恋に落ちていく二人
この日から二日後。
マリコは土門に屋上へと呼び出された。必ず一人でくるようにと、念を押されて。
マリコが重い足取りで扉を開けると、青空の下にはすでに土門が待っていた。
「よう。鑑定ご苦労だったな」
「いえ。それより、何か用?」
「ああ。大事な用だ」
「なに?」とマリコは土門を見上げる。
「垣谷に告白された」
「……そう」
「驚かないのか?」
「え?」
「てっきり嘘だろうとか、信じられないとか笑われると思ったんだがな」
「そんな……笑ったりしないわ」
「ふぅん。やっぱりか」
「?」
「お前。垣谷のこと、知ってたな?近頃、屋上へ来なかったのもそのせいか?」
「ここへ来れなかったのは鑑定が詰まっていたからよ。みゆきさんのことは関係ないわ」
それは事実だ。
「わかった。だが、垣谷のことは否定しないんだな」
「………………」
マリコは答えられない。
「あいつに何か言われたのか?」
「………………」
マリコは無言を貫く。
「榊!」
痺れを切らせた土門が、マリコの腕を掴んだ。
「…………聞かれたのよ」
渋々、マリコは答えた。
「何を?あいつに何を聞かれたんだ?」
「土門さんに恋人はいるのかって」
「それで?」
「わからないって」
「そう答えたのか?」
「そうよ」
嘘ではない。実際、マリコは土門に恋人の存在を確かめたことなどないのだ。だから本当にわからないのだ。
「そうか」
しばらくの後、土門はそう口にした。
「一つ聞かせてくれ。お前は垣谷がなぜそんなことを知りたいのか、理由は聞いたか?」
「聞いた、わ」
つまり、マリコはみゆきが土門に告白することを知っていたことになる。
「お前はそれを聞いてどう思った?」
「どう…って」
マリコは目を泳がせる。
「彼女の恋が上手くいくように応援しようって」
「おいっ!」
突然土門は怒鳴ると、マリコの背を壁に押し付けた。
「本気で言ってるのか!」
燃えるような瞳の色は怒り。
「痛いわ、土門さん」
マリコは眉を潜めるが、土門は力を緩めない。
「だって。……だって、仕方ないじゃない。土門さんに恋人がいるかどうかなんて、私は知らない。それなら、先輩としてみゆきさんを応援するのが当然でしょう」
「先輩後輩は関係ないだろう。お前は俺と垣谷が付き合うことになってもいいと本気で思ったのか?」
マリコはうつむく。
「いいわけがない!」と本当は叫びたい。でもそれをしてはいけない、する権利などないと、彼女の笑顔がマリコを裁くのだ。
「榊、まだ…芦屋のことを引きずっているのか?」
土門がぽつりと口にした。
芦屋瑞稀。元滋賀県警科捜研の職員だ。
とある事件で、マリコと瑞稀は共に事件を追うことになった。若い瑞稀はマリコに憧れて科学者となり、いつかマリコと一緒に働くことを夢見ていた。
ようやくその夢が叶った矢先、瑞稀は犯人に殺害されてしまった。一人で証拠を探していたときの出来事だった。優秀な若い後輩を喪った哀しみはマリコを打ちのめした。平静を装っていたけれど、表には出さずとも、マリコは長いこと苦しんでいたのだ。
「垣谷はお前に憧れていたり、どことなく芦屋に似ている。だからお前は彼女に芦屋を重ね、ずっと抱いていた罪悪感から、あいつの願いや希望を叶えてやりたいと思ったんじゃないのか?」
「そんなこと…」
「ないと言えるか?」
「…………………」
心のうちを見透かされたマリコは答えられない。
「芦屋の死はお前のせいじゃない。犯人のせいだ」
土門は顔を逸らすマリコの両肩に手を置くと、自分のほうを向かせた。
「いいか。芦屋はお前に憧れ、お前と一緒に仕事をしたいと言っていた。あいつが見たいのは、生き生きと科学に向き合うお前のはずだ。決して自分の死に責任を感じて俯くお前じゃない。それにな、榊」
土門はマリコの肩を掴む手にぐっと力を込めた。
「垣谷は、芦屋じゃない」
「!?」
その一言は、マリコの鎖を壊した。頭ではわかっていても、ずっと心が悲しみに引きずられていた。マリコは誰かにそう言い切って欲しかったのかもしれない。
垣谷みゆきは、垣谷みゆきだ。
芦屋瑞稀ではない。
「そう、よね」
マリコは顔を上げる。
「二人を混同してしまうなんて、みゆきさんにも瑞稀さんにも失礼よね」
「芦屋のことを忘れろとは言わん。だが、枷にするのはやめろ」
マリコは頷いた。
土門にはマリコよりも、マリコ自身のことがわかっているようだ。
「土門さんてすごいわ」
「ん?」
「私のこと、何でもわかってしまうのね」
土門は苦笑した。
「それは…」
土門はいいかけて止めた。
「そうだ。俺には何でもわかるぞ。だから、お前の望みもわかる」
