アラカルト
洛北医大からの帰り、マリコと土門は並んで京都府警のエントランスをくぐる。
「あら!あれって…」
マリコはエレベーターの前に立つ男性に目ざとく気づいた。
「榊?」
「土門さん、先に戻っていて!」
「お、おい!」
土門を残し、マリコはエレベーターへ向う。
「拓也!」
マリコの声は澄んでいて、遠くからでもよく聞こえる。
たから、その声が呼ぶ名前を聞いて、土門は眉を潜めた。
「マリコ!今から科捜研に顔を出そうと思っていたんだ」
「すれ違いにならなくてよかったわ」
「どこかに行っていたのか?」
「うん、解剖の帰りなの。拓也は出張?」
マリコは可愛らしく首をかしげて、相手に問いかける。
「ああ。今夜は京都に泊まって、明日は大阪だ」
「忙しいのね」
「まあ、刑事指導連絡室長なんてパシリみたいなものだからな。しかし解剖の帰り…となると、今夜は忙しそうだな?」
「?」
「せっかくだし、食事でもどうかと思ったんだ」
「うーん」
マリコは薄い唇をほんの少し尖らせる。
「難しいか?」
「食事じゃなくてもいい?休憩時間に近くのカフェでコーヒーくらいなら」
「構わないよ。どこかおすすめはあるかい?」
「そうねぇ…」
そこでエレベーターの扉が開く。
二人は談笑したまま、箱の中へと消えていった。
「………あいつ。楽しそうだったな」
土門は無表情でつぶやくと、捜査一課へ足を向けた。
「さむっ!なんか今日はやけに寒くないか?」
「ああ。外は晴れてるのにな…」
土門とすれ違う署員たちは、みな一様にぶるりと体を震わせるのだった。
倉橋は科捜研での挨拶を済ますと、その足で藤倉の元を訪れた。
一通り連絡事項を済ませると、倉橋の仕事は終わりだ。
「今夜は京都に一泊ですか?」
「そのつもりだったんですが、たった今メールが届きまして。急な仕事で大阪出張は中止になりました。このままとんぼ返りです」
「お忙しいですな」
「お互いさまでしょう」
藤倉も否定はせず、苦笑いを見せた。
倉橋は帰京することになった旨と、ドタキャンとなってしまった詫びのメールをマリコへ送った。
しかし京都を離れる前に、倉橋には会っておきたい人物がいた。
そこで藤倉に仲立ちを頼み、二人は連れ立って捜査一課に顔を出した。
「土門」
「はい?」
「倉橋室長がお前に話があるそうだ。少しいいか?」
「はい」
土門は倉橋に会釈する。
「土門刑事。ダイエット菌の事件の際はご苦労さま」
「いいえ。倉橋室長にはご迷惑をおかけしました」
「とんでもない。事件のこと、さっきマリコから詳しく聞いたよ。随分と彼女の無茶に付き合ってくれたらしいね。ありがとう」
「…………………ないです」
「え?」
「あなたに礼を言われる筋合いはないです」
「おい、土門!」
藤倉が土門の発言をたしなめる。
緊迫した空気の捜査一課。
ちょうどそんな時に、渦中の人物が姿を見せた。
「拓也、帰るってどういうことなの?」
「マリコ、ごめん。急な仕事が入ってさ、上司からの命令なんだ」
「そっか…」
マリコはしゅんと眉を下げる。
「ごめん。お詫びに東京へ戻ったら、君の好きなお菓子でも送るよ」
「約束よ!」
ぱっと明るくなる表情。
「ああ」
「私、鑑定中だから戻るわ。またね、拓也」
マリコを見送ると、倉橋は土門に一言。
「昔から、僕の前だとあんなふうに表情がころころ変わるんだ」
他意はないのかもしれない。
しかし、土門は何も言い返すことができなかった。
マウントを取られた格好で、ただ藤倉とともに倉橋の背中が小さくなるのを見ていることしかできなかった。
むしゃくしゃした気持ちのまま終業時刻を迎えると、マリコからLINEが届いた。
