Good-bye, Red dancer
翌日、土門は改めてマリコを自宅へ呼んだ。
はじめは渋っていたマリコも、土門の「話がしたい」という真剣な声色に、最後には折れた。
「あの子はどうしたの?」
マリコが部屋に入ると、窓際の水槽はきれいに洗われ、何も入っていなかった。
「お前の言う通りにした」
「そう…。それで話っていうのは?」
「ああ。お前に頼みがあるんだ」
「どんなこと?」
「今ここで、笑ってくれないか?」
「え?突然、どうしたの?」
「この部屋がお前にとって辛い場所になってほしくないんだ。ここにはお前との思い出が沢山ある」
長年の思いを伝えたのも。
初めて口づけを交わしたのも。
マリコが土門を受け入れてくれたその夜も。
二人の大切な思い出は、この部屋が知っている。
「でも…」
昨夜のことを思うと、マリコはとても笑える気分ではなかった。
「お前の気持ちもわかる。でも、もういいんだ。あの熱帯魚…ようやく還してやることができた」
土門はすっきりした顔をしていた。
あのベタは水絵の、土門に対する思いの欠片だろう。
『本当はあなたと生きたかった。』
『そんな女がいたことを、どうか忘れないで。』
土門も最初はそういう意味だと思った。
でも、もしかしたら。
水絵は土門の幸せを願い、それを見届けようとしていたのかもしれない。
出会った頃、自暴自棄になったように荒れていた刑事。いつもナイフみたいに鋭く尖った視線は、安らぎを知らない。
水絵の知る土門はそんな刑事だった。
それが再会したときには雰囲気が一変していた。
熱い正義感はそのままだが、しっかりと地に足を着け、落ち着きと自信を身にまとっていた。
水絵はすぐに気づいた。土門には大切な
悔しくて意地悪なことも言ったけれど、敵わないとわかっていたし、邪魔をする気もなかった。
ただ、かつて愛した男の幸せを望んだだけ。
だから水絵はベタを遺した。
この子が自分の元に還ってくるとき。
その時、土門は自分のことなど忘れ、きっと幸せな道を歩んでいるに違いない。
そう、願って。
でも、やっぱり自分との思い出も覚えていてほしい…そんな天の邪鬼な心を少しだけ込めて。
「これ以上は悲しむより、幸せに生きている俺の姿を見せたい」
誰にとは言わないが、マリコには通じたようだ。
「だから、お前の笑った顔が見たいんだ」
「そんな急に言われても…」
土門は水槽を持ち上げると、ガラスを挟んでマリコの正面に立った。
すると。
「え?………………ぷっ」
マリコの目の前には、これでもかと両頬を膨らませた土門の顔。
「な、何してるの、土門さん」
マリコは我慢しても声が震えてしまう。
「前にフグのマネをしたんだろう?俺もお前と同じようにしてみた」
「フグって」
どちらかといえは、アンコウ…?
「…………ぷぷっ」
もう一度頬を膨らませた顔に、とうとうマリコは吹き出してしまった。
「やっと笑ったな」
「ずるいわ、土門さん」
「いいじゃないか。お前の笑顔は魔法みたいだ」
「魔法?」
「お前が笑っていると、つい視線が向く。その笑顔に惹きつけられる。そしてそのまま目が離せなくなるんだ。まるで時を止める魔法にかかったみたいに。………今、この瞬間だって」
そう言ってマリコを見つめたまま動かない土門。
「……時が止まってしまったら、こうして土門さんに触れられない」
マリコは土門の手に、自分の手を重ねた。
「それは困る」
土門は眉を跳ね上げると、そのままマリコを引き寄せた。
「私は土門さんの笑顔も、涙も好きよ」
マリコは手を伸ばして、土門の両頬を包んだ。
「私にだけ見せてくれる顔なら、怒っていても好き。だから、私を見て」
促されるまま、土門は下を向く。
そこには笑顔のマリコ。
ーーーーー ああ、やっぱり。
ーーーーー こいつの笑顔には敵わない。
土門は止めていた息を、ふっと吐き出した。
「やっぱり見惚れちまって動けないな」
「うそっ。じゃあ、この手はなあに?」
先程から腰の辺りを彷徨う手をマリコはやさしく抓る。
「バレたか?」
大して悪びれた様子もなく、土門はさらに手を滑らせる。
「時が止まる前に、お前に触れたい」
慈愛と欲望の溶け合った瞳がマリコを見ている。
「そんな顔も…」
掠れた告白は、二人の吐息にかき消される。
マリコは土門に身を委ねた。
シーツの上で泳ぐのは赤い尾ビレではなく、2本の白い脚。まるで闘魚のように時に激しく、時に厳かに、そして時に艶かしく乱れる。
泳ぎ疲れ、眠ってしまったマリコに寄り添い、土門はその寝顔を見つめた。
ここに彼女がいる。それだけで。
「俺は幸せだ」
届いただろうか。
fin.
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