春心
「聞かないのか?」
「え?」
「昨日の屋上のことだ」
「……………」
マリコは答えない。
「質問を変える。気にならないのか、俺が涌田になんて返事をしたのか」
「………………」
尚もマリコは黙ったまま。
しびれを切らした土門の方が話を進めることにした。
「断った」
「え?」
「だから、涌田の告白は断った」
「どうして?亜美ちゃん、カワイイし、あんなにいい子なのに…」
自分の心とは裏腹に、マリコの口は勝手に動く。
断ったと聞いて、本当はホッとした、よかったと思っているのに。
そんなマリコの嘘な答えに、土門は不愉快そうに眉根を寄せた。
「仕方ないだろう。俺は別に好きな女がいるんだから」
ホッとしたのもつかの間。
マリコはまたしても奈落の底に突き落とされた。
「へ、へえ。土門さん、好きな人がいたのね」
「俺は、仕事が恋人のお前とは違うんだ」
「失礼ね。私にだって好きな人くらいいるわ……え?」
突然、マリコはすごい力で土門に腕を掴まれた。
「土門さん?痛いわ。離し…」
「誰だ?」
「え?」
「お前の好きな男は誰だ?」
「そんなこと、土門さんには関係ないでしょ」
「俺の知っている奴か?」
「どうしてそんなに知りたいの?」
「知りたいからだ」
「そんなの理由になってない。どうしても知りたいなら、土門さんの好きな人を教えて。そうしたら私も答えるわ」
そんなふうに言えば、土門は引き下がるだろう。
しかし、マリコの見通しは甘かった。
「いいだろう。教えてやる。だから、お前も教えろ」
「本気?」
「当たり前だ。いいか、俺の好きな女は色白で…」
語り始める土門の声を遮るように、マリコは慌てて両耳を覆った。
『やっぱり聞きたくない。聞いてしまったら、もうこの関係性には戻れない』
土門はそんなマリコへ手を伸ばし…。
両の頬を、ムニッと摘んだ。
「ちょっ!」
驚いたマリコは、耳から手を離した。
その隙きを逃さず、土門は手を広げて、今度はマリコの顔を包み込んだ。
「最後まで聞けよ、榊。俺の好きな女は…」
向き合う二人の視線は重なり、もうどちらも逸らせずにいた。
「何より科学が第一で、仕事が恋人で、白衣の似合う………お前だよ」
「…………………………え?」
マリコが声を発するまでの間に、土門の顔はマリコへ近づいてくる。
息遣いを感じるほどの距離で、土門は言った。
「俺はお前が好きだ。お前の好きなヤツは誰なんだ?」
「私は……………」
「答えないなら、このままキスするぞ?」
マリコは瞳を潤ませながら、顔を上向け、そっと目を閉じた。
「榊?」
マリコの名を呼ぶ土門の声は、心なしか震えていた。
「それがお前の答えと思って……いいか?」
声にならない囁きに、マリコは、コクンと頷いた。
ようやく想いが通じ合い、口づけを交わした二人は離れがたく、手をつなぎ寄り添う。
「お前の気持ち、今夜ちゃんと聞かせてくれ」
「今夜?」
「ああ。中途半端にお前に触れて、このまま収まるわけないだろう」
土門がマリコを抱きしめると、マリコは下腹部に感じる違和感に顔を赤くした。
「この責任は取ってもらうぞ」
「言いがかりよ」
「仕方ないだろう。お前にしか鎮められない。それとも別の女に頼んでいいのか?」
「だめっ!」
「榊?」
「だめ。それは…絶対にだめ。いや…なの」
まるで子どもが駄々をこねているようだ。
可愛らしい嫉妬に、土門は非常に気分をよくした。
「わかってる。お前だけだ。もうずっと。他の女でなんか満足できるはずがない。だから、榊」
「私…。すごく、その…久しぶり、だから」
「逆に嬉しいぞ?」
「バカ」
「これからは『久しぶり』なんて言葉は使わせない」
「もう!」
口を尖らす仕草さえチャーミングで、土門は油断するとまたすぐに体中の熱が集まりになる。
しかし、間もなくこの部屋の主が戻ってくるだろう。
名残惜しいのはマリコも一緒だ。
手を繋いだまま、もう一度だけキスを交わして。
二人はそれぞれの職場へ戻っていった。