fulfill
「え?九州…ですか?」
「ああ。満洲への物資輸送頻度が増えるらしく、その監督業務代理を命じられた」
マリコは夫の言葉に、しばし言葉を失った。
マリコの夫は大日本帝国陸軍の少尉として、お国のために日々任務に励んでいる。
「期間はどのくらいなんですか?」
「おそらく2か月くらいだろう」
「そんなに…」
これまでも軍の仕事で、数週間程度家を留守にすることはあった。
でも、こんな長期は初めてのことだ。
「すまない、マリコ」
マリコは首を振る。
「お仕事ですから、仕方ありません」
「それは、そうだが……」
土門少尉は歯切れが悪い。
しかし、マリコは気づかなかったようだ。
物資輸送の監督業務というのは、本当だ。しかし場合によっては、少尉自身が満州へ渡る可能性はゼロではない。今のところ、日本と満州は概ね良好な関係を続けている。しかし、港の周辺では小競り合いや犯罪が多いのが実情だ。有事の際には、お国のために戦うことも覚悟しておかなければならない。
土門少尉は人知れず、ぐっと拳を握った。
九州へ出立する前の晩。
早めの風呂と食事を終えた二人は、夕涼みの散歩へ出かけた。
月明かりが煌々と降り注ぐ夜道を、言葉少なに歩くマリコと少尉。
ふいに、少尉がマリコの手を握った。
「あなた?」
「やっぱり、冷えてるな」
温かい時期でも、冷え性の妻の手はいつもひんやりとしている。夜風に吹かれれば、尚の事。その手は大分冷たくなっていた。
「家に戻ろうか?」
「もう少しだけ。駄目ですか?」
「いや。私は構わんが。風邪をひいたら……困るだろう?」
明日から、自分はいないのだ。
マリコが体調を崩しても看病してやることはできない。
「そう…ですね」
マリコにも少尉の考えていることが伝わったようだ。
なんとも言えない心苦しさを感じながら、少尉は家の方角へ歩き出した。せめてこれ以上、マリコの手が冷たくならないよう、妻の手は握ったままで。
「九州でも、あの月は見えますよね?」
ふと立ち止まり、マリコは夜空を見上げた。
「そうだ、マリコ。夜は月を眺めよう。離れていても、同じ月を見ることができる」
「同じ月…」
マリコは嬉しそうに「はい」と頷いた。
玄関で軍帽を被り、サーベルを装備した土門少尉は立ち上がるとマリコを振り返る。カツンと踵を合わせると、「行ってくる」と告げた。
「あなた。気をつけて」
頷いた土門少尉だったが、すぐに出ていくことはせず、何か言いたげな表情でマリコを見た。
「あなた?」
「マリコ。手紙…、手紙を書いてくれないか?」
「え?」
「今回は長く家を留守にする。家のことも気がかりだ。時々様子を教えてほしい」
本当はもっと別に知りたいことはあるのに、少尉は口に出せずにいた。
「………………」
「マリコ?」
「家のことだけでいいんですか?」
マリコはじっと少尉の顔を見つめる。
「何を言わせたいんだ?」
「あなたが…いじわる、だから、です」
マリコの声が涙に詰まる。
「泣かないでくれ。家のことより、本当はマリコが元気なのか、何をしているのか、知りたいからだ。離れていても、マリコを近くに感じたい」
「返事…くれますか?」
「うっ。と、得意ではないが、努力はする」
吃る様子が可笑しくて、マリコは泣きながら吹き出してしまった。
「手紙、出します。私も日々のこと、あなたに聞いてほしいから」
「待ってる」
少尉は涙を溜めた妻の頬を優しく撫でた。
「行ってくる。元気で」
「は……」
「い」と返事をする前に、素早くマリコの唇は塞がれる。
マリコが閉じた目を開けた時には、土門少尉はもう背を向け、歩き出していた。
「行ってらっしゃいませ。無事のお帰りを待っています」
マリコは、その背中へ深く頭を垂れたのだった。
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