「望み?」
「そうだ。お前が俺に、垣谷へどう答えて欲しいのか、それもわかる」
「うそ!」
「本当だ」
「どうして?どうしてわかるの?」
「お前のことだからだ」
「どういう意味?」
「他のやつのことなんて、俺には全くわからん。でも、お前のことだけはわかる。ずっと見ていたんだ、隣で。ずっとお前だけを…。だから、俺にはわかる。お前が俺に断って欲しいと願っていることが」
「私は!」
「違うか?違っているか、榊?」
「土門さん…」
マリコは顔を歪める。
「私、何て答えればいいの?」
「正直に。心のままに答えればいいさ。俺はそれを聞きたい」
「私は………嫌なの!」
マリコは両手を握ると、ぎゅっと目を閉じた。
「嫌なの。他の誰かと土門さんが屋上にいるのが。私との時間が盗られたみたいで、嫌なの」
ようやく聞けた。マリコの答え。
土門がそっとマリコの両手を包むと、マリコは目を開けて土門を見た。
「それから?」
「私だけ見ていて欲しい、いつも」
そういうと、「ごめんなさい」とマリコは声を震わせる。
「こんなワガママ、土門さんには迷惑よね」
「それだけでいいのか?」
「え?」
マリコのワガママは、土門には心地いい調べにしか聞こえない。ずっと想っていた相手が嫉妬し、なおかつ駄々をこねているのだ。可愛い以外の何ものでもない。もっと嫉妬して欲しいし、もっと求めて欲しいとさえ感じる。
「そんなこと、もうずっと前からやってるぞ。いつもあの時間に屋上へ行くのは、お前に会いたいからだ。それにさっきも言っただろう。俺はずっとお前だけを見てきたんだ。もっと他にないのか?」
叶うだろうか。
マリコはためらいがちに、一番の願いを初めて言の葉に乗せた。
「私を。私を…土門さんの恋人にしてくれる?」
土門は答えるより先にマリコを抱きしめた。
「もちろんだ。俺もそうしたかった。もうずっと、ずっと前から。だから垣谷にもそう伝えた。俺には恋人にしたい女がいると」
それは昨日のことだ。
いつものように屋上で顔を合わせたみゆきは、土門へ自分の気持ちを伝えた。
「気持ちは嬉しい。だが、俺には好きな女がいる」
「それはマリコさんですか?」
「そうだ」
土門は躊躇うことなく答えた。
「もぉ…。マリコさんだって土門さんが好きなくせに、何してるんだろう」
みゆきは思わず頭を抱える。
「そう言うな。お前は知らないだろうが、あいつは過去に囚われている。心に大きな苦しみを抱えているんだ」
「そこまでわかってるなら、土門さんから動けばいいんじゃないですか?」
「俺はあいつの支えにはなってやりたいが、負担にはなりたくない。あいつ自身が答えを出すまで、待つつもりだ」
「待つって…1年も2年もかかったらどうするんですか?」
「待つさ。ここまできたら1年も2年も変わらん」
みゆきは開いた口が塞がらない。
「そういうわけだ。もうここには来るなよ」
「え?」
「そこは、あいつの場所だ」
土門は隣に立つみゆきに、顎をしゃくって見せた。
自分の隣に立つなと、土門はみゆきに伝えたのだ。
「言われなくても、もう来ませんよ」
告白しに来たはずが、振られたうえにアテられて帰ることになるなんて釈然としない。でも何だか憎めないのだ。まるで中学生のような恋愛をしている大人たちを。
みゆきはくすっと笑うと、土門より先に屋上を出ていった。
土門はマリコの頬に手を添えると、少しだけ腰を落として視線を合わせた。
「恋人になったこと、確かめてもいいか?」
頷いて目を閉じるマリコに、土門はそっと口づけ、すぐに離れた。想像していたよりずっと温かくて柔らかなマリコの唇。
「何だか夢みたいで、信じられないな」
もう一度確かめたくて、今度はもう少し長く唇を合わせる二人。
これからは土門の隣はマリコだけのもの。
その視線も唇も独り占めできる。
口づけを解いても見上げてくるマリコに何か勘づいたのだろうか。片眉を上げると、土門はこんなことを言った。
「言っておくが、お前も俺だけのものだぞ。他のやつに目を向けるなよ」
やっぱり、土門さんには何でもわかってしまう。
でもそれは、私だけを見ていてくれるから。
マリコは満足そうに答えた。
「ええ。私も、土門さんだけよ」
見つめう瞳に互いの姿だけを映して、マリコは踵を上げる。
三度重なる唇はこれまでよりも深く、長く…。
二人、恋に落ちたなら。
何度でも重ねよう。
手のひらを。
唇を。
鼓動を。
幾重にも重ねよう。
言葉と。
想いと。
この、愛を。
fin.
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