あなたを忘れるくらいなら



「マリコ。ジュースが飲みたい」
「マリコ。おやつ!プリンがいい」
「マリコ!マリコ………いたっ」

「いい加減にしろよ、小僧💢」

小僧の首根っこをつかみ、米上をピクリと痙攣させているのは土門だ。

「何すんだよ。はなせー」

「榊は仕事中だ。静かにして…………………!?」

無茶苦茶にばたつかせた小僧の足が、土門の…いわゆる急所を直撃した。

背中を丸めてうずくまる土門。

「ど、土門さん!大丈夫ですか??」

宇佐見が駆け寄り、土門の腰を擦る。

「ぐぬぬぬぬ……この、クソガキ」

捜一仕込の睨みも、へっぴり腰では威厳も何もない。
土門に「クソガキ」と言わしめた少年は、被害者遺族という立ち位置にいる。

一昨日の早朝、アパートの一室で女性の死体が発見された。その時、部屋にいたのがこの「クソガキ」こと、大日方理久おびなたりく、7歳児である。
死亡していた女性は理久の母親だった。通報を受け、警察官が踏み込んだとき、理久は椅子に座っておもちゃのピアノを弾いていたという。
こう聞くと不思議に感じるかもしれないが、理久の行動には理由があった。

理久は生まれながらの全盲だった。
彼の目の前に広がるのは、果てなき闇。光も色もない世界。彼はそんな世界で、人生の一歩を歩みだしたのだ。戸籍上の父親はいなかった。それでも理久は、母親の愛情を一身に受け、障害を抱えながらもすくすくと成長していった。

しかし、そんな理久の生活は一変したのだ。
朝、目覚めてみると、母親の気配がない。呼びかけても答えがない。家の中を探すうち、ふと、理久の嗅覚が不快な匂いを捕らえた。五感の一つが不自由な理久は、聴覚と嗅覚がずば抜けて鋭かった。
匂いのするほうへ近づくと、何かが理久の足にぶつかった。触って確かめていくと、理久はそれが人であり、母親だと気づいた。そして、母はヌルリとした液体に濡れていた。
理久はパニックに陥った。誰かに助けを求めたいけれど、どうしたらいいのか分からない。だから、理久はピアノを弾くことにした。弾き続けていれば、きっと誰かが異変に気づいてくれる。
そう、信じて。

それが、理久が発見されるまでの経緯だ。
理久の父親が不明な以上、母親の親族を探しているが、交流を絶っていたのか、まるで手がかりがない状態だ。施設へ預けるにも、障害を持つ理久を受け入れ可能な所は空きがなく、理久の落ち着き先が決まるまでは、何故かマリコが理久を保護することになった。
というのも、会った瞬間、理久がマリコにだけ懐いたからだ。一言も言葉を交わす前から、マリコへ向かって走り出すと、白衣のポケットの辺りをぎゅっと掴んだまま離さなかったのだ。

とはいえ、目の不自由な幼子をマリコが面倒見られる訳もなく、マリコは一昨日から科捜研で寝泊まりしている。本人は不便とは思っていないようで、何なら何時まででも鑑定が進められるし、何時からでも始められるこの環境を喜んでさえいた。
しかし、面白くない者も1名。
土門だ。
マリコが科捜研へ泊まり込むということは、イコール、土門と二人きりで過ごす時間がなくなるということだ。
特にこの2日は、本当なら非番と有給を使い、二人で温泉に行く予定をしていたのだ。お互いの誕生日を祝うために。
しかし、それがっ!
大人げないと思いつつ…「クソガキ」というのが土門の偽らざる本心だった。


「理久くん。もう少しで終わるから待っててね」

マリコが鑑定室から顔を覗かせる。

「あら?土門さん、どうかしたの??」

「…………………」

「どうしたもこうしたもねぇ!」と怒鳴りたい気持ちをぐっと堪え、土門は深い、深いため息をつくのだった。


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