花でも枝でも幹でもなく
インターフォンを押すと、誰何もなく扉は開いた。
「不用心だな」
「ちゃんと土門さんだって確認したわ」
「そういうことにしておく。支度はできたのか?」
「ええ」
マリコは小ぶりなスーツケースを玄関に置いていた。
「よし、行こう」
マリコのスーツケースは土門が引き受け、マリコは小さなバッグだけを肩にかけると、しっかりと施錠した。
二人を乗せた車は夜の高速を滑るように走る。
「お前は寝ておけ」
土門は前を向いたまま、マリコへ言った。
「眠くないわ」
興奮でアドレナリンが出ているのだろう。マリコの目も頭も冴えきっていた。
「だったら、目を閉じて休んでろ。向こうへ着いたら、お袋さんの手伝いがあるんじゃないのか?」
「そうか、そうね」
「ああ。お前がお袋さんを支えないとな」
「うん」
土門の言う通りだ。いずみは、いつも伊知郎の愚痴ばかり言うが、本当は正反対。夫にぞっこんなのだ。だからきっと、今は無理して気丈に振る舞っているに違いない。
マリコは助手席に深く座り直すと、言われた通り目を閉じた。
瞼の裏には幼い頃の父との思い出が浮かんでは消えていく。
最後に会ったのはいつだろう?
もっと一緒に過ごせばよかった。
もっと話をすればよかった。
「父さん…」
マリコの口が他の男を呼ぶのは気に入らないが、その人だけは例外だ。
土門は聞こえないふりをしてアクセルを踏み込んだ。
それからは途中パーキングで短い休憩を挟む程度で、土門は横浜まで走り続けた。
「どうする?家に行けばいいのか?」
「母さんに聞いてみるわ」
マリコが電話をかけると、いずみはまだ病院だと言う。
「土門さん、病院へ行ってくれる?」
「わかった」
短く答えると土門はハンドルを切った。
マリコは土門のこういうところが好きだ。状況を素早く理解し、無駄口を叩くことなく、要望に的確に応えてくれる。
そして。
「お袋さんのことも心配だろうが、お前一人で無理はするな。俺がいる」
マリコが欲しいときに、欲しい言葉をくれる。
『そんな土門さんが、私は…』
声に出さず、マリコはじっと土門の顔を見つめた。
「何だ?」
「何でもないわ」
「???変な奴だな。人の顔をじっと見て」
「後で…。後で話すわ」
『父さんのことが落ち着いたら…』
それを今のマリコは口に出せない。
どう落ち着くのかはこれからのことだ。
「わかった」
それでも、土門には伝わったようだ。
信号で車が止まった一瞬、マリコはハンドルを握る土門の手に、そっと自分の手を重ねた。
「ありがとう」の意味を込めて。