年を、刺殺した。
遺体は見るも無残だった。
何度も何度も突き刺された傷痕は、数えきれないほどだった。
――――― 殺人は許されない。
しかし、刑事も人間だ。
どうしても容疑者の想いに引きずられてしまうこともある。
そう考えたとき、土門はマリコのことを思った。
『あいつならどうする?』
冷酷に証拠を突きつけ、自供を迫るだろうか?
『……いや』
土門は一人否定し、
『おそらくは……』
土門の脳裏には瞳を真っ赤に潤ませ、声をつまらせながら、それでも犯人に証拠を示す姿が浮かんだ。
その光景を想像し、土門は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
――――― そんな顔をするな……。
想像のマリコへ語りかける。
そしてその頬に触れようと伸ばした手は、空を切る。
『ああ……』
土門はようやく気づいた。
『もう限界だ……』
――――― マリコが傍にいないことに。
その足で、土門は京都府警への異動を上司に打診した。
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