汝、いのち棄つるなかれ
マリコが目覚めると、白い天井と煌々と灯った明かりが、その瞳を刺激した。
「マリコさん!」
名前を呼ばれ横を向くと、早月が心配そうにのぞきこんできた。
「さつき、せんせい?わたし…。ゴホっ」
「まだ喋らないで。催涙ガスを吸い込んで、喉が炎症してるのよ」
早月は諭すように言うと、水差しを渡してくれた。
そして、ちょっと待ってて……と病室を出る。
やがて早月が戻ってくると、その後から科捜研のメンバーが現れた。
「マリコくん、大丈夫かい?」
「マリコさん、お加減どうですか?」
「マリコのさん…心配したんですよ」
「マリコさん、良かったぁ…」
皆がマリコのベッドを取り囲み、口々に声をかける。
「みんな、心配かけてごめんなさい。何があったのか、記憶がないの。教えてもらえないかしら?」
全員が顔を見合わせ、気まずそうな表情をする。
「何かあったの?」
しかし、誰も答えようとはしない。
「所長?」
名指しされた日野は大きなため息をついた。
しばらくマリコの顔を見つめ、いつものように眼鏡をずりあげる。
そして、ようやく口を開く決心をした。
「マリコくんは、昨夜、何者かに拉致されたんだよ。覚えてないかい?」
「いいえ。何だか頭のなかに霧がかかっているみたいで…。でも、こうして助かったんですよね?」
「それが……」
「?」
「マリコくん、気を確かに持って聞いてほしい…。君が拉致されたことを初めに知ったのは土門さんだった。なぜなら、犯人から土門さんに連絡があったからなんだ。そして、犯人は君の命と引き換えに、土門さんへ一人で廃屋へ来るように指示した。土門さんはそれに従った……」
「それで、土門さんは?」
「……行方不明なんだ」
「ちょっ!マリコさん、まだ動いちゃ駄目よ!」
マリコは布団をはね除け、起き上がろうとする。
「土門さんなら必ず何か手がかりを残しているはずだわ。1分1秒遅れれば、それが消えてしまうかもしれない……」
早月先生…!とマリコはいつにも増して強い瞳で早月を見つめる。
はぁー、と早月は天を仰いだ。
そして、腕時計を確認する。
「3時間後の18時に診察に行くから、必ず科捜研にいること!これが条件よ?」
「ありがとうございます!早月先生!」
「やっぱりこうなるんだね……。亜美くん」
「はい!」
敬礼した亜美は、手荷物の中から白衣を取り出す。
「はい、マリコさん」
「あらっ!」
マリコは受け取った白衣をバサッと翻し、袖を通す。
襟元をピシッと引いて整えると、自然と背筋が伸びる。
「さあ、行くわよ!」
土門が連れ去られ、マリコが発見された廃屋では、すでに捜査員と鑑識による現場検証が始まっていた。
「マリコさん!」
蒲原が目ざとく白衣を見つけ駆け寄る。
「どうしてここに?体調は?」
「大丈夫よ!」
瞳の輝きこそいつもと同じだけれど、どう見ても良い顔色とは言えない。
「マリコさん、今は休んで下さい!でないと、土門さんの…」
言いかけて、蒲原はとっさに口をつぐむ。
「土門さんの気持ちが無駄になる?蒲原さん。もし、逆の立場で私が土門さんと同じことをしたら、土門さんは大人しくベッドの上にいるかしら?」
「それは……」
「私一人が助かっても意味がないのよ。土門さんにはそれをきっちり分かってもらわないと。だから…私が絶対に見つけるわ!!」
マリコは蒲原にというよりも、自分に言い聞かせるように力強く言うと、微物の採取を始めた。
立ち尽くす蒲原の隣に宇佐見が並ぶと、マリコの様子を見守りながら話しかけた。
「今回はマリコさんが正しいと思います。残された人の気持ちを忘れてはいけません。その人のことを大切に思うのなら、尚更です」
「しかし……」
「もちろん、同じ男として、土門さんの気持ちは痛いほどわかりますが……」
蒲原もまた、土門とマリコの板挟みになり、何もできずにいる自分の不甲斐なさにただ拳を握りしめた。
一通りの検証と採取を終えると、科捜研へ戻るために全員が車に乗り込む。
