Good-bye, Red dancer
それから数日後。
土門とマリコが追っていた事件は無事に解決した。
「榊。明日非番だろ?」
「ええ」
「今夜、家でどうだ?」
土門はビールをあおる仕草をしてみせる。
「…………」
マリコは考え込む。ここ数日徹夜に近い勤務で、今夜はこのまま泥のように眠りたかった。土門の家にいけば、たぶんそれは叶わない。
いつからか“そういう関係”になっていた二人だ。
事件が解決し、明日は休み。そんな箍の外れた男女がひとつ屋根の下で、何もなくただ惰眠を貪れるとは思えない。
土門はそんなマリコの心の内を読んだのか、苦笑してみせた。
「疲れているのは俺も同じだ。何もしやしない。ただ…隣が空っぽなのは、何だか落ち着かなくてな」
「私はペットじゃないわよ」
土門は「そうだな」と笑う。
いっそ物言わぬペットなら、家に置いて、危険な目に遭わせることも、他の男とのことで嫉妬することもなかっただろう。
思った以上に疲れているのだろうか。
そんな破滅思考に陥りそうな土門は、ふと、家に置いたままの唯一の生き物のことを思い出した。しかしそれも、「わかったわ」というマリコの返事を聞くと、すぐに脳裏から消えていった。
土門とマリコが食料を買い込んで家に着くと、もう時間は9時に近かった。散らばった靴もそのままに、二人はひとまずソファに倒れ込んだ。
「ふぅー。やっと一息ついたって感じだな」
「ええ。買ってきたものを冷蔵庫にしまわなくちゃ」
「もう少し後でもいいだろう」
そういうと、土門はマリコにのしかかる。
「土門さん!」
咎めるようなマリコの声に「これくらいは許してくれ」と囁くと、土門はマリコの唇だけを味わった。疲れてはいても、土門の心地よい重みと、体温、慣れた香りにマリコの息は上がっていく。このまま流されそうな雰囲気になったところで、土門がピタリと動きを止めた。
「土門さん?」
土門はマリコから離れると、吸い寄せられるように窓際に近づいて行った。しかしその視線は窓ではなく、床に置かれた水槽に向けられていたようだ。土門は水槽の前で、ただ立ち尽くした。
「どうしたの、土門さん」
土門の様子を訝しみ、マリコも近寄ってきた。
「あっ…」
マリコは一声だけ発すると、あとは言葉を失った。
カーテンのドレープの影になった水底に、赤い魚が沈んでいた。無防備に腹を上向け、意志もなく、ただゆらゆらと朱色の尾びれを漂わせて。
1年ほど前になるだろうか。土門はそれまでボトルで熱帯魚を飼っていたのだが、熱帯魚を飼育している署員の勧めで、水槽に移すことにしたのだ。
土門は水槽に設置したモーターが止まっていることに気づいた。
「故障しているな」
ベタは比較的飼育しやすい熱帯魚だが、それでも水温や水質の調整は必要だ。
土門が事件のために家を空けたのは10日ほど。けれど、その前からヒーターが止まっていたのかどうか、土門に記憶はない。日々の忙しさに追われ、最近ではこの水槽に目を向けるのは通販で餌が届くときだけだった。
土門はキッチンから小さな皿を持ってくると、水槽に手を入れ、そっと沈んだ体をすくう。皿に乗せるとティッシュで滑る体を拭き取った。
「埋めてやろう」
しかしマリコは首を振った。
「土に埋めるとガスが発生するかもしれないし、もし病気で死んだのだとしたら、掘り返した動物が食べて病原菌を広めてしまう可能性があるわ」
「じゃあ、どうするんだ。川に流すのか?」
「それもダメなの。……かわいそうだけど、ゴミとして処分するしかないわ」
「ゴミ…」
同じ命ある生き物なのに、死後はこんなにも人と差が出てしまうのか…。
土門はいたたまれない。
土門にとってこのベタは単なる観賞用の魚ではないのだ。
「ごめんなさい。酷いこと言って」
「いいや。お前の言うことが正しいだろう。ただ何というか…気持ち的にな」
「そう、よね」
マリコは床に置いたままだったバッグを手に取る。
「帰るわ」
「え?」
「今夜は“彼女”と一緒にいてあげて」
「待て、榊」
土門はマリコの腕を掴む。
振り返ったマリコは、何とも言えない表情をしていた。
「私だって、今夜ここにいるのは辛いわ」
マリコの脳裏を占めるのは、屋上で涙を流していた土門の顔だった。
マリコの言葉に躊躇った土門は、瞬間腕の力を抜いた。マリコはそれをすり抜け、そのまま出ていった。
ひとり遺された土門。
目の前には赤い小さな骸。
数日前、現場で見た彼女の幻は虫の知らせだったのかもしれない。
「水絵、すまない」
また自分は彼女を救うことができなかった。
深い後悔の念が土門を襲う。
けれど、その感情はいくつもの事件の被害者に抱いてきたものと大きく変わらない。
妻の有雨子も水絵も、大切な人だった。
だから、訃報を聞いたときは悲しんだ。
もう、全て過去形でしかない。
土門は両手を広げる。
かつて古久沢という科学者を捉えるため、マリコは体を張ったおとり捜査に挑んだ。
生か死か。
そのギリギリの冷たい体を抱き上げた感触が今もその手には残っている。
ーーーーー 喪うかもしれない。
凄まじい焦燥と不安。
これだって過去の出来事なのに、まだ土門は過去形として語ることはおろか、思い起こすことさえ脳が拒否している。
理屈ではない。
つまりはそういうことなのだ。
土門はベタの体を丁寧に紙で包み、ビニール袋に入れると、ゴミ集積場へ向った。