すまん、榊
『屋上にいる』
突然届いた、たった一行のメッセージに、マリコは思わず立ち上がった。
反動で椅子が回転しながら手近なデスクにぶつかり、ガタンと大きな音が響いた。
何事かと驚く亜美や呂太の呼びかけにも気づかず、マリコはスマホを握りしめ、科捜研を飛び出していった。
「マリコさん、どうしちゃったの!?」
「うーん、たぶん…。きっと。いいこと、じゃないかな?」
「いいこと?」
「そう!」
「あっ!!」
「ねっ?」
「うん。そっか、きっとそうだね。よかった♥」
呂太と亜美は頷き合い、尊敬する女上司へエールを送った。
暮れ行く西の空が、その先で待つ人の長い影を形作る。
パタンと扉の閉まる音と同時に、マリコの足が自然と早まる。
カツン、カツン……カッ、カッ、カッ。
気付けば、マリコは走り出していた。
視界に背の高い後ろ姿が鮮明に映りこむ。
早く、早く。
――― あと少し。
―――――― もう少し。
小走りな靴音に気づいた人影が振り返る。
けれど、差し込む夕陽にその表情はマリコにはわからない。
それでも必死に腕を伸ばす。
「榊!」
ようやく届いたその手は、ぐい、と力強く引かれる。
そのまま倒れ込むような勢いで、マリコは広く温かい胸に包み込まれた。
「土門さん!」
「戻ったぞ」
耳元で響く親しんだ声。
慣れすぎていて気づかなかった。
こんなに恋い焦がれるものだったなんて……。
「どうして、土門さんだけこんなに遅くなったの?」
嬉しいはずなのに、マリコは少しだけ意地悪をしたくなった。
それだけ待ち詫びていたのだ。
「すまん。実は急遽、模倣犯の捜査へも参加することになっちまってな……」
「そう…。でも、それならそうと伝えてくれれば…………」
「おっと!」
土門はマリコの頭をもう一度ぐいっと胸に抱き込む。
「泣くなよ……」
「な、泣いてなんて……」
マリコは土門の胸から顔を出そうと、もぞもぞと頭を動かす。
「このままでいろ」
「え?」
「これでも色々と我慢してる。今、お前の泣き顔なんて見たら……。正直、自制できるかわからん」
「なっ!何よ、それ。……勝手なんだから!」
「お前に勝手呼ばわりされるとはなぁ!はははっ」
どこまでが本気なのか、土門は上機嫌だ。
だが土門自身、これまで幾度となくマリコへ連絡しようとスマホを取り出しては
どうあがいても戻れない状況の中、マリコの声を聞いてしまったら……。
それは、自分にとってもマリコにとってもよい結果には繋がらない、そう考え、自分の気持ちにブレーキをかけてきた。
けれども、自分に向かって必死に手を伸ばし、駆け寄るマリコの姿を目にして……。
『あの時無理にでも…。例え僅かな時間でも……』
そう後悔という名の苦い液体が土門の体を駆け巡っていた。
やがて笑いを収めた土門は、自分の腕にすっぽりと収まるマリコを見下ろす。
「待たせて…すまん。
心配かけて……すまん。
一人にさせて………すまん」
マリコの頭上から聞こえるのは、
「土門さん?」
「寂しい想いをさせて…………すまん、榊」
大きな手がマリコの髪を撫で、ポンポンとあやすように叩く。
「何よ……」
「ん?」
「土門さんが泣かせるんじゃないの……」
詰まったような声で、それでも必死にマリコは涙を
「そう……だな。今、後悔したばかりだ。無駄な抵抗はするべきじゃない」
「え?」
何の話だろう?と顔をあげたマリコを、土門は柱の影へ連れ込む。
「今から1分だけ、忘れろ」
そう言うやいなや……………………。
「も、もう!逆に忘れられないわよ!」
上目遣いに睨むマリコは、予想通りの茹でダコだ。
「だったら、覚えとけ。続きは今夜だ」
ニヤリとする土門に、マリコは赤い顔のまま器用に青ざめる。
でも、またこんなやり取りができることが、マリコには何よりも嬉しい。
「ねえ、土門さん……」
「ん?」
「……おかえりなさい!」
花が綻ぶようなその微笑みに、はっと胸をつかれた土門は苦笑する。
『一体、どれだけマリコが不足しているのだろうか』と。
fin.