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さて、この騒動から数時間前。
マリコは出勤の支度を整え、いつもの時間にマンションを出た。駐輪場で鍵を外していると、背後から男に声をかけられた。

「すみません。そのあたりに鍵、落ちてませんか?ストラップから外れてしまったみたいで」

マリコはぐるりと周囲を確認し、声の方を振り向いた。
と同時に、顔にスプレーを噴射され、マリコは思わず目を閉じる。そしてあっという間に、頭から袋を被せられた。

「な、に…を…………」

数秒後、マリコは意識を失った。



目を覚ましたとき、マリコは暗い室内にいた。まずは体を動かしてみる。予想通り、手と足は拘束されて動かない。しかしそれ以外、特に体に痛みなどはないようだ。確認を終える頃、ようやく目が暗闇に慣れてきた。可能な範囲で周囲を見回すと、白い壁の塗装が所々剥がれ落ちていた。下を見ると床には埃が積り、ゴミが散乱しているのが見えた。どうやらマリコは廃屋のような場所に監禁されているようだ。

「分析は済んだのか?」

冷ややかな男の声が、少し離れた場所からした。

「私に何の用?」

「はっ!『誰?』なんて間抜けな質問をしないのはさすがだな」

男は鼻で笑う。

「聞いたら答えてくれるの?」

「まさか!」

「だったら聞くだけ時間の無駄でしょ」

「話が早くて助かる。自分の立場はわかってるな?」

「監禁されてる。目的は何?」

「目的?そういえばちゃんと決めてなかったな」

「ふざけないで」

マリコもこの状況にいらだちを隠せない。

「ふざけてこんなこと、できると思うか?榊マリコ。俺はただあんたが憎くてな。殺してやりたいほど恨んでいる」

「だったら私を殺すの?」

「最終的にはな」

さらりと男は認める。
まるで今日の天気を話しているかのような自然な物言いが、かえってマリコは恐ろしいと感じた。人を殺すことに抵抗を持っていないかのようだ。

「だが、目的か…」

ふむ、と男は考え込む。

「あんた、独身だよな。好きな男はいるのか?」

「……い、いないわよ」

男はニヤリと笑う。
ほんの僅かな間を見逃しはしない。

「確か、科捜研の仲間に宇佐見とかいう男がいたよな?その男は独身だったはずだ」

この男はどこまで知っているのだろう…。
マリコに恨みがあるというのだから、ある程度の情報を握っているのはわかる。それでもマリコの自宅を調べ、自転車での出勤時間を把握し、職場とその人間関係まで知っている。興信所の人間でも雇わなければ、そう簡単に手に入る情報ではないはずだ。マリコは目の前の男に薄ら寒さを感じた。

「そいつか?そいつがあんたの特別な相手か?」

マリコの脳裏で黄色信号が点滅する。 
この男は、何かするつもりだ。マリコが特別だと思う相手に。

『特別』

そのフレーズを聞いて浮かんだ顔は、一つだった。

−−−−−お願い、どうか気づかないで。

「あなたには関係ないわ」

「ふうん。アタリか」

−−−−−彼に。


「よし、目的が決まった」

「……………」

「まずは宇佐見という男を殺してやる。お前を殺すのはそれからだ。さぞ悲しいだろうな。お前にとって特別な人間が自分のせいで死ぬのは」

「やめて!宇佐見さんは関係ない!!」

思わずマリコは叫ぶ。
男に立ち向かおうとしても、拘束された身では手も足も出ない。

「じゃあ、他にいるのか?特別な人間が??」

「………………」

マリコは答えられない。
答えられる訳がない。
だって、自分でも分からないのだ。

脳裏に浮かぶのは屋上で佇む姿。
風になびく赤いネクタイ。

特別な人……なのだろうか?


「ほらみろ」

勝手に納得した男は高笑いしながら部屋から出ていった。

マリコはうなだれる。

「最低な人間だわ、私」


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