特にマリコは疲労の色が濃く、シートへ腰かけるとすぐに目を閉じた。
科捜研では早月がマリコを待っていた。
「マリコさん!ああ、やっぱり顔色が悪いわね」
有無を言わさず、マリコは早月に研究室へ連れ込まれた。
診察を終え、服を直すマリコへ早月が声をかけた。
「マリコさん。今夜もこのまま鑑定を続ける気?」
「……はい」
「医者の立場としては、ドクターストップをかけるべきよね。でも……」
早月はマリコの肩をポンと叩く。
「今日はマリコさんの友人として、私も鑑定を手伝うわ!」
「早月先生!」
「私がいれば、マリコさんの体調にも気を配れるしね!」
「…ありがとうございます」
「絶対に土門さんを見つけよう!」
「はい!」
「ねー、ねー、これ何だろう?」
呂太が部屋からトレイを持って出てきた。
マリコもドアを開け、呂太に続いてパブリックスペースへ下りる。
呂太が手にしていたのは、何かの影響で破裂したらしいスチール缶の残骸だった。
ただその周りには何かが巻き付いているように見えた。
「張り付いてるものを剥がしてみるわ」
マリコはトレイを受けとると、研究室へ籠る。
早月が見守る中、慎重に少しずつ剥がしていく。
やがて、スチール缶に何か文字が書かれていることが分かった。
「所長に調べてもらいましょう」
立ち上がろうとしたマリコを早月が制した。
「マリコさんは鑑定を進めて。私が渡してくるから」
「ありがとうございます」
マリコはすぐに対象物へ向き直る。
剥がしたそれは何かの…布のようだった。
裏返し、マリコの手が止まった。
辛うじて読みとれたそのタグには“K.Domon”のスペル。
それは、土門のネクタイの一部だったのだ。
マリコはわずかに震える手で、そのネクタイをじっくり観察する。
自然とスチール缶に巻き付いたというよりも、意図的に巻き付けたといった方が正しいように、何重にもスチール缶の周囲を覆っていた。
誰がそうしたのか?
何のためにそうしたのか?
最初の答えは、きっと土門だとマリコは確信していた。
「土門さん…。きっとここに、あなたに辿り着く何かがあるのね」
マリコは二つ目の答えを探すため、もう一度ネクタイを調べ直し始めた。
「マリコくん。スチール缶の文字、わかったよ!」
部屋の外から聞こえた日野の声に、全員がパブリックスペースに集まった。
「所長、何て書いてあったんですか?」
「『催涙スプレー 取扱い注意』」
「えっ?」
「しかも手書き。ただ、手がかりは書かれた紙の方が大きいね」
「どういうことですか?」
「この紙、京山大学の校章が地模様に書かれてたよ」
「京山大学?」
「そう。宇佐見くん、催涙スプレーの成分結果どうだった?」
「市販されたものと一致する商品はありませんでした。不純物の度合いがかなり高くて…」
「それって……」
「どういうこと?」
亜美と呂太が首を傾げる。
「この催涙スプレーは手作りってこと。ラベルから想像して、京山大学の生徒が関わっている可能性が高いと思うね」
所長の答えに、そうか…、とマリコは合点がいった。
この手がかりを残すために、土門はとっさにネクタイを缶に巻き、ラベルを守ろうとしたに違いない。
「京山大学には確か……、農学部が所有する植物園があったはずです!」
宇佐見が記憶を辿るようにやや上を向く。
「亜美ちゃん、検索してみて!」
「了解です!」
亜美の検索結果が出る時間さえももどかしく、マリコは今にも飛び出しそうになる自分を押さえるために、ただじっとモニターを見つめた。
「ありました!この植物園……所有者は京山大学ですが、事実上の廃園になっているみたいです」
「土門さんがいる可能性は高いですね」
「直ぐに藤倉刑事部長へ連絡するから、みんなは蒲原さんたちと現場へ向かって!」
「私も連れて行って下さい!医師が必要になるかもしれない…」
マリコは早月の言葉に、一瞬泣きそうな顔を見せる。
しかし、その表情はすぐにしまわれた。
「早月先生、お願いします!」