今はまだ、何色にも染まらずに…





「うーん!気持ちのいい青空ね」
マリコは右手をぐっと伸ばし、空へ突き出す。
雲一つなく晴れ渡った屋上には、時おり清々しい風が吹き、マリコの髪を拐っていく。

マリコから半歩下がったところで土門はポケットに両手を突っ込み、そんなマリコの様子を見守っている。

いつの頃からだろうか……。
こんな他愛ない時間が何より大切だと気づいたのは。
伸ばした手のひらを見つめる横顔を盗み見、土門は目を細める。

マリコはそんな土門に気づいているのかいないのか……。
ただ視界の隅に映りこむスーツの紺色とワイシャツの白、そして赤いネクタイ。
その色彩認証だけは誰とも間違えない自信がある。



昨日、土門はようやく一つのヤマが片付き、次回の臨場までは少しの余裕があった。
そして、マリコもその事件を主に担当していたため、現在は急ぎの鑑定を持ち合わせてはいない。

「土門さん、少しはゆっくりできそうね」
「そうだな。お前の方もそうだろう?」
「ええ……」
「「…………」」


『だったら、飯でもどうだ?』
土門は、その一言を切り出すタイミングをはかっている。

マリコは……。

『土門さん、今夜はどうするのかしら?』
ちらりと土門を振り返る。

「なんだ?」
「ううん……」

『誘ってもらえないと、返事ができないじゃない……』
焦れったさに、足元へ視線を移す。

と、こんな具合に互いに躊躇い、足踏みを続けることが、ここ数年ずっと続いている。


そのとき、二人のスマホが同時に鳴り出した。
とたん、空気がピリッとした雰囲気をまとう。

「はい、土門です。はい。……三重、ですか?……はい、分かりました」

「はい、榊。えっ?はい、分かりました」

「ほかの班で事件か?」
先に電話を終えていた土門がたずねる。

「ううん。違うわ。土門さんは?誰から?」
「刑事部長からだ。明日から三重県警の応援に行くことになった」

「…………そう」

――― じゃあ、しばらく会えなくなるのね。
――― 署内でも。屋上でも。
知らず、マリコの表情が翳る。

「お前は?なんの連絡だ?」
「うん。私も明日から村木さんのお手伝いに駆り出されたの」

「村木?……ってあの村木かっ!?」

土門の反応に首を傾げながら、マリコは答える。

「あの?ええ。村木さんよ。糸村さんが大量に遺留品を持ち込んだらしくて、手が足りないんですって」

――― 村木だと?

土門の目が光る。
自分が傍にいられないというのに、よりによって村木とは……。

土門は地団駄を踏みたい気分だった。
もうなりふり構っている場合ではない。
少しでも、自分の存在を知らしめる必要がある。

村木には虫除けとして。

マリコには……?

マリコには、何のために自分の存在を植え付けようとしているのか。
村木にしたって……。
あと数センチで届くはずの答え。
だが、土門はまだそこへ手を伸ばせずにいた。

思考の迷路に迷いこむ前に、土門は今やるべきことを思い出した。

「榊、今夜ヒマか?」

マリコは弾かれたように顔をあげる。

「ええ。特に予定はないわ」
「だったら飯でも行くか?」
「土門さんの奢り?」

思った通りの答えが返ってきた。

「またか?」

これまたお決まりのやり取りだ。

「ふふっ。ごちそうさま」

言質を取れたことに、土門は胸を撫で下ろす。
マリコも堪えきれない嬉しさがその表情に滲む。

「帰る前に連絡しろ」
土門はそう言うと、先に踵を返した。
しかし数歩進んだところで、ピタリと足を止め、振り返った。

「おい」
「なに?」

「……今度から確認する必要はないぞ。お前一人分くらい、いつでも奢ってやる。イエスかノーかそれだけ聞かせろ」
「……う、ん。あ、ありがとう」

「それと。…………たまにはお前からも誘え」
「え?」
「待ってるのは、何もお前だけじゃないってことだ………じゃあ、後でな!」

土門は今度こそ振り返ることなく、屋上を去っていった。



後に残されたマリコは白衣のポケットに両手を突っ込み、土門の真似をしてみた。
そして、足元から長く伸びるもう一人の自分を見つめる。

自分の気持ちと土門の想い。
それがイコールなのか、ノットイコールなのか……まだ確かめるだけの勇気がマリコにはない。
名前のないこの空気が、何よりも心地いいからだ。

だから。
今はまだこのまま。
もう少しだけ、このままで。


二人の次のページは、真っ白にしておこう。




fin.



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