花でも枝でも幹でもなく



すでに面会時間は過ぎていたが、救急外来でマリコが名前を告げると、受付の職員が扉を開けてくれた。

「榊さんは3階の集中治療室です。奥様もご一緒ですよ」

「集中治療室…」

マリコの身体が強ばる。

「ありがとうございます。行くぞ」

代わりに応え、土門はマリコを支えるようにエレベーターへ向かう。

「しっかりしろ。大丈夫か?」

「ええ。ええ。ごめんなさい。大丈夫よ」

深く息を吸い込み、マリコは目を閉じる。
そして次に目を開いたとき、そこにいたのはいつもの榊マリコだった。
不安も戸惑いもある。
それでもマリコは、伊知郎の背中を見て育った科学者だ。
伊知郎のためにも、いずみのためにも、マリコはしゃんと背筋を伸ばした。


エレベーターを降りると、目の前の長椅子にいずみの姿があった。
肩をすぼめて座りこんでいる母の姿は、今まで見たことがないほど小さかった。

「母さん」

「マリちゃん!」

いずみは“ふにゃり”と顔を歪ませると、マリコの手を取り、額を押し付けた。顔は見えないが、鼻をすする音がする。

「母さん、父さんの容態は?」

「今は麻酔で眠ってる。脳梗塞だったの。手術自体は成功して容態は安定しているけど、目が覚めてみないことには…」

「後遺症があるか、分からないのね?」

「先生はそう言ってたわ。だけど、父さんは運がよかったのよ。倒れたとき、ちょうど仕事で隣の大学の法医学教室にいたの。だから解剖医の先生がすぐに応急処置をして、そのままストレッチャーでこの病院まで運んでくれたの」

何という強運か。
土門でさえ、目を丸くして聞いていた。

「あら。あなたは確か…京都府警の刑事さんでしたね?」

「そうよ。土門さん。父さんとも面識があるから、心配して一緒に来てくれたの」

「まあ…。ありがとうございます」

「いえ。自分で役に立てることがあれば、何なりと言ってください」

「助かりますわ。早速だけど、二人にお願いがあるの」

「なに?」

「父さんの着替えを取ってきてもらえないかしら?」

「わかった。入院に必要そうなものも、適当に買ってくるわ」

「お願いね」

「そういえば母さん、ご飯は?」

「え?」

いずみは、ようやく壁の時計を見た。

「もうこんな時間!?」

「もしかして、朝から何も食べてないの?」

「それどころじゃなかったもの」

「駄目よ!ちゃんと食べないと、今度は母さんが倒れちゃう」

どの口が、という言葉を土門は飲み込む。
同じ思いだったのか、いずみもようやく表情を明るくした。

「マリちゃんに言われるなんてねー」

「もう!私は本気で心配して…」

「ハイ、ハイ。マリちゃんの言う通りね。何か食べるものも買ってきてくれるかしら?」

「だったら、母さんも一度家に帰らない?多分、父さんは朝まで起きないわよ」

「看護師さんもそう言ってたわね」

「でしょう?」

「だけど、私はここにいるわ」

「母さん?」

「父さんが目を覚ましたとき、側にいてあげたいの。あの人、いつも寝起きの第一声が『母さん、お茶』なんだもの」

思い出してクスっと笑ういずみは幸せそうだ。
伊知郎といずみは、マリコにとっては両親だが、二人は夫婦なのだ。そこにはマリコでさえ割り込めない繋がりや想いがあるのだろう。

「榊。ひとまず買い出しに行こう。必要なら、お袋さんの送迎はまたすればいい」

「わかったわ」

土門の提案に、マリコも素直に頷いた。

「土門さん、よろしくお願いします」

土門は思わず、いずみの顔を見た。
いくら伊知郎の知り合いとはいえ、マリコと共に現れたことを考えれば、いずみも娘と土門の関係には気づいたことだろう。
その上での「よろしくお願いします」なのか、深い意味はなく、自分の穿ちすぎなのか…。
いずみの真意を判断できず、土門はただうなずくしかなかった。

この先のことは誰にも分からない。ただ、土門はこの機に、マリコとの将来にケジメをつけようと決めていた。
何があっても、マリコは自分が支える。
その気持ちは揺るがない。
その決意をマリコの両親へ伝えたかった。いずみと、そして伊知郎へ、自分の口から直接。


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