傍にいて、行かないで





『土門が異動する』
そんな噂が科捜研へ持ち込まれたとき、しかしマリコは特に気にも止めなかった。
土門自身からそんな話は何も聞いていないし、一緒にいてもまるでそんな素振りを感じることはなかったからだ。


刑事部長室から出てきた土門と、ちょうど鉢合わせしたマリコは、厳しい表情の土門に驚いた。
「土門さん、何かあったの?」
「ん?いや、何でもない。部長に何か用事か?」
「ええ。頼まれた資料を届けに……」
「そうか。…お前、このあと時間あるか?」
「ええ」
「屋上で待ってる」
マリコがうなずくのを確認すると、土門は踵を返した。



「失礼します」
ノックの後、応答の声を聞き、マリコは部屋へ足を踏み入れた。
「部長。頼まれていた資料です」
「ご苦労だったな」
「いえ。では、私はこれで」
「ああ、榊。……これを。…土門に渡してくれないか?さっき渡しそびれてしまってな…」
珍しく歯切れの悪い藤倉が、マリコに茶封筒を手渡した。
封筒には『辞令』と押印がされていた。
「あの…。これは……?」
「土門への異動辞令だ」
マリコは思わず息を止め、手元の封筒を見下ろす。
「土門から何も聞いていないのか?……榊?」
伺うような藤倉の言葉は、すでにマリコの耳には届いていなかった。


刑事部長室を出てから、どこをどう歩いたのか、マリコはただ足を動かし続ける。

もう今までのように屋上で二人、会うこともないのだろうか?
他愛ない会話をしては微笑んだり、うなずいたりしてくれる……そんな時間も無くなってしまうのだろうか?

そして、マリコは屋上の扉の前で足を止めた。
今この奥で自分を待っている人が、いなくなる。
急に実感を伴った喪失感に、マリコは両手で口元を覆う。

――― どうしたら、いいのかしら……。

結局、マリコはそこから一歩も動けなくなってしまった。


一方、土門は突然入り口付近で途絶えた足音に気づいていた。
暫く待ってみたが、物音ひとつしない。
ため息をついた土門は、扉へ向かう。
マリコを迎えるために。

「そんなところで、何してる?……入れ」
土門は扉を開き、マリコを促す。
無言で土門の脇をすり抜け、マリコはうつ向いたまま、土門へ封筒を差し出した。
「何だ?」
受け取り、ざっと中身に目を通した土門は、いよいよ隠し通せないことを悟った。

「ちょうど話をしようと思っていたところだ」
「……本当なの?」
「ああ」
「どうしてもっと早く教えてくれなかったの?私には話してくれると思っていたのに……」

土門は無言でマリコを見つめるだけだ。

「ねえ、どういうこと?土門さん、何とか言って!」
「榊……」

マリコは白衣の胸元をきゅっと握りしめる。

「……いて……」

「ん?何だ?」
あまりに小さな声を聞き取れず、土門は聞き返した。

「行かないで。土門さん、傍にいて……」

土門は息を飲む。そして……。

「やっと言ったな」
「え?」
「その一言が聞きたくてな。お前には黙っていた」
「どういうこと?」
「辞令は本当だ。所属は変わることになる。だが、京都府警への出向扱いってことになってな。今まで通り、ここに残る」

「酷い……騙したのね?土門さんなんて……」

マリコは怒りを露に、土門へ詰め寄る。
土門は叱責を覚悟して、目をつむり、ガードの体勢をとった。
マリコを騙していたのは事実だ。
そのことで、土門はマリコから一発食らうぐらいの覚悟はしていた。

「……?」
しかし、しばらく待っても衝撃は襲ってこない。
その代わり、柔らかくて温かい感触に包まれた。

「榊?」

「土門さんなんて…………大好きよ」

そう言うマリコの声が震えていることに気づいた土門は、壊れ物を扱うようにマリコを抱きしめる。
「すまん……」
「ん…。でももう二度としないで」
「ああ。これからもお前の傍にいるさ……」

土門はマリコの瞳をのぞきこむ。
「歳をとって、お前と二人、縁側で茶を飲むのが俺の夢だからな」
目尻を下げて笑いながら、そんなことを言う。
「土門さんなんてもうすぐじゃないの!」
「お前もだろう?」
憎まれ口を叩いては、見つめあって、うなずきあう。


ずっとこうしていたい。
ずっと見ていてほしい。
そして、小さく微笑んでくれたら……。


――― 土門さん、傍にいて。




fin.




1/1ページ
    like