不屈の男
翌日、マリコは非番を亜美と替わってもらい、朝一番に病院を訪れた。
予想通り土門は病室にはおらず、看護師に確認すると、リハビリルームにいるとのことだった。
早朝の時間のため、リハビリルームには土門と理学療法士しかいない。
土門は両手で平行棒を掴み、半歩ずつ歩みを進めていた。
強ばり、痩せた筋肉はなかなか言うことを聞かないのだろう。
土門の額には玉の汗が浮かび、時おり頬を流れ落ちる。
しかし土門はまるで気にした様子もなく、ただ前方を見据え、足を運ぶことに意識を集中させる。
半分の距離を進むだけで、そうとう息が上がっていた。
見ていられない……。
正直、マリコはそう思ってしまった。
けれど同時に、そんな土門を支えたいという想いが沸き上がる。
「おはよう!土門さん!」
マリコは努めて明るい声と表情で土門に声をかけた。
そして理学療法士にも会釈する。
すると、彼は『何かあったらすぐに呼んでください』と言ってその場を離れた。
もちろん、昨日マリコが頼んでおいたのだ。
「榊!お前、何で……!?仕事はどうした?」
「今日は非番なの」
「そうか……。いや、だが、こんな早くにどうしたんだ?」
「もちろん、土門さんのリハビリを手伝いに来たのよ」
「……必要ない。帰れ」
マリコは聞こえないふりをして土門に近づくと、用意してきたタオルやドリンクを取りだし、自分も袖を捲りあげ、土門の隣に並ぶ。
転倒しそうになったとき支えるためだ。
「榊、聞こえなかったのか?俺に付き合う必要はない、帰れ。」
尚もマリコは動かない。
「榊!」
焦れたような土門に、マリコは『聞こえないわ』と言って、その目をまっすぐに見返した。
「私は私のやりたいようにするだけ。土門さんも私のことは気にしないで、リハビリを続けて」
「ちっ!」
土門はマリコから顔を背けると、リハビリを続ける。
半歩進んでは、止まり、また半歩進む。
土門の額から汗が流れる。
ゆっくりと足を上げ、次の半歩を踏み出そうとしたとき、汗ばんだ手が滑り、土門の体が
「土門さん!!」
マリコは慌てて手を伸ばし、土門の体を全身で支える。
――― 土門の腕の鬱血。
それはリハビリの際、転倒したり、揺らいだ体を支えるためにできたものだと、マリコは理学療法士から聞いていた。
無理はしないように言っても、土門は耳を貸さず、自分一人でもリハビリをしてしまうのだ…と理学療法士も弱り顔をしていた。
その鬱血が、今、マリコの目の前にある。
そして久しぶりに触れたその体からは、汗の香りがした。
鬱血の痕と、汗の香りと、土門の熱を持った体温を感じた瞬間、マリコの瞳から思わず涙が零れた……。
「え?」
自分でもどうしてなのか分からない。
ただ涙はとめどなく流れ、止まらない。
「だから、帰れと言ったんだ……」
土門は大きなため息をつくと、マリコの頬を手のひらで拭った。
「ど、もん、さん?」
「俺のこんな姿を見たら、お前は………。お前は気に病むだろう?いつまでも自分のせいだと思って」
土門は平行棒に掴まり、体勢を立て直す。
「だいたい、那須田の時の背中の傷跡でさえ、未だに触る前に躊躇してるだろうが!」
「気づいてたの?」
土門の吐き捨てるような台詞に、マリコは驚いた。
「当たり前だ!だから、お前にはこんな姿は見せたくなかったんだ……」
「土門さん…。でも………」
マリコはまだ触れたままの土門の腕にぎゅっとしがみつく。
「それでも、手伝いたいの。土門さんのために、何か……。大したことはできないかもしれないけど、何かしたいの……」
ふぅ…とマリコの頭上で息を吐く音がする。
「だったら、絶対に泣くな。俺の前では笑ってろ。できるか?」
「……や、やってみる」
「それから、俺を甘やかすようなことはするなよ!キツくても早く復帰するためだ」
マリコはコクンと頷く。
「それと………」
「まだあるの?」
「なんだ、嫌なら帰って構わんぞ」
「ううん!私にできることなら何でもやるわ!」
「そうか。リハビリが終わって、刑事に復帰できたら………………」
「…………」
「お前にしか出来ないことだろう?」
見下ろす土門の目には、まるでゆでダコのようになったマリコの姿が映る。
その様子に小さく笑った土門は、マリコの手を離し、再び歩みを進める。
マリコもそんな土門の隣を、まだ少し赤い顔のまま付き添うのだった。