汝、いのち棄つるなかれ





「土門さーん」
デスクワークに勤しんでいた土門は、顔を挙げ、廊下へ目を向けた。
扉からひょっこりお団子頭が見え、続けて亜美が顔を出した。
珍客に土門は立ち上がり、扉へ向かった。

「涌田、こんなところまで珍しいな。何の用だ?」
「お仕事中すみません。マリコさんから何か連絡ありませんか?」
「いや、ないな。榊がどうかしたのか?」
「まだ出勤されていないんです。電話をかけても繋がらなくて…」
土門が壁に目をやると、時計はすでに10時を指している。
「遅刻……にしては遅いな」
昨夜、土門はマリコと夕食を共にしていた。
自宅まで送り届け、そこで別れたのだ。
その時は特に変わった様子はなかったはずだ。

土門はスマホを取り出し、着歴からマリコをタップする。
しばらく待っても、聞こえるのは呼び出し音だけだ。
「榊……」

「繋がりませんか?」
「ああ。とりあえず、所長から藤倉刑事部長へ話してもらえ。俺も心当たりに連絡してみる」
「分かりました!」
いつものように敬礼を返すが、マリコのことが気がかりなのか声が沈んでいる。


亜美が戻ると同時に、土門のスマホが震えた。
相手はマリコだ。
土門は慌てて電話に出た。
「榊!お前、今どこだ?何して…」

「捜査一課の土門か?」

電話の向こうから聞こえてきたのは、見知らぬ男の声だった。
「…誰だ!?なぜ榊の携帯から電話している?」
「ひとつ目の質問の答えは、お前に恨みを持つ者だ。二つ目の答えは…お前自身、薄々気づいているんじゃないのか?」
「まさか……」
「その、まさかだ。科捜研の榊マリコを拉致した。お前たち二人に恨みがある」

「……何が目的だ?」
「お前たち、二人の命…と言いたいところだが、どちらか一人で勘弁してやる。土門、お前が選べ。この女を助けて自分が死ぬか、この女を見捨てるか……」
「悪ふざけなら……」
「悪いが、いたって本気だ。タイムリミットは30分後。それまでに、○○の廃屋へ来い。一人で、丸腰でだぞ?約束を破れば……、女の命はない」
「……わかった」
土門の返事を聞くと、電話は切れた。



まずは状況を整理して、藤倉へ報告する。
その上でマリコを救出するための最善策を講じる。
いつもの土門であればそう考え、行動しただろう。
だが、いかんせん時間がなさすぎた。

土門は考える。
連れ去られたマリコを解放する条件はただひとつ。
土門が一人、丸腰で向かうこと。
犯人の狙いが土門の命であることは間違いない。

土門は考える……いや、違う。
考える必要など、ない。
土門に迷いはなかった。
―――マリコの…。

土門の脳裏に、昨晩共に過ごしたときの、楽し気に笑うマリコが浮かぶ。

―――その笑顔を守るために……。



土門は犯人に指定された廃屋へ一人足を踏み入れた。
「約束通り一人で来た!榊を解放しろ!!」
「ふん!さすがは捜査一課の敏腕刑事だな…その心意気は買ってやる!」
室内に木霊のように声が響く。
そして、突然すごい勢いで煙が立ち上ぼり始める。
「なっ!…ゴホっ」
「約束どおり女は解放した…。ざまあないな、土門!」
いつからいたのか、煙の切れ間からマスクをつけた男がこちらを見ていた。
マスクからのぞくその目は、ぞっとするほど暗く濁っていた。

そして、それが土門の最後の記憶になった。




1/3ページ
like