アラカルト
10月最後の日、マリコは一人でmicroscopeを訪れた。
「いらっしゃいませ、榊さま。今夜はお一人ですか?」
「後から土門さんが来る予定なんですけど、ちょっと時間は分からないんです。待っていてもいいですか?」
「もちろんです。先に何かお作りしましょうか?」
「では『マリコ』…待って。今夜はマスターおすすめの一杯をお願いします」
「かしこまりました」
マスターは少し考え込むと、新しいグラスを準備する。そこからは迷うことなく、流れるような手付きでアルコールを調合していく。
「お待たせしました」
「これは?」
「カルーアミルクです」
「……………甘くて美味しい」
マスターは微笑むと、カウンターの奥へ戻っていった。
口当たりの良いカルーアミルクは、マリコの喉をするすると落ちていく。何度かお代わりをするうちに、マリコはトロンと瞼が重くなってきた。
『ニャア』
ひらりとマリコの隣の椅子に舞い降りたのは、この店の看板猫。
「あら、オパール。こんばんは」
『ニャー、ニャー、ニャー』
「大丈夫よ。眠ったりしないから…」
そういったそばから、マリコは欠伸をかみ殺す。
「土門さん、まだかしら…」
『ニャ?』
「そこはね、土門さんの席なの。土門さんが来たら、どいてあげてね。オパール……………」
カクン、と首が揺れ、マリコはカウンターに突っ伏してしまった。
「……リコ、マリコ!」
夢の中で誰かが自分を呼んでいる。
「土門さん?」
しかし目を向けた先に居たのはオパールだった。
「目が覚めた?」
「オパール!あなた、言葉が喋れるの!?」
「ここはマリコの夢の中。私はマリコの想像のオパールだよ」
「どういうこと?」
「今のマリコは、私と話すことを望んでいる。だから、私は言葉が話せる」
「よく分からないけど…。オパールと話せるのは嬉しいわ。ちょうど聞いてほしいことがあるの」
「土門のこと?」
オパールの目が光る。
「そう。今日はハロウィンでしょう?職場でも昼休みにお菓子を配ったりしたのよ。だから土門さんにも渡そうと思ったら、俺はいらん、ですって」
マリコはぷぅと膨れる。
「ちょっとしたお遊びなのに、感じ悪いと思わない?」
オパールはクックッと笑う。
「マリコ、カルーアミルクは美味しかった?」
「え?ええ」
「それは良かった。ところでカルーアミルクのカクテル言葉は知っているかい?」
「カクテル言葉?いいえ、知らないわ」
「そう。それならそろそろ起きるといいよ。待ち人来たる、だ」
「え?」
夢うつつの状態でマリコは顔を上げた。すると、いつの間に来たのか隣には土門がいた。
「おはよう、ねぼすけ」
「何よ、遅刻してきたくせに」
マリコは土門の一言で、すこぶる機嫌が悪くなった。土門はすまん、と苦笑する。
「何を飲んでいたんだ?『マリコ』じゃないよな?」
「カルーアミルクよ。マスターのおすすめなの」
「そいつはまた…」
土門は天を仰ぐ。
「マスター。例のものを」
「はい」
マスターはなんの変哲もない紙袋を土門に渡した。
「土門さん、それは何?」
マリコは興味が湧いた。
「榊。Trick or Treat?」
「私、今はお菓子なんて持っていないわ」
「それならTrickだな」
ふっ、ふっ、ふっ、と土門は怪しい笑顔で紙袋に手を入れた。
「な、なに?」
思わず身を仰け反らすマリコ。
「ほら、Trickだ!」
突然目の前に迫って来たモノに驚いて、マリコは思わず目を閉じた。すると、ポンと手のひらに固い感触。
恐る恐る目を開けたマリコが見たのは、紫の箱に金のリボンが結ばれた小さな箱だった。
「開けてみろよ」
マリコは何が何だかよくわからないままにリボンを解いていく。蓋を開けると、中にはMという文字のキーホルダーが入っていた。
「これは?」
「お前、時々家の鍵が見つからなくて、バックの中身をぶちまけてるだろ?これにつけておけば、少しは見つけやすくなるかと思ってな」
「パープルサファイアですね?美しい」
土門の前にウィスキーを差し出したマスターが呟く。
「さすがマスター。よくご存知ですね」
「たまたまです。お話に割り込んで失礼しました。どうぞごゆっくり」
マスターは非礼を詫びると、二人の会話が聞こえない距離まで離れる。
「パープルサファイアって高価なんじゃない?」
「お前が家の鍵をなくす方が高くつくだろ」
そういって土門は笑う。
「ありがとう。大切にするわ」
「そうしてくれ」
土門はウィスキーで喉を潤す。
「ところで機嫌は直ったのか?」
「あ、ねえ。どうしてお昼のときはお菓子がいらない、なんて言ったの?」
「ああ。先にお菓子(Treat)をもらったら、これ(Trick)を渡せないだろ?」
「そんな、別にお菓子くらいいいじゃない」
「それに。甘いものをもらうなら、お菓子よりこっちのほうがいい」
土門は厶ニッとマリコの唇を摘んだ。酔いだけでなく赤くなるマリコに、土門は優しく微笑む。
「あと一杯飲んだら、出よう。何にする?」
「それじゃあ、同じもの…」
「それは、もうやめておけ」
「え?」
「カルーアミルクには、『いたずら好き』という意味があるんだ。もういたずらは終わっただろう」
マリコは、ようやくカルーアミルクのカクテル言葉を知った。マスターは土門のサプライズを知っていて、マリコにカルーアミルクを出したのだ。
「いたずら好きはマスターの方ね」
マリコはクスッと笑うと、『マリコ』をオーダーした。
一連の様子を眺めていた看板猫は、床で体を丸める。その七色の瞳には、こっそりテーブルの下で手を繋ぐ男女の後ろ姿が映っていた。
『ニャア…』
振り返ったマリコの耳には、『ハッピーハロウィン!』と聞こえた気がした。
fin.