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今から2年前、マリコはとある裁判で検察側の証人として出廷したことがある。それは殺人事件の裁判で、被告人は殺害を真っ向から否認し、その意を受け、弁護人は無罪を主張した。対して、検察は懲役二十年の実刑を求めていた。
本当に被告人が犯行を行ったのか。
争点は被害者の死亡推定時刻にあった。

解剖結果から導き出された死亡推定時刻に、被害者がまだ生きていたとする証言を弁護人が見つけ出したのだ。現在の死亡推定時刻にはアリバイのない被告人も、殺害時刻が変われば自らのアリバイを証明できるという。
そこで、マリコへ再鑑定依頼が舞い込んだのだ。

マリコは所轄署から届いた数々の資料をもとに、死亡推定時刻を検討した。
そこで一つの壁にぶつかった。
発見時の遺体の硬直具合、直腸内温度に矛盾はない。しかし、胃の内容物の消化具合に疑問が残ったのだ。
当然、捜査の段階でも同じ疑問は持ち上がっていた。しかし被害者の遺留品から発見された飲食店のレシートが決め手となった。
食後の消化時間には個人差がある。そのため、警察は遺体の硬直具合、直腸内温度、そして被害者が食事をしたと思われるレシートの時刻から算出した時間を死亡推定時刻としたのだ。
マリコも通常であれば、その結果に異を唱えることはしなかっただろう。しかし、不採用となった胃の内容物の消化具合…それは「個人差」で片付けるにはあまりにも不可思議だった。
何らかの理由で胃の活動が停止すれば、消化も止まってしまう。過去には数年間植物状態だったご遺体から、未消化の食品が検出された例もあるのだ。遺体の硬直や、直腸内温度にも個人差はあるし、周囲の環境によっても変化する。

マリコはそうした点を総合的に判断し、「死亡推定時刻を断定することは難しい」と法廷において証言した。つまり、提示された死亡推定時刻を否定することはできないが、かといって肯定できるだけの確証もないと言い切ったのだ。

結果、この裁判は今も続いている。
マリコの証言から、高裁は、死亡推定時刻から被告人を有罪と断ずることはできないとした。疑わしきは罰せずの法諺に従ったのだ。

マリコの一言で、被告人はある意味救われた。
しかし一方で、面白くないと感じる人間もいる。
被告人を逮捕した刑事だ。
これを手柄に県警本部へ栄転の内示が出ていた彼は、判決が決まるまで異動は白紙となった。



「おい、藤村ふじむら。休暇だって?」

「ああ。おふくろを施設に入れることにしたんだ。その手続きや引っ越しなんかで、な」

「そうか。おふくろさん、そんなに進んじまったのか…」

「ボケてるだけならいいんだが、徘徊するようになっちまってな」

「そりゃぁ、心配だよな」

「本当は、家で面倒見てやれりゃぁよかったんだが」

「こんな仕事してたら、無理ってもんだろ」

「だな。施設が見つかっただけでも御の字さ」

「わかった。せっかくだから、この機にゆっくり休んでこいよ」

「すまんな。頼むよ」

「おう!」

藤村と呼ばれた刑事と同僚は廊下で短い会話を交わすと、そのまま別れた。

愛知県警所属の藤村純也じゅんや巡査部長は、京都府警科学捜査研究所の榊マリコと浅からぬ因縁がある。といっても、藤村の方が一方的にマリコへの恨みを抱えているのだ。

一昨年、藤村はとある殺人事件捜査を担当し、犯人逮捕へ多大なる貢献をした。所轄のいち刑事に過ぎなかった藤村だが、この功績により、県警本部の捜査一課への異動が打診された。もちろん、藤村は快諾した。そして署内に内示まで張り出された所で、急に異動が中止になったのだ。
その原因はマリコだ。
有罪へ傾いていた被告が、マリコの証言によって振り出しに戻ってしまった。藤村は、今でも被告人の有罪を確信している。だからこそ、事件とは無関係にしゃしゃり出てきたマリコを許すことができずにいる。
その憎しみは日を追うごとに増し、異動話だけでなく、いつしか親の介護までマリコに責任を転嫁するようになっていた。

あの女さえいなければ、俺は今頃一課の刑事。そうすれば、おふくろだって、本当はもっと…。

ギリッと藤村は唇を噛みしめる。
意を決して車に乗り込むと、エンジンを始動する。カーナビの目的地は京都府警に設定されていた。


「もう間もなくだ」藤村は徐々に大きくなる京都タワーの先端を眺めながら、さらにアクセルを踏む。愛知を出る前、同僚に話した母親の引っ越しは嘘だ。本当はひと月前、すでに他界している。
藤村はこれから1週間の休暇を復讐のために使う。万一、計画が失敗し、懲戒免職になったところで構わない。自分はすでに天涯孤独なのだ。

「俺は一人だ。もうどうなってもいい。だが、榊マリコ。お前だけは必ず道づれにしてやる」

失うもののない人間の憎悪は深い。
藤村の目は昏く濁り、射し込む光さえ呑まれてしまう闇色をしていた。


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