アラカルト
▶130000番さまへのお礼
130000番を踏んでいただき、ありがとうございます!
**********
師走の早朝、マリコは着信音で起こされた。
「うーん、もし、もし?」
「まあちゃん!」
「父さん?どうしたの、こんな時間に。まだ5時よ?」
マリコはため息をつく。
あと一時間半ぐらいは眠れたはずなのに。
「まあちゃん、落ち着いて聞いて。母さんが倒れたらしいんだ」
「え?母さんが?待って、『らしい』ってどういうこと?」
「父さんは昨日から出張で、今、仙台にいるんだ」
「じゃあ、母さん、一人だったの?」
「うん。幸い、自分で救急車を呼ぶことができたみたいでね。病院に運ばれたそうだ。父さんは始発で戻る。まあちゃんはどうする?」
「今日はどうしてもやらなきゃいけない鑑定があるの。どうしよう……」
「わかった。病院に着いて容態を確認したらすぐに連絡するから。電話が繋がるようにはしておきなさい」
「わかった。父さん…」
「大丈夫だ。母さんは孫の顔を見るまでは、絶対に死ねないと言っていたからね」
「母さん……たら。父さん、お願いね」
新幹線ホームに移動するという伊知郎に、マリコは電話を終えた。
「マリコさん、マリコさん!」
「え?キャァ!」
パリンと乾いた音が響く。
マリコの足元には茶器が砕けていた。
「宇佐見さん、ごめんない!」
慌ててしゃがみ込むマリコを、宇佐見が制した。
「大丈夫です。マリコさん、手を怪我するといけませんから」
手早く宇佐見は破片を集め、ゴミ袋にまとめた。
「マリコさん、どうしたんですか?何か悩み事でも?」
宇佐見は心配そうにたずねた。
朝から、どことなくマリコは心ここにあらず、といった様子なのだ。
「失礼します。ん?何かありましたか?」
科捜研にやって来た土門は、その場の何ともいえない雰囲気に首をかしげた。
「あ、いえ。マリコさんが…」
「私がね、茶器を割ってしまったの」
宇佐見のセリフに被せるように、マリコが言った。
「そうか。怪我はないか?」
「ええ」
そういって頷くものの、マリコの顔色はあまり良くないように土門の目には映った。
「何か…あったか?」
「……………大丈夫よ」
『嘘だな』。
土門にはピンときた。
「榊。少し出られるか?」
そういって、土門は僅かに上を見た。
「先に行ってて。片付けてから行くわ」
「わかった」
土門が屋上で待っていると、ほどなくしてマリコはやってきた。
「土門さん、なに?」
「それはこっちのセリフだ」
「え?」
「何があった?」
「何にも…ないわよ」
「嘘だな」
「な、何で?」
「お前な…。何年一緒にいると思ってる?しかも俺は刑事だぞ。嘘を見抜くことが仕事だ。そんな俺を騙せるとでも思ってるのか?」
「……………」
「もう一度聞く。何があった?」
「母さんが。……倒れたって」
「なに!?」
「朝、電話があって…。父さん、から」
訥々とマリコは語る。
「容態はどうなんだ?」
「わからない…」
何度も何度も首を振る。
そうして自らの不安を払拭しようとするかのように。
「父さんが。後で連絡くれることになってる。でも。大丈夫。私は大丈夫よ」
マリコは気丈に言い張る。
土門は思った。
この寒さを差し引いても、マリコの顔は青白い。
その顔のどこが大丈夫だというのか。
『どうして泣かない?』
『どうすれば笑顔にできる?』
『俺に何かできることはないのか?』
『榊のために』
−−−−− 榊のため…?
瞬間、土門は呼吸を止めた。
それは。
それは、どういう意味だろう。
土門は変わらず不安気なマリコの表情を見つめる。
考えるより先に、体が動いた。
悩むより先に、言葉が零れた。
土門はマリコを抱き寄せた。
「ど、土門さん?」
「俺の前で我慢するな。泣いちまえ」
「で、も」
「ここには俺とお前だけだ」
「ども…さん…ふ、くっ」
小さくしゃくりあげるマリコ。
土門はマリコが落ち着くまで、そのままじっとしていた。
すると、白衣のポケットから着信音が聞こえた。
相手を確認すると、マリコはすぐにスマホを耳にあてた。
「もしもし、父さん!?母さんは?」
そういったきり、マリコは父親の言葉に黙って耳を傾けた。
「そう。わかったわ。うん、うん。じゃあ、父さん。よろしくね」
通話を終えると、マリコはほっと息を吐いた。
「榊?」
「ノロウイルス感染症ですって」
「は?ノロ…なに?」
「冬に流行する胃腸炎よ。昨日の昼頃から嘔吐下痢が酷かったみたいで、脱水症状を起こして倒れてしまったみたい」
「それで、大丈夫なのか?」
「二、三日入院すれば大丈夫だそうよ」
「そうか……」
土門も緊張に詰めていた息を吐き出した。
「お前、明日休めないのか?」
「え?」
「鑑定の予定は?」
「明日は、特に急ぎのものは…ないわね」
「だったら、休みをとって見舞いに行くか?俺は明日非番なんだ。ドライブがてら送ってやるぞ」
「土門さん…ありがとう。そうしようかな」
やっと、笑みが浮かんだ。
それはまるで。
越冬にほころんだ、小さな紅梅。
控えめだけれど、芳しい香りを放ち人々を魅了する。
その笑みが、土門の心にも雪解けを知らせる。
春一番が運んできたのは、恋心。
fin.