ファイター
土門の異動が正式に決まってからというもの、マリコは土門を避け続けていた。
もちろん、仕事上そんなことは許されないので、表面上はいつもどおりに接している。
しかし、プライベートでは二人きりにならないよう注意を払っていた。
土門はそんなマリコの様子に当然気づいていた。
だが、自身も引き継ぎや、挨拶回り、引越の準備と忙しい日々に流され、マリコとの時間を取れずにいた。
しかし……。
そうこうしているうちに、とうとう京都府警勤務の最終日を迎えてしまった。
屋上へ向かう途中、マリコは少し離れた場所から刑事課をうかがった。
すると、ちょうど一課の廊下で皆と談笑する土門の姿を見つけた。
――― 暫く大丈夫そうね…。
マリコは鉢合わせしそうにないことを確認すると、白衣を翻し歩き出した。
屋上に広がる冬独特の高く澄んだ空は、今のマリコの狭く窪んだ心の中とはまるで真逆だ。
「はぁ……」
手すりにもたれ、大きなため息をつく。
ここ数日で何度ついたことだろう。
マリコ自身、このままではいけないことは分かっている。
けれども、未だに事実を受け止めきれないマリコの頭は、何一つ有効な手段を導き出してはくれなかった。
「よお!」
背後からの呼びかけに、ビクン、とマリコの肩がはねる。
その声を聞き間違えるなんてあり得ないけれど…、マリコは恐る恐る振り返った。
「……土門さん」
土門は大股でマリコへ近づく。
ここでこうして向かい合うのは何日ぶりだろうか。
「ずいぶんと久しぶりだな」
「そ、そうね。鑑定途中だから、私、戻らないと…」
俯いたまま、避けるように土門の脇を通り抜ける。
一刻も早く、この場を立ち去りたい…そんなマリコを、しかし土門はその腕を掴んで阻止した。
「土門さん?離して……」
「刑事に堂々と嘘ついてどうするんだ?」
「………」
じっと見つめられ、マリコは動揺した。
異動の話を聞かされてから、どんどんと強くなる土門への想い。
そして同じだけ膨れ上がるこの先への不安。
二つの感情はせめぎ合い、マリコ自身でももう抱えきれないほどに成長していた。
はち切れんばかりの想いが、土門の強い視線を受け……とうとう音もなく弾けた。
――― そして。
マリコの心は、自らを守るために深く沈むことを選んだ。
「榊」
土門は少し前に屋上へと向かうマリコに気づいていた。
自分と鉢合わせしないように、刑事課をうかがっていたことも、だ。
土門は両手を伸ばし、マリコの肩に触れる。
「お前……。痩せたな………」
土門は痛みを堪えるように目を細め、薄くなった体を引き寄せる。
マリコはなすがまま土門に体を預けはするが、両手はだらりと下がったままだ。
いつもなら、おずおずとでも背中に回される柔らかな感触が、いつまでたっても訪れないことを、土門は不審に思った。
「榊?」
土門が視線を落とすと、マリコはどこか虚ろな表情で、ただ前を見つめていた。
自分がどうなっているのか、何をしているのか、まったく気づいていない。
はらはらとその頬を泪で濡らしているというのに……………。
――― 心が……痛い。
土門にはマリコの泪が、自分の心臓から流れ出す血液のように感じられた。
できるだけ見ないように、考えないようにしていたことが、マリコの透明な
「泣くな……」
ポツリと零れ出たのはそんな言葉だった。
「泣くな……いや、そんなことは言えないな。俺も同じだ。お前と離れることは、俺の半分を失うことと同じだ」
土門はマリコを抱き締める腕に力を込める。
「榊…」
「………」
耳に土門の声は届いているはずなのに、マリコは反応しない。
「……榊、榊!……『榊マリコ』!!!」
ピクリ。
マリコは震える。
「ど、もん、さん?」
自分の名前を呼ぶ唯一無二の男の声に、徐々にマリコの瞳に生気が戻る。
「榊。俺が離れていくことは変えられない。だが、お前を想うこの気持ちはここへ置いていく……」
土門はマリコの頬を溢れる泪をすくいとると、視線を合わせ『何故だか分かるか?』と問いかけた。
「いいえ……」
「取りに…。取りに戻るからだ……」
「え?」
「忘れるな。必ずここへ取りに戻ってくる!」
「土門さん……」
マリコは再び、うっすら瞳を滲ませる。
「だから、お前も」
「?」
「お前の気持ちも俺に預けてくれないか?」
土門の真っ向からの言葉。
だが、マリコは目を閉じ、しずかに首を振った。
「…………そ、うか」
沈んだ声を出す土門だったが、続いて聞こえたマリコの返事に、思わず天を仰いだ。
――― あげないわ。だから……。
“奪いに来て”―――
そう口にしたマリコは、ようやく正面から土門の瞳を見返した。
そして、やっと自分を守る広い背中に腕を回し、その温もりに目を閉じた。
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