未來のたね
カツ、カツ、カツ。
カツ、カツ、カツ。
…………カツ、カツ。
「ちょっと、土門さん。落ち着いたら?気になって本が読めないわよ」
土門はちらりとマリコの顔を見、膝に置かれた本に目を向ける。
「ほう。お前はいつも逆さまに本を読むのか?」
「!!!」
マリコは慌てて、本をくるりと動かす。
「とにかく!私たちには何も出来ないんだもの……」
その時、暗がりの廊下をパタパタと走る足音が聞こえた。
それは二人の方へ近づくにつれて、段々大きく、どんどん早くなる。
やがて、薄汚れた作業服姿の若い男が猛然とダッシュし、二人の前で急停止した。
「あの!
「落ち着いてください。
「はい!はい、そうです!」
片手を膝につき、息を切らせながらも、土門の腕をすごい力で掴む。
「由宇さんは胎盤剥離を起こしかけていました。今、帝王切開の手術中です」
そう男に説明すると、マリコは手術中のランプを見上げる。
「いったい何だってこんなことに……」
男はくしゃくしゃと頭をかきみだし、ドサッと手近な椅子に倒れ込むように座る。
土門は男の正面に立つと、ことのいきさつを話し始めた。
時間を遡ること、二時間。
そのとき、マリコと土門は洛北医大から府警へ戻る途中だった。
土門が運転する車内で、二人は今夜の予定を相談していた。
「榊、何か食いたいものあるか?」
「そうね…この前は和食だったから、今日は…………土門さん!!!」
マリコが叫びを上げるより少し早く、土門はブレーキを力一杯踏み込んだ。
キキーッと金属の擦れる耳障りなブレーキ音とともに、車は斜めに停止した。
土門が素早く車を降りる。マリコもそれに続いた。
「大丈夫ですか?」
土門が暗闇にうずくまる人物に声をかける。
「……………」
返事は戻らず、苦しそうな息づかいだけが聞こえる。
「大変!土門さん、この方、妊婦さんだわ!」
「なに?」
女性は下腹部を押さえたまま動かない。
「すぐに病院へ搬送したほうがいいわ!」
「分かった。車に運ぶの手伝ってくれ!」
マリコと土門は妊婦の脇を抱え、車の後部座席に寝かせる。
「大丈夫ですか?」
マリコの声にうっすら目を開けた妊婦は、赤ちゃん……とうわ言のように呟く。
「すぐに病院へ向かいますからね!」
マリコは自分のコートを女性の腹部にかける。
そして、脂汗の滲む妊婦の額をそっと拭き続ける。
「急いで、土門さん!」
「分かった!」
幸い、10分と走らぬうちに産科を備えた総合病院へと到着した。
すぐに急患受付を済ませると、彼女――蓼科由宇は手術室へと運ばれて行った。
「由宇さんは、以前の検診から高血圧の症状が続いていて、医師からは安静を薦められていたそうです。ご存知でしたか?」
「えっ!?あいつ、そんなこと一言も……。今日だってパートへ……」
マリコの言葉に男は弾かれたように顔をあげた。
そして、信じられないことを聞かされたように目を見開く。
「パート?」
「はい。スーパーに……」
「そうだったんですね。たぶんパートの帰りに……」
マリコの言葉を遮り、『俺のせいです…』と男は握った拳を自身の足に打ち付ける。
「これから赤ん坊も生まれるっていうのに、俺の稼ぎが少ないから…。だから、あいつパートをやめられなくて。体のこと黙って……」
男は項垂れる。
しかし、両の手のひらは固く組み合わされ、祈るように額に押し付けられていた。
「「「……」」」
それからは誰も言葉を発することなく、だだ時間だけが過ぎていく。
時おり、看護師が手術室を慌ただしく出入りする。
その度に三人の視線を痛いほど浴びても、彼女たちは無言で目の前を通りすぎ、扉の内側へと消えてしまう。
1分が10分にも1時間にも感じられる。
期待と不安に押し潰されそうで、マリコは無意識に隣に座る土門の袖口を掴んでしまった。
土門は何も言わず、マリコの手を覆うように自分の手を重ねた。
そして……………。
『……ぁぁ。おぎゃぁぁ……』
微かだけれど。
僅かだけれど。
それでもちゃんと聴こえた。
――――― 新しい命の息吹。
手術室の扉から出てきた看護師が告げる。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ!母子ともに問題ありません」
男は安堵に天を仰いだまま立ち尽くす。
その目尻には光るものが見てとれた。
土門とマリコも詰めていた息を吐き出し、顔を見合わせた。
「お父さん、どうぞ」
そう言われ、戸惑うような顔をした男は、それでも次の瞬間には誇らしげで、強い父親の顔をしていた。
そして、マリコと土門に深く頭を下げると、妻のもとへ向かった。
「由宇さんも、赤ちゃんも無事でよかったわ」
「ああ。……さて、俺たちは帰るか?」
「ん、そうね」
二人はエレベーターへと向かう。
しかし、その途中には新生児室があり、ガラス張りの部屋の奥には産まれたばかりの赤ん坊が並んでいた。
「ちょっと見ていかない?」
土門の返事を聞く前に、マリコの足はすでにそちらへ向かっていた。
マリコはガラスの向こうに目を向ける。
手足をばたつかせている子。
泣きじゃくる子。
おとなしく眠っている子。
「こんなに小さいのに、ちゃんと生きてる……人間て不思議ね」
それに……とマリコは続ける。
「なんて、かわいいのかしら!」
赤ん坊を見つめるマリコの眼差しは得も言われぬほど柔らかく、土門は少し驚いた。
「お前にも母性ってあったんだなぁ」
「……………!」
つーん、とマリコは顔を背ける。
土門は『すまん』と大して悪びれた様子もなく、笑って言う。
――― 子どもか……。
土門はガラス越しに赤ん坊を見つめる。
スヤスヤと眠るその小さな、小さな手は、しっかりと未来を掴んでいる。
自分たちは産まれたときから死へと向かって進んでいる。
だが、この小さく輝く無垢な存在を見ていると、まだまだ未来を期待してしまう。
自分が『父親』になる日なんて来ないだろうとずっと思っていた。
それでも、そんな未来を望んでもいいのだろうか?
土門はマリコの横顔に目を向ける。
もし、自分に子どもが産まれたら……。
その子を包み抱く優しい手が、願わくば、隣に立つ
今はまだ見えぬその光景に、土門は想いを馳せる。
「土門さん?」
どうかしたの?と問いかけるように見上げるマリコの瞳には、自分の姿が映っていた。
そう、映っているのは土門だけだ。
そして、この先もそうあって欲しいと願う。
だから、今、一番大切なその人へ想いを届ける。
「なあ、榊」
「なあに、土門さん?」
「いつか……、 」
『未來のたね』はきっと、二人の手の中に。
fin.
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