汝、いのち棄つるなかれ
京山大学のそこは、植物園とは名ばかりの荒れ果てた掘っ建て小屋だった。
しかし、地面にはここ最近のものと思われるバイクのタイヤ痕が多数残っていた。
蒲原たち捜査員が慎重に周囲を取り囲む。
少しずつ建物に近づくと、中からくぐもった数人の話し声が聞こえた。
『誰がいる』
その合図を受けて、捜査員は警棒を装備し、突入に備えた。
後方でマリコたちも固唾を飲んで身構える。
やがて、蒲原の合図で、一斉に捜査員が内部に雪崩れ込んだ。
舞い上がる砂ぼこりの向こうから、罵声と、何かが倒れたり、割れたりする音がひっきりなしに聞こえた。
その騒音があらかた収まると、数人の学生が捜査員に連行されて現れた。
全員が、以前マリコに隠れ家を特定され、土門によって覚醒剤所持で検挙された者たちだった。
そしてさらに、その向こう……白く煙る先へマリコは目を凝らした。
「土門さん!!!」
擦り傷だらけの顔で左足を引きずりながら現れた土門を見つけ、誰より先にマリコは叫び、駆け出した。
土門は、白衣を翻し走るマリコを見つめる。
「土門さん!土門さん!!」
泣きそうな瞳のマリコ。
もう一度、その声を聞くために……。
周囲の目もはばからず、勢いそのままに自分の胸に飛び込んできたマリコの髪から、ふわりと彼女の薫りが漂う。
もう一度、その髪に触れるために……。
「無事で良かった!」
そう言って、涙をたたえた瞳で笑うその表情…。
もう一度、その笑顔を見るために……。
……………生きていて良かった。
土門もまた、突き動かされる衝動に抗うことなく、マリコを強く抱き締めた。
「榊……」
「土門さん……」
口をついて出るのは、互いの名前だけ。
きっと、今の二人には一番大切な言葉だろう…。
「あのー、お二人さん?」
おずおずと、しかし、ニンマリ笑った早月が二人に声をかける。
『早月先生、強者…』背後でぼそりと亜美が呟く。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、そろそろ土門さんの傷の手当てをしてもいいかしら?」
土門とマリコは慌てて離れる。
そして、間に不自然なスペースを空けて並ぶと、それぞれにあらぬ方向を向く。
「ごめんねー、マリコさん。処置が終わったら、続きはごゆっくり……」
「さ、早月先生!」
マリコは顔を真っ赤にして叫ぶのだった。
「土門さん、家まで送ります」
手当てが終わった土門へ駆け寄り、蒲原は気づかうように申し出た。
負傷した上司の世話をするのは、部下として当然のこと……。
何も分かっていない蒲原である。
そんなとき。
「ちょっと、蒲原さん!空気読んで下さいよ!」
蒲原は亜美にジャケットを引っ張られた。
「はっ?」
「悪いな、蒲原。今日は榊とタクシーで帰るから、大丈夫だ」
苦笑する土門の言葉に、ようやく察した蒲原は……穴があったら入りたい気持ちになった。
「あ…。自分こそすみません……」
一同に何とも言えない空気が漂う中、警察無線が流れてきた。
声の主は藤倉だ。
『土門、軽傷ですんで何よりだ。色々と言いたいことはあるが、今日は帰って休め。それから榊!お前は病院から勝手に退院したらしいな?苦情が届いているぞ!明日からの鑑定業務に支障が出ないように、お前も今日は休養しろ。これは命令だ!』
そして、ブチッと無線は切れた。
「お前、病院抜け出したのか!?」
土門の目が厳しくなる。
「だって、早月先生が……」
マリコが顔を向けると。
「あんな状態で退院許可なんて下りるわけないでしょ?もちろん事後承諾よ」
さも当然といった顔の早月に、マリコは目を見開いたまま固まり、土門は頭を抱えるのだった。
結局、残りの作業すべてをみんなに任せ、二人は土門のマンションへ帰ってきた。
マリコは足を引きずる土門を支え、寝室へ入ると、ベッドに座らせた。
「今、着替えを…」
離れようとしたマリコの腕がぐいっと引っ張られた。
そしてそのまま土門の胸へ引き寄せられる……前にマリコは抜け出した。
「土門さん、私、怒っているのよ?」
腰に手を当て、土門を睨む。
「分かってるさ。俺だってお前が同じことをしたら怒るだろうからな」
「だったらどうして!」
土門は憤慨するマリコへ苦笑いの顔を見せる。
「理屈じゃないんだ。気づいたら、体が勝手に動いていた。俺にとって、もうお前はそれだけ大きな存在なんだ。だから……」
『どこへも行くな……』
今までに聞いたことのない小さくて弱々しい声に、マリコは土門へ近寄ると、そっとその手に触れた。
指先から伝わる温もりはずっと土門が欲していたものだ。
「榊……」
名前を呼べば、ふわりと頭を抱きしめられた。
「ほら、ここにいるわ」
マリコの心臓が刻む音が土門の耳に伝わる。
そして、包み込まれる柔らかな感触と温もり。
「ああ。お前はあったかいな……」
そのまま目を閉じると、土門の意識は少しずつ沈み始める。
「お休みなさい、土門さん」
「ん……」
土門の体を横たえ、寝息を確認すると、マリコはしばらくその寝顔を眺める。
「どこにも行けるわけないじゃない。こんなに……」
飲み込んだその言葉は。
――― 大好きなんだから。
マリコはそっとその頬に口づけると、土門の腕の中へもぐりこんだ。
fin.
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