『土門さん、今夜は定時であがれる?』
倉橋との約束の穴埋めに、自分を使おうというのだろうか。
随分と安く見られたものだ。
『わからん』
送信とともにアプリを終了しようとしたが、すぐに返信がきた。
『夕飯はどうするの?』
「………」
しばらく悩んだ後、家で食べる、と送った。
それに対する返事はなかった。
結局、土門はまっすぐ自宅へ帰る気には到底なれず、屋台で1杯引っ掛けると、寒空の下、酔いを覚ますつもりでぶらぶらとマンションまで歩いた。
するとオートロックのそばで、立ったまま分厚い本を読んでいる人影に気づいた。
「榊!」
マリコは本から顔を上げる。
「土門さんの嘘つき。やっぱり飲んで帰ってきたのね」
唇を尖らせて詰る姿は、いつもならいじらしく見えるのに、今夜はどうしても倉橋の顔がちらつく。
「悪いか?俺は倉橋室長の代わりじゃねえ」
久しぶりに出た乱暴な口調に、マリコは目を丸くしている。
「拓也の代わり?どういう意味?」
「白々しいぞ。倉橋室長との約束が無くなったから、俺に声をかけたんだろう?はっ。俺も落ちぶれたもんだな」
「何を言ってるの?拓也と約束したのは休憩時間のお茶だけよ」
「それはお前が忙しいからだろう?鑑定が無かったら、食事だけじゃなくて……」
いかがわしい妄想に、土門は辟易した。
「鑑定がなくても、拓也とはその時間しか会うつもりは無かったわ。だって今夜は土門さんと約束していたじゃない」
「俺と?」
「忘れたの?多幸金」
あっ、と土門は小さく叫んだ。
そうだ。
今夜は多幸金の新メニューを食べに行こうと、つい先日約束をして、予約までしたのだ。
「しまった!予約…」
「私がキャンセルしておいたわ」
「すまん」
つまらない嫉妬で、マリコに迷惑をかけてしまった。
「土門さんの機嫌が悪いのは拓也のせい?彼が何か言ったの?」
マリコはじっと土門を見ている。
倉橋の前ではあんなに楽しそうだったのに、今はどうだ。
自分の前では、マリコは不安そうな顔をしている。
「お前、倉橋室長の前だと楽しそうだ。表情も豊かだし、俺も見たことのないような顔をしている時もある」
「そうかしら?自分ではよく分からないわ」
「だけど、今のお前は不安そうだ」
「それはそうよ。土門さんが怒っているかもしれない、って心配なんだもの」
「………」
「ねえ、土門さん。昔のことは分からないけれど、今の拓也と私は、仕事を除けば楽しく笑ってお喋りすればそれで十分な関係よ。でも土門さんとは違うわ」
「どう違うんだ」
「もっと深く土門さんを知りたいの。今何を見ているのか。どんな気持ちなのか。あなたのことをもっともっと知りたいの。どうしてだか分かる?」
聞きたい。
言わせたい。
こんな嫉妬深い男のワガママを、マリコは許してくれるだろうか?
「好きだからよ」
「榊!」
思わず伸ばした腕をマリコはすり抜ける。
「ここ、エントランスなのよ。防犯カメラに映っちゃうわ」
マリコはぷっと頬を膨らませる。
そんな顔も、今は土門しか目にできないのかもしれない。
それだけじゃない。
顔を近づけたときの嬉しそうで、でも困ったような表情も。
口づけを解いた後の艷やかな視線も。
押し倒したときに一瞬驚く顔も。
今は全部土門だけのものなのだ。
そんなこと、分かりきっていたはずなのに。
倉橋室長の一言に動揺した自分が情けない。
「だったら俺の部屋で見せてくれ」
「え?」
「色んなお前を。俺だけが知っているお前の顔を。今夜一晩かけて」
「いいだろう?」と甘く囁やけば。
コクリとうなずく朱の
今夜の土門の心臓を鷲掴みにしたのだった。
fin.