たかが3音。されど3音。
それはなんの前触れもない、ふいな出来事だった。
仕事帰り、自宅へ向かっていたマリコは突然背後から襲われた。麻酔薬のようなものを含ませた布で顔全体を覆われ、しばらく体を押さえつけられたのだ。声が出せない状態で薬を嗅いだマリコは失神した。
目が覚めると酷い頭痛と吐き気がした。手足は拘束され、視界も闇に閉ざされている。どこかに監禁されているようだ。耳も済ましてみるが、近くに人の気配はしない。
「今、何時かしら」
声を出してみたが、それほど喉の乾きはない。それなら半日も眠っていたわけではないだろう。
「だとしたら、今は夜中かしらね」
マリコの推測が正しければ、叫んでも助けの来る可能性は低いだろう。だったら今は体力を温存する時だ。
マリコは長い戦いを予感して、目を閉じた。
翌日、土門と蒲原は殺人の通報を受け現場へ臨場した。科捜研の到着を待つ間、鑑識と並行して状況を確認していた土門は、被害者の遺留品を見て眉を潜めた。
バッグの中身の中に、見慣れたペンケースが紛れ込んでいたのだ。
土門は手袋をした手でペンケースを手に取ると、ファスナーを開いて中を確認した。
「……………」
間違いない。このペンケースはマリコの持ち物だ。
土門はスマホを取り出すと、すぐにマリコへ電話をかけた。しかしコール音は鳴らず、電源が入っていないとメッセージが流れるだけだ。
「どうなってるんだ」
そこへSRIの車両が到着した。
宇佐見、君嶋、亜美と続き、最後に下りてきたのは見慣れない男だった。
「お疲れさまです」
土門に気づいた宇佐見が駆け寄る。
「お疲れさまです。宇佐見さん、榊は?電話したんだが繋がらない」
「ええ。我々でも何度か連絡しているんですが、マリコさんと連絡が取れないんです。それで今日は急遽助っ人として、
紹介された男はペコリと頭を下げる。
「縣です」
「捜査一課の土門です」
「同じく蒲原です」
「どうも」
それだけ言うと、縣は遺体の周囲の観察を始めた。
「すみません」というように宇佐見が軽く頭を下げる。土門は首を振って返した。
得てして科学者には変人が多い。土門も慣れたものである。
「宇佐見さん。榊のことでちょっと」
土門は仕事を始める前に、宇佐見を人気のない場所へ誘導した。
「宇佐見さん。被害者の遺留品の中に榊のペンケースがありました」
「え?」
「いつも使っている物だと思うので、おそらく昨日、被害者の手に渡ったと考えられます。何か思い当たる節はありませんか?昨日、榊が誰かと会う予定だったとか」
「いえ。私は何も聞いていません。帰り際も、今夜のうちに取り寄せた文献を読みたいと言っていました」
「そうですか」
きっとマリコなら夕食も取らず、文献を広げるに違いない。
「土門さん……」
宇佐見の言いたいことと土門の予想は、そう違ってはいないだろう。
「宇佐見さんは榊に連絡を取り続けてください。自分は榊の家に行ってみます。随時連絡を入れますので」
「わかりました」
走り出しかけて、土門は足を止めた。
「すみません、宇佐見さん。事件の鑑定も忙しいのに」
まさに今この現場の鑑定品も、まもなく科捜研へ運ばれるのだ。
「それは土門さんも一緒でしょう?」
宇佐見は苦笑する。
「マリコさんは私達の仲間です。仲間の心配をするのは当然です」
「ありがとう」
今度こそ、土門は宇佐見へ背を向けた。
「お願いします、土門さん」
自分たちの心配が杞憂に終わることを祈りつつ、宇佐見は現場へと戻っていった。
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