ビューティフル・ネーム
土門には大切に想う女性がいる。
それは科捜研の研究者、榊マリコだ。
二人は長い長い両片思いの末、つい先ごろ晴れて結ばれた。
しかしお互いにもういい歳だし、結婚にも失敗している。
この先、結婚という選択肢があるかどうか、今はまだ分からない。
付き合い始めたといっても、変わったのはプライベートで一緒に過ごす時間が増えたくらいだ。
そのことに大きな不満があるわけではない。
ただ。
ただ、何となく。
小さくてもいい、土門は何か目に見える変化がほしかった。
そんなとりとめもないことを考えながら科捜研に入ると、亜美がマリコの鑑定室を覗いていた。
「マリコさん、ひと休みしませんかー?」
続けて、宇佐見も声を上げた。
「マリコさん、お茶が入りましたよ」
自分の鑑定室から顔をのぞかせた日野も、「マリコくん、早く!」とせっつく。
日野は早月の手土産の饅頭に早くありつきたくてウズウズしているようだ。
「あら?土門さん」
鑑定室から出てきたマリコが気づいた。
「お…」
土門が返事をする間もなく、加瀬と君嶋が割り込んできた。
「マリコさん。この領収書、経費で落とすのは無理ですよ!」
「え!そこを何とか」
「無理です!だいたい何ですか、この高級ブティックのドレス代って」
「だってこの前の潜入捜査の時に、必要だって言われ…」
「マリコさん!出ましたよ!鑑定結果」
「ほんとう!それで、どうだった?」
ギャーギャー喚く加瀬を尻目に、マリコは君嶋との話に没頭している。
全員を見渡した土門は改めて気づいた。
みんながマリコのことを名前で呼んでいる。
土門がマリコを呼ぶときは、「お前」や「榊」と言うことが多い。
それはプライベートでも変わらない。
逆にマリコも土門のことは、「土門さん」と呼ぶ。
出会ったときから、ずっと変わらない。
ずっと変わらないということは。
もし、変えたらどうなるのか?
土門は何やら考え込むと、今来たばかりの科捜研から出ていった。
「あら?土門さんは?来てたわよね?」
「え?いませんよ」
「おかしいわね。鑑定依頼じゃなかったのかしら?」
マリコを筆頭に全員が首を傾げるが、すぐに話題は鑑定と饅頭へと移り変わっていくのだった。
その夜、土門はマリコの自宅を訪ねた。
「いらっしゃい。来るなら言ってくれればよかったのに…。うち、何もないわよ?」
「それなら買ってきた」
手にぶら下げたピールとつまみの袋をマリコに渡す。
「ありがとう。気が利くわね。上がって」
「ああ。邪魔する」
マリコはテーブルにグラスと取皿、箸を並べる。
冷えたビールを注ぐと、グラスはキレイな二層になった。
「お疲れさん」
「お疲れさま」
グラスを傾けると、喉を清涼感が流れていく。
「うん、美味しい!」
満足そうなマリコの表情に、土門は目を細める。
「なあ、榊」
「なに?」
「科捜研のみんなは、お前のこと…『マリコさん』って呼ぶよな」
「ええ。所長は『くん』だけど」
「俺も呼んでいいか?」
「え?」
「もちろん、こういう二人だけの時だ」
「えっと…」
「駄目か?」
「駄目…じゃないけど。急にどうしたの?」
「まぁ…。恋人らしいことをしたくなったのかもな」
意外な理由に、マリコは目を丸くした。
「お前も俺のこと、『土門さん』じゃなくて名前で呼んでくれ」
「わ、私も?」
「俺だけ名前呼びで、お前が『さん』づけなの、何だか変だろ」
「そ、そう?」
「そうだ。よし、早速練習してみよう。いいか?」
「う、うん」
「マ!…………………マ、マ」
「ママ?」
「ちがーう!くそっ。こっ恥ずかしいな」
今さら呼び捨てにするのは、思ったより勇気がいるようだ。
「今まで通りでもいいんじゃない?」
「俺はお前に名前で呼んでもらいたいし、お前のことも名前で呼びたいんだ」
そう言うと、土門は一気にグラスを空にする。
「俺も男だ!…マ、マ、………マリコ!」
「は、はいっ!」
鼻息荒い土門と、背筋を伸ばすマリコ。
「マリコ」
「はい」
「マリコ」
「な、なに?」
「マリコ」
「?」
「お前も俺のこと、呼んでみてくれ」
「……………………………………」
「マリコ?まさか、俺の名前を知らないのか?」
「知ってるわよ!」
「だったら、呼んでくれよ」
「呼び捨て?さんづけ?くんづけ?ちゃんづけ?それとも…さま?」
「後ろ3つは却下だ。それと、倉橋室長と同じ呼び方も嫌だ」
我ながら心が狭いと思うが、嫌なものは嫌なのだ。
「じゃあ…………薫さん?」
ヤバい。
上目遣いをするな。
ヤバい。
首を傾げるな。
ヤバい。
その声、可愛すぎるだろう!
色々、様々、
ヤバい。
「え?ち、ちょっと何!?」
ビールもつまみもそのまま、マリコはソファへ押し倒された。
「酔ってるの?薫さん」
……………やられた。
「すまん。頼んでおいてなんだが、名前呼びは自宅のときだけにしてくれ」
「どうして?」
「外で押し倒すわけにはいかんだろう」
「なっ!」
マリコは大赤面だ。
「そういうわけだ」
「ま、待って。薫さん!」
トドメの一撃。
「もう無理だから、黙ってくれ」
強制的に塞がれた唇が次に紡ぐのは。
切ない吐息と、甘い声。
fin.
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