あなたを忘れるくらいなら
マリコに連れられ、理久は榎並の待つ会議室へやってきた。二人の背後には土門も付き添っている。
「失礼します」
声をかけ、土門がドアを開ける。
「理久…」
榎並は立ち上がり、ドアに近づいてくる。
一方の理久はやはり緊張しているのか、マリコの手を握り寄り添う。
「理久くん」
マリコは理久を励ますように強く手を握り返した。その力強さに勇気をもらったのか、理久は一歩前へ進んだ。
「お父さん?」
「理久!」
榎並が理久のすくそばまで来ると、気配で気づいたのか理久が手を伸ばす。
「お父さんの顔、触ってみてもいい?」
「もちろんだ!」
榎並は小さな理久の手を取ると、自分の頬に当てた。理久の手が上下左右に動き、輪郭を確認する。やがて理久の手が水滴にぶつかった。
「お父さん…?」
「ごめん。ごめんな、理久。お前のこと、ずっと放っておいて。お母さんのこと、守れなくて」
榎並は顔を拭う。
「これからはお父さんがお前を守っていく。お母さんの分も。お父さんはまだ父親一年生だし、理久の目のこともどうしたらいいのか分からないことばかりだ。だけどお父さんは理久と一緒にいたい」
理久はマリコのいる方を見るが、マリコは何も答えなかった。
これは理久の人生なのだ。
難しい選択だが理久が選ばければならない。
他人が口を出すべきではないのだ。
だけど…。
マリコは何も言わないけれど、そっと理久の背中を押した。
それで伝わるはずだ。
理久はじっと空を見つめる。
長く、苦しい沈黙が続いた。
「お父さん」
「ん?」
「僕と一緒に暮らしたら、お仕事はどうするの?」
「え?」
「僕は盲学校へ通ってるけど、今まで送り迎えはお母さんがしてくれた。それに僕は帰ってくる時間が早いよ」
「そんなの、理久が優先だ。学校へはお父さんが送るし、理久が帰ってきたら仕事はしない」
「それなら一緒に暮らせないね」
「理久?」
「家族の誰かが無理をするとうまく行かないんだよ。お母さん、いつも言ってた。だから僕は一人で学校へ行く。放課後も僕は一人で待てるよ」
それは理久なりに考えた、新しい家族を始めるためのルールなのだろう。土門はこの少年の聡さと優しさに心底感心した。きっと亡くなった母親も聡明で心の広い女性だったに違いない。
「でも…」
「榎並さん。あなたは先ほど、理久くんを優先すると言った。それは守らないと」
土門の発した言葉に榎並はハッとしたようだ。
「わかったよ、理久。でも少しの間は理久のそばにいさせて欲しい。ずっと離れ離れだったんだから。いいか?」
「うん!」
ようやく理久は笑った。
それはマリコも初めて見る、本当にうれしそうな笑顔だった。
「よかったな」
土門とマリコは少し離れた場所から二人の様子を見ている。
「ええ」
忘れることは辛い。忘れられることも苦しい。
大切な人ならなおさら。
でも、とマリコは思う。
もし土門さんが私を忘れても、私が土門さんを覚えている。
理久も同じだろう。
目は見えなくても、母親の匂いや体温は理久の記憶に必ず残る。
土門さんだってきっと…。
ふと視線を感じて隣を見上げれば、土門がマリコを見つめていた。
「俺も同じだ」
「ええ」
それ以上は土門もマリコも何も言わない。それぞれの胸中では、理久のこと、そしてこれからの互いのこと、色々と考えているのだろう。
「マリコ!」
理久がマリコを呼ぶ。
「なあに?」
「お父さんがプリン作ってくれるって!マリコにも食べさせてやるよ」
「こら、理久。そんな言い方するな。榊さんにはお世話になったんだろう?」
「ちぇっ」
いじける理久の様子に、マリコは心が温かくなった。
きっと、この二人は大丈夫。
だって親子なんだから。
「榎並さんのプリン、楽しみにしていますね」
「刑事さんも食べたい?」
「むっ……頼む」
「仕方ないなぁ」
「りーくー!」
舌を出すお茶目な仕草に、父親は苦笑いをするだけだ。
前言撤回。
「甘やかしすぎないかしら?」と少しだけ、マリコは心配になった。
