fulfill



「今、帰った」

少尉が玄関で声をかけると、廊下の奥からパタパタと急ぐ足音が聞こえる。

「あなた、お帰りなさい。お勤めご苦労さまでした」

料理の途中だったのだろう。マリコはエプロン姿だった。数ヶ月ぶりに目にした恋女房は、いつにも増して愛らしく見えた。
しかし、肝心のマリコは少尉と目を合わせようとはしない。

「留守の間、代わりはなかっただろうか?」

「はい。何事もなく」

「そうか」

「長旅でお疲れになったでしょう?もうすぐ食事の用意ができますので、それまでくつろいでいてください」

マリコは台所へ戻っていこうとしたが、それを少尉が呼び止めた。

「マリコ。着替えを手伝ってくれないか?」

「は、はい」

連れ立って寝室へ入ると、少尉は軍服の上着を脱ぎ、マリコへ渡した。
それを受け取ると、夫の香りがした。久しぶりに嗅ぐその香りは、マリコが一番好きで、何よりも安らぐものだ。
マリコは無意識に、ぎゅっと軍服を抱きしめた。

すると突然、マリコの腰が引かれ、あっという間にマリコの体は少尉の胸の中に抱き込まれていた。

「あなた!離してください」

「なぜ?本人が目の前にいるんだ。抱きしめるなら軍服ではなく、こっちにすればいい」

「からかわないでください。私、夕飯の支度がありますから」

身をよじるマリコだったが、少尉の腕はびくともしない。

「そんなのは後で構わない」

そういうと、少尉は腕の中のマリコへ顔を近づけた。ところが、マリコはふいと顔を逸らし、俯いた。明らかに、少尉を避けている。

「………………マリコ。怒っているのか?」

マリコの肩がビクッと反応した。

「満州への出兵のこと、蒲原准尉から聞いたのだろう?心配をかけてすまなかった。しかし出兵の件は、ここを出る時はまだ軍事機密扱いで、たとえ家族でも漏らすわけにはいかなかったのだ。許してくれ」

少尉は顔を伏せたままのマリコの髪に口づけた。さらりとした黒髪からは、ほんのり甘い香りがした。

「マリコ。どうか機嫌を直してほしい。ようやくマリコに会えたというのに、避けられるのは…」

「怒ってなんていません!」

少尉の言葉を遮り、マリコははっきりと否定した。

「私、怒ってなんていません。軍のお仕事の中には家族にも言えない秘密の任務があることも承知しています。ただ、今の時世を思えば、九州へ行くと決まった時点で、出兵の可能性があることはわかったはずなのに。私は、そんなこと気づきもしませんでした。それどころか、浮かれたような手紙を何通も送ったりして…。私は、軍人の、いえ、あなたの妻として失格です。恥ずかしくて、あなたの顔なんて見れません…」

語り進めるうちにマリコは身を縮こませ、声は掠れて尻すぼみになっていく。

「マリコ。マリコ、顔をあげなさい」

少尉は嫌々と首を振るマリコの両頬に手を添えると、強引に、でも優しい手付きで自分を見るように促した。

「それは誤解だ。私はマリコから届く手紙を毎日心待ちにしていた。あの手紙のおかけで、緊迫した日々でも私は落ち着いて任務に当たることができた。任期が延びたこときも、毎夜月を見ることで、マリコを近くに感じ、この三月を乗り切ることができたのだ。失格なんてことは断じてない。私にはかけがえのない妻だ。だから、マリコ」

少尉がもう一度、マリコに顔を寄せると、その瞳にようやく自分の顔を映すことができた。
でもすぐに閉じてしまった。
代わりに、ほんの一瞬、少尉の唇に柔らかな感触が押し当てられた。

離れていくぬくもりを追いかけ、今度は少尉がマリコの唇を捕らえた。
もう遠慮はしない。
長く触れられなかった時間を取り戻すように、少尉はマリコを掻き抱き、何度も口づけを与えた。

息の上がったマリコには申し訳ないと思いながら、少尉は畳の上に妻を組み敷いた。

「あ、あなた。待って」

「それは聞けない願いだ。マリコ、もう…」

欲しい、と耳元で囁かれ、マリコの全身が震える。

「あなた…」



熱を分かち合った二人の裸体に、障子を通して西日が差し込んでいた。

マリコは夫の逞しい胸に顔を埋める。

「今夜は二人で満月が見れますね。まん丸で見事でしょうね」

「ああ。でも、夜でなくても月はきれいだ」

「え?」

見上げれば、夫の瞳の奥にはまだ情欲の残り火が小さく爆ぜていた。

「真昼に浮かぶ白い月もまた、きれいだよ。マリコ」

どんな意味を含んでいるのか、確かめることもできないまま、少尉の腕の中のマリコは、満ち欠けを繰り返すのだ。
迎え入れては満ち、離れては欠けていく。
何度も何度も。

そして、ようやく夜空に満月が浮かぶ頃。
満ちていく二人を、月の光だけが静かに見守っていた。



fin.


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